第六話
「これ、本当に持って走れるのか?」
蓮が尋ねると、陽菜は木板を抱え直した。
「重さは大丈夫です。問題は、使うときですね」
訓練場の隅には、長方形の木板が二枚並んでいた。片側を金具で繋ぎ、折り畳めるようにしてある。広げれば人一人が隠れられるほどの大きさになるが、そのままでは自立しない。
陽菜は一枚を立て、もう一枚を地面へ寝かせた。
「見ててください」
両手をそれぞれの板に添える。
「《仮止め》」
接合部に淡い光が走った。
陽菜が手を離しても、板は直角を保ったまま立っている。
「おお」
蓮が近づくと、瀬戸が横から声をかけた。
「軽く押してみろよ」
「壊れないか?」
「強く押さなきゃ平気だと思う」
蓮は左手を当てた。
板は動かない。少し力を加えても、立ったままだった。
「ちゃんと固定されてるな」
「でも、十秒です」
陽菜が言い終えた直後、光が消えた。
支えを失った板が倒れ、乾いた音を立てる。
「……これを試合で使うのか?」
「そのつもり」
瀬戸が頷いた。
「昨日みたいに、都合よく木戸や倒木があるとは限らないだろ。だったら、持っていけばいい」
蓮は折り畳まれた板を持ち上げた。
確かに運べない重さではない。ただ、剣を持ったまま運ぶには邪魔になりそうだった。
「陽菜がずっと持つのか?」
「今のところは。でも、必要な場所に置いてから戦えばいいと思います」
「それだと、場所が決まっちゃうな」
「そうなんです」
陽菜は板を受け取った。
「それに、固定するときは両方に触れなきゃいけないので、敵が近くにいると危ないんですよね」
瀬戸が地面にしゃがみ込み、小石を三つ並べた。
「だから、神谷が前に出て時間を稼ぐ。俺は敵との距離を見て、村瀬さんに合図する」
「また俺が前か」
「一番丈夫そうなの、お前だろ」
蓮は右腕を持ち上げた。
「この状態だけど?」
「……そこが問題なんだよな」
瀬戸が石を一つ動かす。
「前衛が一人しかいない。神谷が怪我したら、俺たち二人じゃまともに敵を止められない」
蓮もしゃがみ込んだ。
試合に勝てたとはいえ、三人の役割は偏っている。
自分が前に出る。
瀬戸が敵の動きを測る。
陽菜が地形を利用して、進路を塞ぐ。
連携はできるようになってきたが、蓮が倒れれば残りの二人は守りを失う。
「……ほかにも仲間が必要か」
蓮が呟くと、瀬戸は頷いた。
「長く戦っていくなら、そうだろうな」
「でも、誰でもいいわけじゃないですよね」
陽菜が板を畳みながら言った。
「昨日の試合だって、三人で何回も練習したから動けたんです。急に人が増えても、うまく合わせられるかわかりません」
「確かに」
瀬戸は小石を拾い集めた。
「それに、ほかの日本人はもう別の貴族と契約してるだろうし」
蓮は訓練場の向こうを見た。
ここへ来て、まだ一週間も経っていない。
それなのに、考えなければならないことは増えるばかりだった。
「……まずは今の三人で、できることを増やすしかないか」
「そういうこと」
瀬戸が立ち上がった。
そのとき、屋敷へ続く扉が開いた。
リシェルが、書類を手に訓練場へ入ってくる。
「皆さん、少しよろしいですか?」
蓮たちは顔を上げた。
「次の試合について、お話があります」
*
試合は五日後。
リシェルが持ってきた書類には、開催日時と出場条件が記されていた。
「今回は対人戦ではありません」
彼女は訓練場の端にある机へ書類を広げた。
「魔獣を相手にした、三人制の公式討伐戦です」
「魔獣……」
陽菜の声が小さくなった。
蓮も最初の試練を思い出した。巨大な黒甲獣。砕けた甲殻。あのときの腕の痛みは、今も残っている。
「また、あんなのが出てくるのか?」
