第12話 背中の盾と、覚醒のダンス・パフォーマンス
「クゥーン……」
朝七時。田村範朝が目を覚ますと、分厚い大胸筋の上に、温かくて小さな毛玉が乗っていた。
数日前にライブハウスの裏で拾った柴犬の赤ちゃん、『ダイズ』である。
ダイズは短い前足をジタバタと動かし、田村の太い首筋に湿った鼻先を擦り付けて、朝の挨拶をしてきた。キャラメルのような明るい茶色の被毛は驚くほど柔らかく、ほんのりとミルクと日向の匂いがする。
「おはよう、ダイズ。腹が減ったか」
田村が大きな手のひらで頭を撫でると、ダイズは「キャン!」と嬉しそうに短い尻尾をちぎれんばかりに振った。身長185センチ、体重90キロの屈強な筋肉の塊と、体重わずか数キロの小さな子犬。アンバランス極まりない光景だが、田村にとってダイズの存在は、日々の激務を癒やす最高のセラピーとなっていた。
田村はベッドから起き上がり、朝食の準備に取り掛かる。
自分のための鶏胸肉のグリルと山盛りのブロッコリーを焼きながら、小鍋でダイズ用の特製ドッグフードを用意する。高品質なパピー用ドライフードをぬるま湯で柔らかくふやかし、細かくほぐしたササミと、消化に良い茹でたサツマイモのペーストをトッピングした、栄養満点の特別メニューだ。
「よし、待て」
田村が餌皿を床に置くと、ダイズは短い足を踏ん張ってピシッとお座りをした。
賢い子だ。田村が「ヨシ」と声をかけると、ダイズは夢中で皿に顔を突っ込み、フガフガと鼻を鳴らしながら猛烈な勢いで朝食を平らげていく。その丸っこい背中と、一生懸命に動く小さな耳を見ているだけで、田村の脳内には大量のオキシトシンが分泌され、肩の凝りがほぐれていくのを感じた。
「さて、今日も仕事に行くか」
田村はパツパツのスーツを着込むと、胸元にすっぽりと収まる専用の犬用スリングにダイズを入れ、高天原プロダクションの事務所へと向かった。
「ああっ! ダイズちゃん、今日も可愛いわね! ほら、妾が最高級のビーフジャーキーをあげるわ!」
「ウオオオッ! 綱引きだ! ダイズ、アタシとパワー勝負しようぜ!」
「ふふっ、マネージャー君の胸の中にいるダイズちゃん、場所を代わってほしいくらい羨ましいわ……」
事務所に到着するなり、ダイズは神無月のメンバーたちに囲まれ、もみくちゃにされていた。
タマモは気高く振る舞おうとしているが、ダイズの肉球を触った瞬間に頭の帽子がモコッと持ち上がり、激しい静電気で髪の毛が獣の耳の形に丸まってしまっている。森田は犬用のロープを全力で引っ張り合おうとして田村に止められ、サラはスリング越しの田村の大胸筋を熱っぽい目で見つめていた。
「おはよう、田村……。ダイズ、おはよう」
そこへ、ダボダボのジャージを着た和田佐千絵が、少し眠そうな目をこすりながら近づいてきた。
彼女はそっと手を伸ばし、ダイズの背中を優しく撫でる。ダイズは気持ちよさそうに目を細め、和田の手首をペロペロと舐めた。和田の表情が、ふにゃりと柔らかく崩れる。
先日、アンチコメントによる極度のストレスで過呼吸を起こし、部屋のエアコンを暴走させていた和田だが、田村のフレンチトーストとピニャコラーダ、そしてダイズのアニマルセラピーのおかげで、メンタルの調子はかなり回復しているようだった。
「みんな揃ってるわね。それじゃあ、今日のスケジュールを発表するわ」
特別顧問の宮崎真琴が、パンパンと手を叩いてメンバーの注目を集めた。
「初ライブの熱狂を冷まさないために、YouTube用の『ダンスパフォーマンス・ビデオ』を撮影するわ。定点カメラで、あなたたちのダンススキルを世界中にアピールするための重要なプロモーションよ」
真琴の言葉に、メンバーたちの顔つきが引き締まった。
特に、グループのダンス・ビジュアル担当である和田の役割は重要だ。彼女のしなやかで圧倒的なダンスが、このビデオのクオリティを左右すると言っても過言ではない。
「撮影は、地下の防音スタジオで行うわ。照明もカメラもプロの機材をセッティング済みよ。さあ、着替えて地下へ降りなさい」
地下防音スタジオは、数台の強力なLED照明と、三脚に固定された高性能なシネマカメラによって、本格的な撮影現場へと変貌していた。
「よし、立ち位置について。まずはカメラテストから行くわよ」
真琴の指示に従い、神無月の四人がカメラの前に立つ。
だが、その瞬間だった。
ピシッ……ピキピキッ……!
