七話
馬車が屋敷の門をくぐる頃には、蓮の左足首は靴の中で熱を持ち始めていた。
試合直後は歩けていたのに、今は少し動かすだけで痛む。馬車の揺れに合わせて足の置き方を変えていると、向かいに座るリシェルが帳簿を閉じた。
「到着したら、先に治療室へ向かってください」
「わかってるよ」
「前回も、そうおっしゃっていました」
蓮は返事に詰まった。
隣で瀬戸が笑っている。
「今回はちゃんと連れていきますよ。俺も付き添うんで」
「お願いします、瀬戸さん」
「……なんか俺、信用ないな」
「あるから頼まれてるんだろ」
瀬戸にそう返され、蓮は窓の外へ顔を向けた。
門の向こうでは、畑仕事を終えた人々が家路についていた。荷車を引く老人が馬車に気づき、道の端へ寄る。
リシェルが小さく頭を下げると、老人は帽子を取って笑った。
「お嬢様、今日も勝ったそうですな!」
「はい。皆さんが頑張ってくださいました」
「そりゃよかった。うちの倅も、朝から結果を気にしとりましたよ」
老人は馬車の中を覗き込んだ。
「剣闘士の皆さんも、お疲れさんでした」
蓮は左手を上げた。
「ありがとうございます」
老人は満足そうに頷き、荷車を引いていった。
馬車が再び動き出す。
「……もう結果が伝わってるんだな」
「公式戦の勝敗は、各地の掲示板へ通知されるんです」
リシェルが答えた。
「アルヴェイン家は最近、あまり良い結果を残せていませんでしたから。領民の皆さんも気にかけてくださっているようで」
蓮は、遠ざかる荷車を見た。
闘技場で戦っているときには考えもしなかったが、勝敗を待っているのは観客席の人間だけではないらしい。
「……次も勝たないとな」
口にすると、リシェルは首を振った。
「その前に、治療です」
「……はい」
瀬戸がとうとう声を出して笑った。
*
「今度は左足か」
治癒術師は蓮の足首を見て、呆れた顔をした。
「次はどこを壊してくるつもりじゃ?」
「壊したわけじゃないです。ちょっと捻っただけで」
「同じことじゃ」
老人は足首へ手をかざした。淡い緑色の光が広がり、腫れていた部分に冷たい感触が生まれる。
「骨に異常はない。二、三日も休めば問題ないじゃろう」
「右腕は?」
「そちらも順調じゃ。ただし、何度も言っておるが、能力の反動は別の話じゃぞ」
蓮は頷いた。
今日の試合では、《鬼力》をほんの一瞬、左脚に使った。
以前のように全身へ力を流したわけではない。そのおかげか、足首を痛めた程度で済んでいる。
使う部位と時間を絞れば、反動も抑えられる。
まだ推測にすぎないが、確かめる価値はありそうだった。
「……先生、一つ聞いてもいいですか」
「何じゃ」
「能力を使ったとき、身体のどこに負担がかかるかって、調べられますか?」
老人は手を止めた。
「何を考えておる?」
「右腕を壊したときは、全力で殴りました。でも今日は、脚に一瞬だけ使ったんです」
蓮は左足を動かしてみせた。
「力の使い方を変えれば、怪我を減らせるんじゃないかと思って」
「……なるほど」
治癒術師は顎に手を当てた。
「魔力の流れを見る術ならある。じゃが、あんたの天賦がどのように肉体へ作用しているかまでは、今のところわからん」
「じゃあ、少しずつ試していくしかないですね」
「治療室の外で勝手に試すつもりなら、反対じゃ」
蓮は黙った。
老人はその顔を見て、ため息をついた。
「アーロンと相談する。試すなら、こちらが準備した場所でやれ」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、怪我をせずに帰ってからにしてくれ」
蓮は苦笑し、治療台から降りた。
*
夕食では、陽菜が今日の戦いについて話していた。