「今回の対象は、黒甲獣よりも小型です。ただ、複数体が出現するため、別の危険があります」
「何体?」
「四体です」
瀬戸が書類を覗き込んだ。
「四体を全部倒せば勝ち?」
「はい。制限時間内にすべて討伐すれば、公式戦一勝として記録されます」
「時間内に倒せなかったら?」
「討伐失敗となります。倒した数に応じた報酬は出ますが、勝利数には加算されません」
蓮は腕を組もうとして、右肩の痛みに動きを止めた。
「相手の魔獣について、何かわかる?」
リシェルが別の資料を取り出した。
「《石皮犬》という魔獣です。背中から四肢の外側にかけて、岩に似た硬い皮膚を持っています」
資料には、四足歩行の獣が描かれていた。
狼に近い体型だが、頭は大きく、前脚も太い。背中には重なり合った石片が並び、顎には鋭い歯が生えている。
「弱点は?」
瀬戸が尋ねた。
「腹部と、脚の付け根です。そこは外側ほど硬くありません」
リシェルは図の下部を指さした。
「ただし、動きが速く、複数体で獲物を囲む習性があるそうです」
「……四体で囲まれるのか」
蓮が言うと、瀬戸も資料を見つめた。
「前衛一人じゃ、まずいな」
「ええ。ですので、今回は参加を見送ることも考えています」
リシェルは蓮の右腕を見た。
「まだ完治していませんし、無理に次の試合へ出る必要はありません」
「でも、あと三勝必要なんだろ?」
蓮が尋ねる。
リシェルは頷いた。
「今期の目標を達成するには、そうなります」
「残りは一か月もない」
「……はい」
蓮は資料を見た。
黒甲獣より小さいとはいえ、四体の魔獣。
戦闘経験の浅い自分たちが、簡単に倒せるとは思えない。
だが、この試合を見送ったところで、次にもっと戦いやすい相手が出る保証もなかった。
「……五日あれば、右腕はどれくらい治るかな」
「治癒術師に確認いたします。ただ、能力を使ってもよいという保証はできません」
「それはわかってる」
蓮は資料から顔を上げた。
「アーロンさんにも相談して、三人で対策を考えたい。そのうえで、出るか決めてもいいか?」
「もちろんです」
リシェルは頷いた。
「出場申請の期限は明日の夕方です。それまでにお返事をいただければ大丈夫です」
蓮は瀬戸と陽菜を見た。
「二人はどう思う?」
瀬戸は資料を手に取った。
「俺は、対策次第かな。四体を一度に相手するなら厳しい。でも、一体ずつ引き離せるなら、やりようはあると思う」
陽菜は少し考えた。
「……私は、怖いです」
蓮は頷いた。
「うん」
「でも、次も戦わないといけないんですよね。今回見送っても、別の魔獣が出てくるだけなら……」
陽菜は図に描かれた石皮犬を見た。
「今のうちに、ちゃんと準備して戦ったほうがいいのかなって」
瀬戸が頷いた。
「俺もそう思う。ただし、対策が立てられなかったら見送ろう」
「……そうだな」
蓮は資料を持ち上げた。
「まず、アーロンさんに聞いてみよう」
*
「石皮犬ですか」
アーロンは資料を受け取ると、しばらく黙って眺めていた。
「厄介な相手を選びましたね」
「まだ選んでません」
蓮が言うと、アーロンは顔を上げた。
「それなら、まず戦い方を知ってから決めましょう」
彼は訓練場の中央へ移動し、木製の人形を四つ並べた。
「石皮犬は、獲物を見つけると一斉に襲ってくることがあります。ですが、必ずしも四体が同じ方向へ動くわけではありません」
人形を一つ、前へ出す。
「一体が正面から注意を引きつけている間に、残りが左右へ回る。こういう動きをすることが多い」
瀬戸が頷いた。
「……やっぱり、囲まれるのか」
「ええ。だから、広い場所で戦うのは避けるべきです」
アーロンは人形を二つ、左右へ動かした。