スタジオの空気が、急激に冷え込み始めた。
まるで巨大な冷凍庫の扉を開け放ったかのような猛烈な冷風が床を這い、カメラの三脚や照明のスタンドに、うっすらと白い霜が張り付いていく。
「おいおい、またスタジオの空調がおかしくなったのか?」
田村は眉をひそめ、天井のエアコン吹き出し口を見上げた。
(高性能な照明機材を大量に持ち込んだせいで、スタジオ内の室温センサーが異常な熱を感知し、エアコンが限界突破で冷風を吹き出しているんだな。結露まで凍りついている。全く、この老朽化したビルは設備トラブルが絶えない)
田村が空調設備の不具合として冷静に状況を分析している間にも、室温はみるみるうちに低下していく。
原因は、センターの隣に立つ和田だった。
和田はカメラの黒いレンズを凝視したまま、ガタガタと激しく歯の根を鳴らし、完全に硬直していたのだ。
「和田、どうした? 顔色が悪いぞ」
田村が声をかけるが、和田の耳には届いていないようだった。
彼女にとって、カメラのレンズの奥には「無数のアンチの悪意ある視線」が渦巻いているように感じられるのだろう。先日の実況配信でのトラウマがフラッシュバックし、極度の緊張と恐怖で体が完全に凍りついてしまっているのだ。
「……むり。見られてる。怖い……手が、足が、動かない……っ」
和田の瞳からハイライトが消え、彼女の足元の床材から、放射状に真っ白な氷の結晶が広がり始めた。
タマモや森田が心配そうに声をかけるが、和田の震えは止まらない。急激な室温低下によって、ついにカメラのレンズまでもが結露で真っ白に曇り始めてしまった。
(このままでは、結露で高価なカメラの基盤がショートしてしまう。それに、極度の緊張による過呼吸で、和田が倒れてしまうかもしれない)
田村は、スリングの中でスヤスヤと眠るダイズを真琴に預けると、迷うことなくカメラの前へと歩み出た。
ドンッ、と。
身長185センチ、体重90キロ。パツパツのスーツに身を包んだ威圧感の塊のような巨体が、和田の目の前に立ちはだかった。
和田の視界から、黒いカメラのレンズも、照明の眩しさも、スタッフの目線も、すべてが田村の分厚い背中によって完全に遮断された。
「た、田村……?」
和田が、震える声で田村の広い背中を見上げた。
「和田。視線が怖いなら、俺の後ろに隠れていい」
田村は、カメラに背を向けたまま、和田に向かって静かに、しかし腹の底から響くような力強い声で告げた。
「カメラのレンズも、画面の向こうのアンチの目も、俺のこの背中で全部遮ってやる。どれだけ悪意が飛んできても、俺の筋肉とスーツが全て弾き返してやるから安心しろ」
田村はそう言うと、親指で自分の肩越し――和田の本来向くべき正面を指差した。
「だから、下を向くな。俺の後ろに隠れたままでいいから、前を見ろ。お前がこれまで積み重ねてきた最高のダンスを、俺の背中越しに見せつけてやれ」
田村の言葉は、極めて物理的で、不器用な励ましだった。
だが、その圧倒的な質量を持つ背中から発せられる熱量と、絶対に揺るがないという安心感は、和田の恐怖を完全に塗り潰すには十分すぎた。
「……うん」
