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第11話 凍りつく自室と、絶品メープルシロップの南国錯覚法

 地下ライブハウスでの初ライブの大成功から数日後。

 高天原プロダクションの所属アイドル『神無月』のメンバーたちは、熱狂的なファンを獲得し、次なるステップに向けてそれぞれの個人活動に力を入れ始めていた。


 その日の深夜。

 田村範朝は、事務所ビルの3階にあるタレント居住エリアの廊下を歩いていた。

 各メンバーの体調管理や、部屋の設備の不具合をチェックするための定期巡回である。元ITエンジニアの田村にとって、深夜の稼働は全く苦にならない。


「……ん?」


 田村は、廊下の奥にある和田佐千絵の部屋の前で足を止めた。

 ドアの隙間から、尋常ではないレベルの白い冷気が、ドライアイスの煙のように床を這って漏れ出している。ドアノブに手を伸ばすと、金属の表面が完全に凍りつき、びっしりと真っ白な霜が張り付いていた。


(おいおい、なんだこの異常な冷え込みは。いくら老朽化したビルとはいえ、エアコンのサーモスタットが完全に壊れて冷媒ガスでも暴走しているのか?)


 田村はパツパツのスーツの腕をさすりながら眉をひそめた。

 ドアノブは凍りついて回らなかったが、田村が分厚い手のひらで包み込み、丸太のような前腕の筋肉を隆起させて力任せに捻ると、バキィッ! という氷の砕ける音とともにあっさりと鍵が開いた。


「和田、入るぞ。エアコンの調子が……」


 部屋に入った瞬間、田村は思わず息を呑んだ。

 部屋の中は、まさにマイナス30度の『業務用冷凍庫』そのものだった。

 壁紙は完全に凍りついて白く変色し、天井の蛍光灯からは氷柱がぶら下がっている。カーテンは板のように硬直しており、田村の吐く息は一瞬で真っ白な霧となって視界を遮った。


「ひぐっ……うぅっ……」


 部屋の奥、LEDライトが鈍く光るゲーミングPCの前に、すっぽりと毛布を被ってうずくまる和田の姿があった。

 彼女はガタガタと激しく歯の根を鳴らしながら、涙目でマルチモニターを睨みつけていた。


(なるほど。ゲーミングPCの排熱を処理するために、強力なスポットクーラーか何かを限界突破で稼働させているのか。それにしても異常な寒さだ。和田は完全にパニックを起こして過呼吸気味になっているな)


 田村がモニターを覗き込むと、和田はアクションゲームの実況配信を行っている最中だった。

 しかし、画面右端を猛スピードで流れるコメント欄は、目を覆いたくなるような惨状だった。


『初ライブの客、絶対サクラだろww』

『顔出ししないのはブサイクだから?』

『ゲーム下手すぎ。見ててイライラする』

『声が暗い。アイドル辞めちまえ』


 有象無象のアンチコメントの嵐。

 どうやら、初ライブの噂を聞きつけた一部の心ないネットユーザーたちが、和田の個人配信に押し寄せて荒らし行為を行っているらしい。引きこもりでネット弁慶な和田にとって、自分の聖域を土足で荒らされるストレスは計り知れないものだったのだろう。


「……むり。もう、やだ……怖い……っ」


 和田の震えが強くなるにつれて、さらに部屋の温度が急降下していく。彼女の被っている毛布にまで霜が降り始めている。


(ネットの誹謗中傷による極度のストレスで、体温調節機能がバグっているな。このままでは命に関わる)


 田村は一切の躊躇なく和田の背後に立つと、彼女の手からマウスとキーボードを奪い取った。


「た、田村……?」

「少し休んでいろ。俺が処理する」


 田村はモニターに向かい、元ITエンジニアとしての本領を発揮した。

 彼の分厚く太い指先が、ゲーミングキーボードの上で残像が見えるほどの異常なスピードで踊り始める。

 タタタタタタタタッ!! ターンッ!!