「背後に壁を作る。通路を利用する。狭い場所なら、同時に襲ってくる数を減らせます」
蓮は訓練場の壁を見た。
石皮犬は四体。
こちらは三人。
一体ずつ相手にできる場所を作れれば、確かに勝機はある。
「……陽菜の《仮止め》が使えそうだな」
「はい」
陽菜が頷いた。
「でも、十秒しか止められません」
「十秒あれば、十分なこともあります」
アーロンが言った。
「ただし、固定するものの強度には注意してください。昨日のような木板では、石皮犬の突進に耐えられないかもしれません」
陽菜は木板を見た。
「……もっと丈夫なものが必要ですね」
「そうですね。石や鉄なら、壊されにくいでしょう」
瀬戸が手を上げた。
「石皮犬って、どれくらい速いんですか?」
「個体差はありますが、短い距離なら人間より速く走れます」
「……距離がわかっても、避けられるかどうかは別か」
「そのとおりです」
アーロンは四つの人形を見た。
「正面から止めようとしないことです。相手が曲がりにくい場所へ誘導するほうが、安全に戦えるでしょう」
蓮は頷いた。
最初の黒甲獣と同じだ。
あのときも、正面から殴り合って勝ったわけではない。
地形を利用して動きを止め、時間まで生き残った。
「……問題は、どうやって倒すかだな」
蓮が言うと、アーロンは頷いた。
「そこが一番難しいところです」
彼は人形の腹部を指した。
「硬い背中を斬ろうとしても、剣が通りません。腹や脚の付け根を狙う必要がありますが、近づけば噛まれる危険があります」
「……俺の剣で、斬れるのかな」
「十分な角度と力があれば、可能でしょう。ただし、動いている相手に正確に当てられるかは別です」
蓮は左手を見た。
剣を持つことには、少しずつ慣れてきた。
それでも、狙った場所へ正確に当てられる自信はない。
「……鬼力を使えば」
蓮が呟くと、アーロンが顔を上げた。
「使うつもりですか?」
「必要になったら」
「……なるほど」
アーロンはしばらく考えた。
「でしたら、今のうちに一つ試しておきましょう」
「何をですか?」
「出力の調整です」
蓮は顔を上げた。
「……できるんですか?」
「できるかどうかは、あなた次第です」
アーロンは訓練場の端にある木箱を開けた。
中から、小さな石を取り出す。
拳ほどの大きさだった。
「これを持ってください」
蓮は左手で受け取った。
「……これを?」
「はい。まず、能力を使わずに握ってみてください」
蓮は石を握った。
当然、何も起きない。
「では、次に《鬼力》を使ってみましょう。ただし、全力ではありません」
蓮は右腕を見た。
「……大丈夫かな」
「少しでも痛みが出たら、すぐにやめてください」
アーロンは蓮から距離を取った。
「《鬼力》を使うとき、何を意識していますか?」
「……力を出すこと、ですかね」
「それでは、常に全力になってしまいます」
蓮は石を見た。
「……どうすれば」
「力を出す時間を短くしてください。石を砕こうとせず、わずかに握る力を強める程度で構いません」
蓮は頷いた。
左手の石を握る。
能力を使おうと意識する。
腹の奥に熱が集まり始めた。
黒い紋様が、左手首に浮かび上がる。
蓮はすぐに力を抜こうとした。
だが、間に合わなかった。
パキッ。
石に亀裂が入った。
「……っ!」
左手の指が痛んだ。
蓮は石を落とした。
掌には、薄く血が滲んでいた。
アーロンが近づいてくる。
「……今のは?」
「少しだけ使おうとしたんですけど……」
「思った以上に力が出た、ということですね」
蓮は頷いた。
ほんの一瞬だった。
それでも、石が割れるほどの力が出た。
「……難しいな」
「ですが、全力で使ったときほどの反動はなかったでしょう」