「最後の一体を止めたとき、石が割れるかと思ったんです。固定はできてたんですけど、魔獣が何度もぶつかってきて……」
食卓の上には焼いた肉と野菜の煮込みが並んでいる。蓮はスプーンを持ったまま、陽菜の話を聞いていた。
「あと三秒って言ってたよな」
「はい。あのとき、本当にぎりぎりでした」
「次は、もっと丈夫なものを使いたいな」
瀬戸が言うと、陽菜も頷いた。
「そうなんです。持ち運べて、強くて、すぐ固定できるものがあればいいんですけど」
「欲張りだな」
「でも、必要じゃないですか?」
「まあ、そうなんだけど」
蓮は二人のやり取りを聞きながら、リシェルへ目を向けた。
彼女は食事の手を止め、話を聞いている。
「リシェル。この前言ってた道具の話、どうなった?」
「ちょうど、明日ご相談しようと思っていました」
リシェルはナプキンを膝に置いた。
「領内に、金属加工を得意とする工房があります。そちらへ製作を依頼できないかと考えています」
「鍛冶屋さんですか?」
陽菜が尋ねた。
「ええ。ただ、剣や鎧だけでなく、特殊な器具も製作している方なので、お話を聞いていただけると思います」
「だったら、俺たちも一緒に行っていい?」
瀬戸が身を乗り出した。
「使う本人が説明したほうが早いと思うんで」
「もちろんです。先方の都合がよければ、明日の午後にでも」
陽菜は嬉しそうに頷いた。
蓮も、新しい道具があれば戦い方が変わるかもしれないと考えていた。
だが、リシェルが帳簿へ目を落としたのを見て、少し気になった。
「……費用、大丈夫なのか?」
「まずは見積もりをお願いするつもりです」
「でも、家の予算も厳しいんだろ?」
リシェルは頷いた。
「確かに、余裕はありません。ですが、今の道具では次の試合で怪我をする可能性もあります。必要な装備を揃えることは、長い目で見れば無駄にはならないはずです」
彼女は食卓を見渡した。
「皆さんが安全に戦える方法は、できるだけ用意しておきたいと思っています」
蓮は頷いた。
リシェルが家の財政を気にしながら、自分たちの装備にも金を使おうとしていることはわかった。
ただ、どこまでなら無理をさせずに済むのか、蓮には見当もつかなかった。
*
その夜、蓮は水を飲みに一階へ下りた。
廊下の途中で、書斎の扉の下から明かりが漏れていることに気づいた。
時計はすでに深夜を回っていた。
まだ起きているのか。
通り過ぎようとすると、中から紙の擦れる音が聞こえた。
蓮は少し迷ってから、扉を叩いた。
「……はい?」
「俺。神谷」
「蓮さん? どうぞ」
扉を開けると、リシェルが机に向かっていた。
書類が何枚も広げられ、横には小さな計算用の器具が置かれている。
彼女は普段のドレスではなく、簡素な白いブラウスを着ていた。銀色の髪は緩くまとめられ、後れ毛が頬へ落ちている。
「まだ仕事してたのか」
「少し、帳簿を確認していました」
蓮は机の上を見た。
同じような数字が、何行も並んでいる。
「……大変そうだな」
「今日は試合の報酬が入りましたので、今後の支出を整理しておこうと思いまして」
リシェルは紙を一枚、脇へ寄せた。
蓮は書斎の壁に掛けられた地図を見た。
昼間に見たものと同じだ。
領地を示す小さな印が、あちこちについている。
「……リシェルって、いつもこんな時間まで仕事してるの?」
「毎日ではありませんよ」
そう答えた彼女の机には、すでに冷めた茶が置かれていた。
「……たまには休んだほうがいいんじゃないか」
「蓮さんに言われるとは思いませんでした」
リシェルが顔を上げた。
蓮も思わず笑った。
「それは、まあ……そうだけど」
「お互い様ですね」
彼女はペンを置いた。