和田は大きく深呼吸をした。
目の前には、どんな悪意も寄せ付けない巨大な壁がある。その事実が、凍りついていた和田の心と筋肉を、春の雪解けのように温かくほぐしていった。
ピタリと、和田の身体の震えが止まる。
同時に、スタジオ内を吹き荒れていた異常な冷風が収まり、床に広がっていた霜がスゥッと水滴に変わった。
(よし、照明の熱でスタジオの温度が安定してきたな)と、田村は一人で納得した。
「音楽、お願いします」
和田の声には、もう微塵の震えもなかった。
真琴がニヤリと笑い、タブレットを操作してダンストラックを再生する。
重低音が響いた瞬間。
田村の背後に隠れていた和田が、横へと大きくステップを踏み出し、カメラの前にその姿を現した。
それは、文字通り『覚醒』のパフォーマンスだった。
普段の引きこもりゲーマーの姿からは想像もつかないほど、しなやかで、力強く、そして透き通るような色気に満ちたダンス。和田の長い手足が空気を切り裂くたびに、急激な温度変化によって生じた結露が、真っ白な霧となって彼女の周囲を美しく舞い踊る。
まるで、猛吹雪の中で舞う雪の精霊のような、息を呑むほどに幻想的で圧倒的なビジュアルだった。
「す、すごい……っ! なに今のキレ! 寒気じゃなくて、鳥肌が立ったわ!」
タマモが驚愕の声を上げ、森田もサラも、和田の別次元のダンスに圧倒されて動きが止まりかけていた。
「他の奴らも、和田に負けるな! 全力で踊れ!」
カメラのすぐ横に退避していた田村が檄を飛ばす。
その声にハッとした三人も、和田の圧倒的なパフォーマンスに引っ張られるように、限界を超えたキレのあるダンスを披露し始めた。
四人のエネルギーが完璧にシンクロし、カメラの前で凄まじい熱量とグルーヴを生み出していく。
結露による天然のドライアイス効果と、照明の光、そして彼女たちのパフォーマンスが三位一体となり、奇跡のような映像がカメラに記録されていった。
「……カット! OK、最高よ!!」
曲が終わり、真琴が興奮気味に叫んだ。
スタジオ内に、割れんばかりの拍手が響き渡る。
「はぁっ、はぁっ……」
和田は肩で息をしながら、少しだけ頬を紅潮させていた。
彼女の瞳に、もうカメラに対する恐怖はない。やり切ったという確かな自信と、清々しい達成感が宿っていた。
「よくやった、和田。完璧なダンスだったぞ」
田村が歩み寄り、分厚い手で和田の頭をポンと撫でる。
和田は「んっ」と目を細め、田村の太い腕にスリリと頬を擦り寄せた。
「……田村の背中、大きくて、あったかかった。……ありがとう」
和田がふにゃりとだらしない笑顔を見せると、真琴の腕の中で目を覚ましたダイズが「ワン!」と元気よく吠えて、和田を祝福した。
「よし、冷房と霧で体が冷えただろう。上に上がって着替えたら、俺が温かい豚汁と特製おにぎりを作ってやる」
「……うん。お肉、多めがいい」
トラウマという厚い氷を物理的な背中の盾で叩き割り、和田を完全に覚醒させた田村。
最強のマネージャーと子犬のダイズに守られながら、神無月のメンバーたちは着実に、トップアイドルへの階段を駆け上がっていくのだった。