蓮は左手を開いた。
指は動く。
痛みはあるが、最初の試練のような状態ではない。
「……確かに」
「ならば、少しずつ調整できる可能性はあります」
アーロンは石の破片を拾った。
「ただし、今日はここまでです。無理に繰り返せば、また怪我をします」
蓮は頷いた。
左手の血を拭う。
ほんの少しだけ、能力の使い方が見えた気がした。
それでも、まだ十分ではない。
蓮は石の破片を見た。
力は、ある。
問題は、その力をどう使うかだった。
*
出場申請を出すことになったのは、その日の夕方だった。
瀬戸は最後まで慎重だった。
「勝てるとまでは言えない。でも、何をするかは決まった。だったら、やってみてもいいと思う」
陽菜も頷いた。
「私も参加します。ただ、あの木板はもっと小さくしたいです。持って走れないと、意味がないので」
リシェルは三人の話を聞き、アーロンにも意見を求めた。
アーロンは少し考えた末に、条件を出した。
「試合までに、神谷さんの負傷が治ること。それから、三人とも途中で退く判断をできること。この二つを守れるなら、参加に反対はしません」
蓮たちは了承した。
翌日から、訓練の内容が変わった。
四体の木製人形を使い、複数の敵に囲まれた場合の動きを繰り返す。
瀬戸が距離を測り、敵役を務めるアーロンの位置を伝える。陽菜は折り畳んだ板を持って移動し、必要な場所で固定する。蓮は二人の前に立ち、相手を狭い通路へ誘導する。
何度も失敗した。
陽菜が板を立てる前にアーロンが近づいてしまうこともあれば、瀬戸の指示を聞いた蓮が、反対方向へ動いてしまうこともあった。
訓練場に置かれた板は、三日目に割れた。
アーロンが木剣で叩いたためだった。
「固定できても、壊れないわけではありません」
彼は割れた板を持ち上げて見せた。
陽菜は困った顔をしたが、翌日には小さな金属板を取りつけた新しい道具を持ってきた。
屋敷の職人に頼んで、補強してもらったらしい。
「これなら、少しは持つと思います」
瀬戸が板を受け取る。
「……前より重くなったな」
「でも、畳めます」
「そうだな。じゃあ、試してみよう」
蓮は二人のやり取りを見ながら、木剣を握り直した。
右腕の痛みは、日を追うごとに軽くなっていた。
それでも、《鬼力》を使う練習は控えている。
あの石を砕いたときの痛みが、まだ左手に残っていたからだ。
五日間は、思っていたより早く過ぎた。
*
試合当日。
蓮たちが闘技場へ入ると、目の前には灰色の山々が広がっていた。
乾いた風が吹き抜け、細かな砂が頬に当たる。遠くには切り立った崖が並び、その間を細い道が縫っていた。
足元には、割れた岩石が散らばっている。
蓮は空を見上げた。
青空の一部が、白く霞んでいた。
闘技場の内部だというのに、どこを見ても山しかない。
「……今度は山か」
瀬戸が呟いた。
「水はなさそうだな」
「それは助かります」
陽菜が足元を確かめる。
革靴の裏に、小さな石が挟まっていた。
蓮は剣を抜き、左手で軽く振ってみた。
右腕はまだ完全ではないが、普段の動きに支障はなくなっている。
アーロンからも、通常の剣術なら問題ないと言われた。
ただし、《鬼力》の使用については、最後まで許可が出なかった。
蓮は左手の剣を見た。
今日は、できるだけこの剣で戦う。
そのつもりだった。
【公式討伐戦】
【戦場:灰岩峡谷】
【討伐対象:石皮犬・四体】
【制限時間:30分】
【勝利条件:対象の全滅】
文字が現れた。
続いて、正面の岩壁に大きな亀裂が走る。
蓮は剣を構えた。
「……来るぞ」
亀裂の奥から、低い唸り声が聞こえた。
一体。
二体。
続いて、さらに二体。
石皮犬が姿を現した。