蓮は入口に立ったまま、机の上の帳簿を見ていた。
「……なあ」
「はい」
「俺たちの装備に金を使うの、無理してないか?」
リシェルはすぐには答えなかった。
手元の紙を揃え、蓮へ顔を向ける。
「無理がないと言えば、嘘になります」
「……やっぱり」
「ですが、何も用意せずに試合へ出して、皆さんが怪我をすれば、そのほうが大きな負担になります」
彼女は計算用の器具に触れた。
「治療費だけではありません。戦えなくなれば、その間は試合にも出られませんから」
蓮は少し考えた。
「……なるほど」
「もちろん、それだけが理由ではありません」
リシェルは続けた。
「私が皆さんに契約をお願いしたのです。だから、必要なものを用意する責任があります」
蓮は彼女を見た。
書類を前にしているときのリシェルは、いつもより少し大人びて見える。
年齢は自分とそれほど変わらないはずなのに、背負っているものはずいぶん違った。
「……家を継いだのって、三年前なんだよな」
「はい」
「最初から、こういう仕事ができたの?」
リシェルは小さく笑った。
「いいえ。最初は失敗ばかりでした」
「例えば?」
「税の納付日を間違えたことがあります」
「……それは大変そうだな」
「大変でした。書類の提出先も把握できていなくて、何度も王都へ使いを出しました」
彼女は机の端に置かれた古い帳簿を見た。
「父がいた頃は、家の仕事を手伝う程度でしたから。当主になって初めて、知らないことがこんなに多かったのだと気づきました」
蓮は椅子を引いた。
「座ってもいい?」
「どうぞ」
向かいに腰を下ろす。
「……大変だったんだな」
リシェルは少し考えてから答えた。
「そうですね。でも、私一人でやってきたわけではありません」
彼女は窓の外を見た。
「屋敷の者たちも、領地の方々も、ずいぶん助けてくださいました。私が間違えたときには、何度も教えてもらいました」
蓮は頷いた。
帰りの馬車で声をかけてきた老人を思い出す。
あの人も、リシェルの家が勝つことを喜んでいた。
「……だから、領地を守りたいのか」
「それもあります」
リシェルは窓から視線を戻した。
「私の父は、あまり裕福な当主ではありませんでした。それでも、領民の暮らしに必要なものだけは削らない人でした」
彼女は少し笑った。
「おかげで、私が継いだときには、帳簿が大変なことになっていましたけれど」
蓮も笑った。
リシェルは机の上の書類へ目を落とした。
「ただ、父と同じことを続けるだけでは、家を守れません。どこにお金を使い、何を後回しにするのか。私が決めなければならないんです」
蓮は、計算用の器具を見た。
動かされたままの珠が、いくつも並んでいる。
「……俺にできること、何かある?」
リシェルが顔を上げた。
「蓮さん?」
「金の計算は無理だけど、試合で勝つ以外にも何か手伝えることがあるなら」
リシェルはしばらく蓮を見ていた。
「……ありがとうございます」
それから、机に置いていた紙を一枚差し出した。
「では、明日の工房で、道具の使い方を詳しく説明していただけますか?」
「それはもちろん」
「必要なものを、皆さん自身の言葉で伝えてください。私が考えるより、実際に戦う方のほうがわかることも多いと思います」
蓮は頷いた。
「わかった」
リシェルは紙を受け取り、帳簿の間へ挟んだ。
「……それから、蓮さん」
「ん?」
「そろそろ休まれたほうがよろしいかと」
蓮は時計を見た。
確かに、かなり遅い時間になっていた。
「……リシェルもな」
「私は、あと少しだけ」
「それ、さっきも言ってなかった?」
リシェルは返事に困った顔をした。
蓮は立ち上がる。
「じゃあ、俺が部屋に戻るまでに、仕事終わらせてくれ」