 田村は瞬時に配信のモデレーター権限を掌握し、荒らしのアカウントを片端からIPブロックし、スパム報告を機械的な精度で連打していった。さらに、残った視聴者に向けて『本日の配信は機材トラブルのため終了します。悪質なコメントに対しては、プロバイダ経由で法的措置を検討します』という冷徹なアナウンスを打ち込み、配信をブツリと強制終了させた。


「よし。これで外野のノイズは完全に遮断した」

「あ……ああ……」


 和田は呆然として真っ暗になったモニターを見つめていたが、依然としてその身体の激しい震えは止まっていない。部屋の異常な冷房も稼働し続けている。


(外部のストレス要因を排除しても、一度極限まで冷え切った身体と心はすぐには元に戻らないか。それに、この暴走したエアコンを直すには業者が来るまで待つしかない。ならば、内側から強制的に熱を生み出させるしかないな)


「和田、そのまま毛布に包まっていろ。すぐに身体が温まる最高の特効薬を作ってやる」


 田村は部屋の隅にあった小さなミニキッチンに歩み寄った。

 こんなこともあろうかと、田村のポケットには常に非常用の食材と調味料が忍ばせてある。


「まずは、南国の錯覚だ」


 田村は携帯用の小型ミキサーを取り出し、そこにココナッツクリーム、完熟パイナップルの100%ジュース、そして少量のレモン果汁を投入した。

 本来の『ピニャコラーダ』はラム酒ベースのカクテルだが、未成年のような繊細なメンタルになっている和田にアルコールは厳禁だ。田村が作るのは、濃厚な甘みとトロピカルな香りが脳を直撃するヴァージン・ピニャコラーダである。

 氷の代わりに、部屋の寒さで勝手にシャーベット状に凍りついていたパイナップルジュースを利用し、ミキサーで一気に撹拌する。

 ギュイイイィィンッ! という音とともに、雪のように真っ白で滑らかなフローズンドリンクが完成した。


「極寒の部屋で冷たいドリンクを飲むのは自殺行為に思えるかもしれないが、この強烈なココナッツとパイナップルの香りは、人間の脳に『ここは常夏の南の島だ』という強烈な錯覚を引き起こす。これでまずは視覚と嗅覚から寒さを誤魔化す」


 田村はグラスに注いだピニャコラーダを和田のデスクに置くと、休む間もなくメインの調理に取り掛かった。


 ミニキッチンのIHコンロに、持参した小さな鉄のフライパンを乗せる。

 そこに乗せたのは、あらかじめ卵と牛乳、たっぷりの砂糖で作ったアパレイユに丸一日漬け込んでおいた、極厚のフランスパンだ。

 バターを溶かしたフライパンで、弱火でじっくりと表面を黄金色に焼き上げていく。甘く香ばしい匂いが、マイナス30度の冷気を切り裂いて部屋中に充満し始める。


「そして、ここからがプロの技だ」


 田村は別の小鍋を取り出し、そこにカナダ産の純度100%ダークメープルシロップをたっぷりと注ぎ込んだ。

 そこに、無塩バターのかたまりを惜しげもなく放り込み、中火にかける。


 グツグツ……ジュワァァァ……!


 メープルシロップが沸騰し、バターが溶け合って濃厚なキャラメル色の気泡が弾ける。

 田村はそこに、ひとつまみの岩塩と、少量のシナモンパウダー、そしてバニラビーンズの鞘をしごいて投入した。ただのシロップをかけるだけではない。煮詰めることで水分を飛ばし、バターのコクとスパイスの香りを極限まで濃縮した『特製スパイス・メープルバターソース』を練成しているのだ。

 鍋肌が焦げる直前の、最も香ばしく、暴力的なまでに甘い匂いがピークに達した瞬間。


「完成だ」


 田村は、外はカリッと、中はプリンのようにトロトロに焼き上がった極厚フレンチトーストを皿に乗せ、その上から、沸騰してマグマのように熱い特製メープルシロップを一気に回しかけた。


 ジュウウウゥゥゥッ!!