資料で見たとおり、狼に似た四足歩行の魔獣だった。
背中には灰色の硬い皮膚が重なり、脚の外側まで覆っている。腹部は比較的柔らかそうだが、地面に近く、簡単には狙えない。
一体の大きさは、大型の犬より二回りほど大きい。
蓮は、喉の奥が乾くのを感じた。
黒甲獣ほど大きくはない。
だが、四体もいる。
石皮犬たちは、すぐには襲ってこなかった。
こちらを見つめ、鼻を鳴らしている。
蓮は周囲を確かめた。
左手には岩壁。
右手には深い裂け目。
正面には、幅の狭い岩の道が続いている。
「……瀬戸」
「見えてる」
瀬戸は眼鏡を押し上げた。
「一番近いのが二十三メートル。後ろの三体は、少し離れてる」
「一体ずつ引きつけよう」
「了解」
陽菜が折り畳んだ板を抱え直した。
「私は、あの岩のところで待ちます」
蓮は頷いた。
岩壁から突き出した大きな石。
その脇には、人が一人通れるほどの隙間がある。
そこで石皮犬の動きを止める。
何度も練習した形だった。
蓮は一歩、前へ出た。
石皮犬の耳が動く。
続いて、最も近くにいた一体が頭を下げた。
「……来る!」
瀬戸が叫ぶ。
獣が走り出した。
岩を蹴る爪の音が、急速に近づいてくる。
蓮は正面から向き合わず、岩壁の方へ走った。
背後で石が砕ける。
石皮犬の足音が追ってくる。
「神谷、あと六メートル!」
瀬戸の声。
蓮は速度を落とした。
目の前の岩の隙間へ入る。
獣が追ってきた。
「今!」
瀬戸が叫ぶ。
陽菜が岩壁と、地面に転がる大きな石へ両手を伸ばした。
「《仮止め》!」
石が固定された。
石皮犬が狭い隙間へ突っ込む。
硬い背中が岩壁へ擦れ、身体が横へ傾いた。
「ギャウッ!」
短い鳴き声。
獣の腹部が、わずかに浮く。
蓮は左手の剣を振った。
刃が、前脚の付け根を捉える。
肉を裂く感触が伝わった。
石皮犬が暴れる。
蓮はすぐに距離を取った。
獣は身体を捻り、固定された石へ何度も体当たりした。
石と岩壁の間が軋む。
「神谷、あと五秒!」
瀬戸が叫ぶ。
蓮は剣を構え直した。
前脚を傷つけたとはいえ、獣はまだ動いている。
近づけば噛みつかれる。
そのとき、石皮犬が上体を持ち上げた。
岩の隙間から抜け出そうとしている。
蓮は踏み込んだ。
狙うのは、下顎の奥。
硬い皮膚に覆われていない部分だ。
剣を突き出す。
刃先が肉へ入った。
石皮犬が大きく身体を震わせた。
蓮は剣を引き抜き、後ろへ跳んだ。
獣は数歩よろめき、その場へ倒れた。
動かなくなる。
【討伐数:1/4】
文字が浮かんだ。
「……一体!」
陽菜が声を上げる。
蓮は剣を下ろさず、残りの魔獣へ目を向けた。
まだ三体いる。
そして、そのうちの一体がすでに走り出していた。
「次、来るぞ!」
瀬戸の声。
蓮は岩の隙間から離れた。
さっきと同じ方法は使えない。
陽菜の《仮止め》は、すでに効果が切れかけている。
石皮犬が近づいてくる。
蓮は左へ避けた。
獣の牙が、腕のすぐ横を通り過ぎる。
続けて、前脚の爪が振り下ろされた。
蓮は身を捻った。
爪が地面を削る。
石の破片が跳ね上がり、頬に当たった。
蓮は反撃しようとした。
だが、獣の動きが速い。
剣を振る前に、もう一度飛びかかってきた。
「……っ!」
蓮は後ろへ下がった。
足元の石が滑る。
身体が傾いた。
石皮犬の牙が迫る。
避けられない。
そう思ったところで、瀬戸が叫んだ。
「神谷! 右へ!」
蓮は反射的に右へ跳んだ。
獣が通り過ぎる。
その先には、深い裂け目があった。
石皮犬は足を踏み直そうとしたが、傷んだ岩の縁が崩れた。
「ギャッ!」
短い鳴き声。
獣の身体が裂け目へ落ちていく。
蓮は足を止めた。
下を覗き込む。
深い。
底は見えなかった。