「それは、さすがに……」
「冗談。でも、無理するなよ」
リシェルは少し笑った。
「……はい」
蓮は書斎を出た。
扉を閉める直前、彼女が机の上の紙をまとめ始めるのが見えた。
*
翌日の午後、三人はリシェルに連れられて領内の工房を訪れた。
屋敷から馬車で三十分ほどの町だった。
大通りには食料品店や織物店が並び、軒先では子供たちが遊んでいる。市場を抜けて細い路地へ入ると、金属を打つ音が聞こえてきた。
音のする方へ進むにつれ、空気が熱くなっていく。
工房の入口には、金床を描いた木の看板が吊るされていた。
『ガルド工房』
リシェルが看板の文字を読み上げる。
「こちらです」
中へ入ると、石造りの炉が赤く燃えていた。
壁には大小さまざまな工具が掛けられ、作業台には金属の棒や板が並んでいる。奥には製作途中らしい鎧も置かれていた。
炉の前で、一人の女性が槌を振っていた。
灰褐色の髪を後ろで短く結び、革の前掛けを身につけている。袖を肘までまくった腕には、細かな火傷の跡があった。
女性は金属を数回打ってから槌を置いた。
「いらっしゃい。何か修理?」
「こんにちは、ミレイ」
リシェルが声をかける。
女性が振り返った。
「……あれ、リシェル様?」
彼女は前掛けで手を拭いた。
「今日はどうしたの。屋敷の門でも壊れた?」
「いいえ。製作をお願いしたいものがあるんです」
「製作?」
ミレイは蓮たちを見た。
最初に陽菜の抱えている木板へ目を留める。
「……それ?」
陽菜が頷いた。
「はい。これを改良してほしくて」
「見せてもらっていい?」
陽菜は折り畳んだ板を作業台へ置いた。
ミレイは留め具を外して広げると、何度か動かして構造を確かめた。
「……なるほど。簡易防壁か」
「はい。私の能力で固定して使うんです」
「どんな能力?」
「《仮止め》です。触れた二つのものを、十秒間だけ固定できます」
ミレイの手が止まった。
「……面白いな」
板をもう一度畳む。
「つまり、普段は動かせるようにしておいて、必要なときだけ固定するわけだ」
「そうです!」
陽菜が身を乗り出した。
「でも、今の板だと強い魔獣にぶつかられたら壊れちゃって。それに、持ち運ぶには少し大きくて……」
「軽くて、丈夫で、すぐ広げられるものが欲しい?」
「はい」
ミレイは陽菜を見た。
「それ、一番難しい注文なんだけど」
「……やっぱり?」
「丈夫にすれば重くなる。軽くすれば弱くなる。しかも、持ち運びたいんでしょ?」
陽菜の肩が少し下がった。
ミレイは木板を指で叩いた。
「でも、考えてみようか」
彼女は作業台の端から紙を取り出した。
「まず、どんな相手を止めたいの?」
陽菜が顔を上げた。
「魔獣です。できれば、人間相手にも使いたいです」
「大きさは?」
「この前の石皮犬なら、これくらいで……」
陽菜は両手を広げて大きさを示した。
ミレイは頷き、紙に線を引いた。
「じゃあ、板を厚くするだけじゃ駄目だな。支える部分から考えないと」
彼女は細長い三角形を描いた。
「二枚の板を開いたとき、後ろに支えをつける。こうすれば、真正面から押されたときに倒れにくくなる」
「……三角形?」
「そう。家具の脚でも、橋でも同じ。力を受ける場所を増やせば、その分だけ安定する」
陽菜は図面を覗き込んだ。
ミレイは続ける。
「ただし、力が強すぎれば壊れる。そこは金属の枠を使うしかないかな」
「全部金属じゃなくていいんですか?」
「全部金属にしたら、持って走れないでしょ」
陽菜が頷く。
ミレイは小さく笑った。
「用途を聞かないと、何も作れないからね」
蓮は作業台の図面を見た。
単純な板だったものが、少しずつ別の形になっていく。
「……すごいな」