 熱々のシロップがパンに染み込み、暴力的な甘い香りの水蒸気が爆発的に立ち昇った。


「さあ、食え。特製の極厚フレンチトーストと、熱々の焦がしメープルバターソースだ。ペアリングのピニャコラーダを合間に挟むことで、口の中が常夏のハワイになるぞ」


 田村が皿を差し出すと、毛布に包まっていた和田は、その凄まじい匂いに抗いきれず、震える手でフォークを受け取った。


「……いただきます」


 和田はフレンチトーストを一口大に切り、たっぷりとシロップを絡めて口に運んだ。


「……っ!!!」


 和田の瞳孔が、カッと開いた。

 熱々のパンから溢れ出す卵の優しい甘み。そこに、ガツンと脳を殴るようなメープルシロップの強烈なコクと、バターの濃厚な塩気。シナモンとバニラの香りが鼻腔を抜け、冷え切っていた身体の細胞一つ一つに、爆発的なカロリーと熱量が叩き込まれていく。


「な、なにこれ……すっごく、甘い……熱い……! 美味しい……っ!」


 和田は夢中でフォークを動かした。

 熱々で濃厚なフレンチトーストを飲み込み、すかさずピニャコラーダをストローで吸い上げる。

 ココナッツとパイナップルのトロピカルな冷たさが口の中をリセットし、再び強烈なメープルの熱を求めてフレンチトーストに喰らいつく。温と冷、濃厚とサッパリの無限ループ。田村が計算し尽くした、悪魔的なペアリングだった。


 和田の青白かった頬が、みるみるうちに桜色に染まっていく。

 額にはうっすらと汗が滲み、ガタガタと震えていた身体は完全に落ち着きを取り戻していた。


「……ふぅ。あったかい。お腹の中から、ポカポカして、幸せ……」


 和田は最後の一口を飲み込むと、ふにゃりとだらしない笑顔を浮かべてゲーミングチェアに深く寄りかかった。


 それと同時に、部屋の壁に張り付いていた真っ白な霜が、嘘のように一瞬で溶け落ちた。

 マイナス30度だった室温が急激に上昇し、快適な適温へと戻っていく。


(よし。カロリーの暴力による強制的な体温上昇と、トロピカルな香りによる自律神経の回復。見事にパニック状態を脱したようだな。エアコンの暴走も、一時的なエラーだったのか、自然に直ったようだ)


 田村は空になった皿を片付けながら、自分の科学的・物理的なアプローチが完璧に成功したことに満足げに頷いた。


「田村……ごめんなさい。私、アンチの言葉にビビって、また引きこもりに戻りそうになっちゃった……」


 和田が、ポツリとこぼした。


「気にするな。顔の見えない連中のノイズなんて、スパムフィルターで弾けばいいだけだ。お前は俺が担当している最高のアイドルだ。お前の本当の魅力は、あんなちっぽけなモニターの向こう側じゃなく、ステージの上でこそ輝くんだからな」


 田村が分厚い手で和田の頭をポンと撫でると、和田は「んっ」と小さく声を漏らし、田村の太い腕に顔を擦り付けた。


「……うん。私、田村がいてくれるなら、頑張れる。これからも、私のこと……守ってね?」

「ああ、マネージャーの仕事だからな。それに、エアコンの修理業者の手配も俺がやっておく」

「……エアコン?」


 和田は不思議そうに首を傾げたが、すぐに「まあいいや」と田村の温かい腕にすり寄った。

 強力なアンチの妨害すらも物理とカロリーで粉砕する最強のマネージャーによって、雪女の閉ざされた心は、極上のメープルシロップのように甘く、トロトロに溶かされていくのだった。

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