数秒後、遠くで鈍い音がした。
【討伐数:2/4】
「……倒した?」
瀬戸が近づいてくる。
蓮は頷いた。
「たぶん。表示は二体になってる」
「なら、あと二体だな」
瀬戸が顔を上げた。
残りの石皮犬は、すでに左右へ分かれていた。
一体は正面。
もう一体は、岩壁の上を移動している。
「……まずい」
瀬戸が呟いた。
「囲まれる」
蓮は剣を握り直した。
陽菜が後ろへ下がる。
正面の石皮犬が唸り声を上げた。
同時に、岩壁の上から小石が落ちてきた。
蓮は見上げた。
石皮犬が、岩の縁に立っている。
その視線は、蓮ではなく瀬戸へ向けられていた。
「瀬戸!」
蓮が叫んだ。
獣が跳んだ。
瀬戸は振り返ったが、間に合わない。
蓮は走り出した。
だが、距離がある。
今の足では、届かない。
蓮は奥歯を噛んだ。
右腕の紋様が、熱を帯びる。
いや。
今、必要なのは腕の力ではない。
あの場所へ届くための、一歩だ。
蓮は左足を踏み込んだ。
腹の奥に熱が集まる。
黒い紋様が、足首から膝へ走った。
ほんの一瞬。
力が満ちる。
地面を蹴った。
石が砕けた。
蓮の身体が、前へ跳ぶ。
「――っ!」
視界が一気に近づいた。
瀬戸の前へ割り込む。
左手の剣を振り上げた。
石皮犬の頭部が、刃にぶつかった。
硬い感触。
剣が押し返される。
だが、獣の進路もわずかに逸れた。
瀬戸が横へ転がる。
石皮犬は地面へ落ち、前脚で踏ん張った。
蓮も着地する。
左足首に痛みが走った。
「……っ、あ」
膝が折れかける。
それでも、倒れなかった。
蓮は歯を食いしばり、剣を構え直した。
「神谷!」
瀬戸が起き上がる。
「今の、能力使ったのか!?」
「……ちょっとだけ」
蓮は左足を確かめた。
痛い。
だが、骨が折れた感触はない。
動かせる。
走ることも、できそうだった。
「あとで怒られるぞ!」
「……わかってる!」
蓮は叫び返した。
目の前の石皮犬が、低く唸る。
その向こうでは、もう一体がゆっくりと近づいていた。
残り二体。
蓮は二頭の位置を見比べた。
正面の獣は、左側へ回り込もうとしている。
もう一体は、岩壁沿いを進んでいる。
このままでは、瀬戸と陽菜が挟まれる。
「……陽菜!」
蓮が叫ぶ。
「はい!」
「岩壁のところ、固定できる?」
陽菜はすぐに周囲を見た。
大きな石が、斜面の途中に引っかかっている。
その下には、人が一人通れる程度の隙間があった。
「……できます!」
「じゃあ、そこを塞いで!」
陽菜が走り出す。
瀬戸も動いた。
「神谷、右の一体は俺が引きつける!」
「無理するなよ!」
「わかってる!」
瀬戸は小石を拾い、正面の石皮犬へ投げた。
石が甲殻に当たる。
獣が顔を向けた。
瀬戸は距離を取りながら、岩壁の反対側へ走る。
蓮はもう一体へ向き直った。
こちらの獣は、左前脚を少し引きずっている。
最初に岩壁から飛び降りたとき、着地で痛めたのかもしれない。
蓮はその脚を見た。
狙うなら、そこだ。
剣を構え、踏み込む。
石皮犬が飛びかかってきた。
蓮は横へ避ける。
今度は、大きく動かない。
身体一つ分だけずらし、獣の進路から外れる。
剣を振る。
刃が、傷んだ前脚の内側へ入った。
石皮犬が吠えた。
蓮はすぐに剣を引き、距離を取る。
獣が向きを変える。
右へ跳ぶ。
左へ避ける。
何度か繰り返したところで、石皮犬の動きが鈍った。
左前脚を地面につくたび、身体が傾いている。
蓮は息を整えた。
ここなら、狙える。
獣がもう一度、飛びかかってきた。
蓮は身体を低くした。
牙が頭上を通り過ぎる。
その下へ剣を突き上げた。
刃が、腹部へ入る。
石皮犬の身体が跳ねた。
蓮は剣を引き抜き、後ろへ下がった。