思わず呟くと、ミレイが顔を上げた。
「何が?」
「話を聞いて、すぐ形にできるのが」
「仕事だからね」
彼女はあっさり答えた。
「そっちだって、剣闘士なんでしょ。戦い方を考えるのが仕事じゃないの?」
「……まだ、考えるより先に身体が動いちゃうけど」
「なら、覚えればいいじゃない」
ミレイは図面に新しい線を加えた。
「こっちも同じ。最初から作れるわけじゃないよ」
蓮は少し笑った。
言われてみれば、そのとおりだった。
*
製作の相談が一段落したところで、リシェルが見積もりについて尋ねた。
ミレイは図面を見ながら、いくつか数字を書き込んでいく。
「材料費がこれくらい。加工に二日……いや、三日は欲しいな。試作品だから、もう少しかかるかも」
彼女は計算を終え、紙をリシェルへ渡した。
リシェルは金額を確認した。
「……少し、予算を超えていますね」
「安くはないよ。金属の枠を作って、折り畳み部分まで仕上げるから」
「もう少し費用を抑える方法はありますか?」
ミレイは考えた。
「材料を変えれば下げられるけど、その分、強度が落ちる」
彼女は図面の端を指さした。
「ここだけは、削らないほうがいい。衝撃を受ける場所だから」
リシェルは頷いた。
「では、それ以外の部分で調整できないでしょうか」
「……例えば?」
「外装の装飾は必要ありません。使う方にとって、扱いやすいことを優先したいんです」
ミレイは少し笑った。
「装飾なんて、最初から考えてないよ」
「そうでしたか」
「でも、表面の仕上げを簡単にすれば、少しは安くなる。あとは……」
ミレイは指で図面を叩いた。
「今回、一つだけ作って終わり?」
陽菜が顔を上げる。
「……え?」
「これ、上手くいけばほかの剣闘士にも売れるかもしれないでしょ。防御系の能力者や、魔獣討伐に出る人たちとか」
瀬戸が頷いた。
「確かに、使い道はありそうですね」
「だったら、試作品の費用を少し抑えて、その代わり後で製品化するときは、私の工房で作らせてほしい」
リシェルは紙を見た。
「……製作権についての契約、ということですね」
「そう。もちろん、使い方の考案者はそっちだから、そこも契約に入れる」
ミレイは陽菜を見た。
「どう? ちゃんと使えるものができたら、その仕組みをほかの人にも使ってもらうのは」
陽菜は少し考えた。
「……私の名前も残るんですか?」
「希望するなら。嫌なら、名前は出さない」
「……じゃあ、残してほしいです」
陽菜が答えた。
ミレイは頷いた。
「わかった」
リシェルは見積書を持ち直した。
「では、条件を整理して契約書を作りましょう。試作品の費用と、製品化した場合の取り分は分けて考えたいと思います」
「助かる。口約束だと、後で揉めるからね」
ミレイは笑った。
蓮は二人のやり取りを聞いていた。
リシェルは単に値切っているわけではない。
ミレイも、ただ高いものを売ろうとしているわけではなかった。
どちらも、自分の仕事に必要な条件を確認している。
この世界に来てから、貴族といえば闘技場の観客席にいる人間しか見てこなかった。
だが、リシェルはこうして町の工房へ足を運び、職人と直接話している。
「……リシェルって、こういう交渉も自分でするんだな」
蓮が言うと、彼女は顔を上げた。
「以前は家令に任せることも多かったのですが、今は私が確認するようにしています」
「何で?」
「家の支出が増えた理由を、私自身が知らなければ困るからです」
リシェルは見積書を畳んだ。
「それに、実際に作る方と話したほうが、何に費用がかかるのかもわかります」
ミレイが横から口を挟んだ。
「リシェル様、昔は金属の値段なんて全然知らなかったもんね」
「……ミレイ」
「鍋一つ作るのに、材料をどれだけ使うかも知らなかったでしょ」
「それは、随分前のお話です」
「三年くらい前?」
リシェルは困ったようにミレイを見た。
ミレイは笑いながら、図面を丸めた。
「今はだいぶ詳しくなったよ。こっちが適当な見積もり出したら、すぐ気づかれそう」
蓮は二人を見比べた。
「……前から知り合いなのか?」
「はい。ミレイには、以前から当家の設備の修繕をお願いしています」
「屋敷の門とかね。今はこっちに工房を構えたから、何かと呼ばれるんだ」
ミレイは前掛けの紐を結び直した。
「……そういえば、まだ名前を言ってなかった」
蓮たちへ顔を向ける。
「ミレイ・ガルド。二十三歳。ここの工房をやってる」
「神谷蓮です」
「瀬戸直也です」
「村瀬陽菜です。よろしくお願いします」
三人が順に名乗ると、ミレイは頷いた。
「よろしく。で、剣闘士ってことは、あの闘技場で戦ってるんだよね?」
「はい」
陽菜が答える。
「この前、石皮犬を四体倒しました」
ミレイが顔を上げた。
「……ああ、あの試合?」
「見てたんですか?」
「全部じゃないけどね。仕事の合間に、映像が流れてるのを少しだけ」
彼女は陽菜の持ってきた木板を見た。
「石を固定して、魔獣を止めてた子がいたでしょ」
「……私です」
「やっぱり」
ミレイは口元を緩めた。
「見てて思ったんだ。あの能力、道具次第でまだいろいろできそうだって」
陽菜の表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「うん。ただ、今の板じゃ危ない。何度も使ったら、そのうち壊れるよ」
「……やっぱり」
「だから、作り直そう」
ミレイは作業台に図面を広げた。
「どうせなら、ちゃんと使えるものにしたいし」
蓮はその横顔を見た。
仕事の話をしているとき、ミレイの目は図面からほとんど離れない。
言葉は遠慮がないが、質問すれば細かく説明してくれる。
陽菜も、最初の緊張が解けたらしく、次々と質問を始めていた。
リシェルは二人を見守りながら、契約内容を紙に書き留めていた。
*
「そうだ。一つ、見せておこうか」
ミレイは作業台の下から、細い金属の棒を二本取り出した。
どちらも同じ長さで、蓮には違いがわからない。
「これ、見た目は同じだけど、片方は加工に失敗してる」
ミレイは一本を金床の上に置き、小さな槌で軽く叩いた。
キン、と澄んだ音が響く。
続いて、もう一本。
今度は、少し鈍い音がした。
「わかる?」
蓮は首を傾げた。
「音が違うのはわかるけど……」
「それで十分。こっちは中に傷がある」
ミレイは鈍い音のした棒を持ち、両端に力を加えた。
金属が曲がる。
さらに力を込めると、途中に細い亀裂が現れた。
「……へえ」
瀬戸が身を乗り出す。
「叩いただけでわかるんですか?」
「普通の職人でも、経験を積めばある程度はわかるよ。でも、私の場合はちょっと違う」
ミレイは槌を置いた。
「私の天賦、《鋼聴》っていうの」
「こうちょう?」
「金属を叩いたとき、その中にある歪みや傷を音で聞き分けられる。何でもわかるわけじゃないけどね」
彼女は亀裂の入った棒を持ち上げた。
「例えば、この棒を使って防具を作ったら、見た目はちゃんとしてても、強い衝撃を受けたときにここから割れる可能性が高い」
陽菜は図面を見た。
「じゃあ、私の道具も、壊れやすいところを調べられるんですか?」
「金属部分ならね。実際に力を加えて、どこへ負担が集中するかを見てから調整する必要はあるけど」
「……すごい」
陽菜が呟いた。
ミレイは肩をすくめた。
「戦えない能力だから、昔は地味だって言われたけどね。職人には便利なんだよ」
蓮は作業台の金属を見た。
《測距》も《仮止め》も、最初の試練では戦闘向きではないと思われていた。
だが、それぞれに使い道があった。
ミレイの《鋼聴》も同じだ。
直接敵を倒す力ではない。
それでも、作り上げた道具によって誰かの戦いを支えることができる。
「……ミレイは、ずっと鍛冶職人をやってるの?」
「十五の頃から。最初は親方のところで働いてた」
彼女は炉の火を確かめながら答えた。
「独立したのは二年前。まだ小さな工房だけど、いずれは王都の工房組合に認められるような仕事をしたいと思ってる」
「王都に店を出すの?」
「それも悪くないけど、まずは自分の名前で作ったものを、ちゃんと評価してもらいたいかな」
ミレイは図面に目を落とした。
「闘技場で使われる装備って、実績が大事なんだ。どの試合で、どんな攻撃に耐えたのか。そういう記録が残るから」
「じゃあ、陽菜の道具が上手くいけば……」
「私の実績にもなる」
ミレイはにやりと笑った。
「だから、手は抜かないよ」
陽菜が何度も頷いた。
「よろしくお願いします!」
「こちらこそ。試作品ができたら、使い勝手を教えてね。遠慮されると困るから」
ミレイは二本の金属棒を片づけ、再び槌を手に取った。
「じゃあ、そろそろ仕事に戻ろうかな」
リシェルが書類をまとめる。
「本日はありがとうございました。契約書は、明日までにお届けします」
「了解。内容を確認してから作り始めるね」
ミレイは入口まで見送りに来た。
陽菜は名残惜しそうに作業台を見ている。
「……また来てもいいですか?」
「もちろん。むしろ、何度か来てもらうことになると思う」
「ありがとうございます!」
ミレイは軽く手を振った。
「じゃあ、またね」
蓮たちは工房を後にした。
*
帰りの馬車では、陽菜がずっと図面を眺めていた。
「ここ、もう少し小さくできないかな……」
瀬戸が横から覗き込む。
「どうだろうな。あんまり小さいと、身体を隠せなくなるぞ」
「でも、持ち運びやすいほうがいいですよね」
「そこは実際に作ってから試そう。紙の上で考えててもわからないし」
陽菜は頷いた。
蓮は二人の会話を聞きながら、向かいに座るリシェルへ目を向けた。
彼女は契約書の下書きを確認している。
「……リシェル」
「はい?」
「今日はありがとう」
「どうされたんですか、急に」
「工房のこと。俺たちだけじゃ、ああいう道具を作れる人も知らなかったから」
リシェルは書類を閉じた。
「皆さんの戦い方を見て、必要だと思っただけですよ」
「でも、費用もかかるんだろ」
「ええ。決して安くはありません」
彼女は窓の外へ目を向けた。
「ただ、ミレイの提案なら、当家の負担も少し抑えられそうです。製品化まで進めば、今後の収入にも繋がるかもしれません」
「……そこまで考えてるんだ」
「今は、考えないわけにはいきませんから」
リシェルは小さく笑った。
蓮は、昨夜の書斎を思い出した。
机に積まれた帳簿。
冷めた茶。
夜遅くまで計算を続けていた彼女の姿。
「……そういえば、昨日はちゃんと寝た?」
リシェルが顔を上げた。
「……はい?」
「書斎、かなり遅くまで明かりがついてたから」
「寝ましたよ」
「何時に?」
リシェルは少し考えた。
「……日付が変わって、少ししてからです」
「少しって?」
「……二時間ほど」
蓮は彼女を見た。
リシェルは視線を外す。
「……まあ、仕事だから仕方ないときもあるけどさ」
「蓮さんこそ、昨日は夜遅くまで能力の表示を確認していたのではありませんか?」
蓮は口を閉じた。
確かに、寝る前まで《鬼力》の説明を読んでいた。
それを何度も繰り返し、気づけば夜更かししていた。
「……何でわかった?」
「今朝、アーロンから聞きました。訓練中、少し眠そうにしていたと」
瀬戸が顔を上げた。
「神谷、夜更かししてたのか?」
「……ちょっとだけ」
「おいおい」
陽菜まで、図面から顔を上げた。
「ちゃんと寝ないと、怪我治りませんよ」
「……わかってるって」
三人の視線が集まる。
蓮は観念して、背もたれへ身体を預けた。
リシェルが笑った。
それを見て、蓮も少し笑った。
*
屋敷に戻ると、門の前に一台の荷馬車が停まっていた。
荷台には大きな木箱がいくつも積まれている。従者たちが、その周りで何かを確認していた。
「……何だろう」
蓮が呟くと、リシェルは馬車を降りて近づいた。
「何か届いたのですか?」
従者の一人が振り返る。
「はい。王都闘技場の管理局から、正式な通知が届いております」
「通知?」
「次の公式戦に関するものです」
リシェルは書類を受け取った。
内容を確認するにつれ、表情が引き締まる。
蓮たちも馬車を降りた。
「……次の試合?」
瀬戸が尋ねる。
リシェルは頷いた。
「はい。今期の終盤に向けて、下位派閥を対象とした特別試合が開催されるそうです」
「特別試合……」
蓮はリシェルの手元を見た。
「どんな形式なんだ?」
彼女は書類を一枚めくった。
「複数の派閥が同じ戦場へ参加する、拠点争奪戦です」
瀬戸が顔を上げた。
「複数って、何組くらいですか?」
「今回の参加枠は、八派閥となっています」
「……八?」
蓮は思わず聞き返した。
今までは、三人一組の対抗戦か、魔獣討伐だった。
八つの派閥が同じ場所に集まるとなれば、相手の数も、戦い方も大きく変わる。
「勝利条件は?」
蓮が尋ねる。
リシェルは書類の下部へ視線を移した。
「制限時間内に、戦場中央にある拠点を占有すること。最後に拠点を保持していた派閥が勝者となるようです」
「……ほかの派閥を全部倒す必要はないんだな」
「はい。ただし、拠点を奪い合うことになりますので、戦闘は避けられないでしょう」
瀬戸は腕を組んだ。
「八派閥で一つの拠点か……」
陽菜も書類を覗き込んだ。
「じゃあ、いろんな方向から敵が来るんですよね」
「おそらく、そうなります」
蓮は工房で見た図面を思い出した。
折り畳み式の防壁。
陽菜の《仮止め》。
瀬戸の《測距》。
そして、自分の《鬼神の加護》。
今までの戦いとは違う。
拠点を守るためには、敵を倒すだけでは足りない。
どこから来るのかを把握し、通路を塞ぎ、仲間と位置を合わせる必要がある。
「……これ、陽菜の道具が役に立ちそうだな」
瀬戸が言った。
「確かに」
蓮も頷いた。
リシェルは書類を畳んだ。
「出場を希望される場合は、期限までに申請する必要があります。詳細は、明日改めて皆さんと相談しましょう」
「いつ開催なんだ?」
「十日後です」
蓮は頷いた。
十日。
道具の試作品を作り、訓練を重ねる時間はある。
ただし、八派閥を相手にするための準備として十分なのかはわからない。
リシェルが従者へ指示を出し、書類を屋敷へ運ばせた。
蓮は門の外へ目を向けた。
遠くに、万界闘技場の上部が見えている。
その中には、森も山も海もある。
次は、どんな戦場になるのだろう。
どんな能力を持つ相手が待っているのだろう。
蓮は右手を開いた。
包帯の下に残っていた黒い紋様が、わずかに浮かび上がる。
レベルは四。
次にレベルが上がれば、初めての能力選択が訪れる。
蓮は手を下ろした。
まずは、十日後の試合。
そのために、できることを一つずつ増やしていくしかない。
屋敷の中から、リシェルの声がした。
「蓮さん、皆さん。夕食の前に、少しお時間をいただけますか?」
蓮は振り返った。
「今行く」
瀬戸と陽菜も、彼の後に続いた。
四人は屋敷へ入っていった。