獣は数歩進み、崩れるように倒れた。
【討伐数:3/4】
蓮は荒い息を吐いた。
あと一体。
瀬戸の方を見る。
彼は石皮犬から距離を取りながら、岩壁沿いを走っていた。
その先では、陽菜が大きな石に両手を添えている。
「……瀬戸!」
蓮が叫ぶ。
「あと一体だ!」
「わかってる!」
瀬戸は振り返らずに答えた。
石皮犬が追ってくる。
距離は、次第に縮まっていた。
「……五メートル!」
瀬戸が叫ぶ。
「四!」
陽菜が身体を低くする。
石皮犬が頭を下げた。
「三!」
瀬戸が横へ跳んだ。
獣が、そのまま岩壁沿いの狭い場所へ突っ込んだ。
「今!」
陽菜が両手に力を込めた。
「《仮止め》!」
斜面に引っかかっていた石が、岩壁へ固定された。
石皮犬の進路が塞がれる。
獣は急に止まれず、石へ頭をぶつけた。
鈍い音が響く。
大きな身体が横へ傾いた。
「……神谷!」
瀬戸の声。
蓮はすでに走り出していた。
左足に痛みが走る。
だが、動ける。
獣の腹部が、岩壁の隙間から見えていた。
蓮は剣を両手で握った。
右肩が痛んだ。
それでも、力を込められる。
狙うのは、腹の柔らかい部分。
踏み込む。
剣を突き出す。
刃先が肉へ入った。
石皮犬が暴れた。
蓮は剣を押し込もうとしたが、力が足りない。
獣の身体が動く。
剣が抜けなくなりかけた。
「……っ!」
蓮は腕を引いた。
刃が抜ける。
石皮犬がこちらへ顔を向けた。
牙が迫る。
蓮は後ろへ跳んだ。
その直後、獣の前脚が大きく動いた。
固定された石に、何度も身体をぶつける。
岩壁が軋む。
陽菜の額に汗が滲んだ。
「……あと、三秒!」
蓮は剣を構え直した。
石皮犬の腹部には、深い傷が残っている。
まだ動いている。
だが、さっきより力が弱い。
蓮は一歩、前へ出た。
獣が頭を上げる。
その喉元が見えた。
蓮は剣を振った。
刃が、柔らかい部分へ入る。
石皮犬が大きく身体を震わせた。
固定された石へ、もう一度ぶつかる。
それから、ゆっくりと崩れ落ちた。
光が消えた。
石が動く。
だが、獣は立ち上がらなかった。
【討伐数:4/4】
【勝利条件達成】
蓮は剣を下ろした。
足元の石に腰を下ろす。
呼吸が荒い。
左足首が、じくじくと痛んだ。
瀬戸が近づいてくる。
「……終わったな」
「……ああ」
陽菜も、岩壁から手を離した。
石皮犬の身体が、光の粒になって消えていく。
蓮はその光景を見つめた。
昨日まで、四体の魔獣を倒せるとは思っていなかった。
だが、勝てた。
自分一人の力ではない。
瀬戸が距離を測り、陽菜が道を塞いだ。
その間に、蓮が剣を振った。
三人で作った勝利だった。
【公式討伐戦終了】
【勝利:アルヴェイン子爵家】
鐘が鳴った。
観客席から歓声が響く。
蓮はゆっくりと立ち上がった。
瀬戸が手を貸そうとしたが、蓮は首を振った。
「……大丈夫」
左足は痛む。
それでも、歩ける。
陽菜が近づいてきた。
「神谷さん、足……」
「少し痛めた。でも、たぶん軽い」
「……また治療ですね」
「そうだな」
瀬戸が呆れたように息を吐いた。
「帰ったらアーロンさんに怒られるぞ」
「……わかってる」
蓮は苦笑した。
そのとき、視界に文字が浮かんだ。
【経験値を獲得しました】
【レベルが上昇しました】
【Lv.3 → Lv.4】
【固有天賦《鬼神の加護》】
【《鬼力》の熟練度が上昇しました】
【次回能力選択:Lv.5】
蓮は表示を見つめた。
レベル四。
あと一つ。
次にレベルが上がれば、初めての能力選択が待っている。
蓮は左手を開いた。
石を砕いたときの傷は、もうほとんど消えていた。
右腕には、薄い紋様が残っている。
この力を、どこまで使えるようになるのか。
まだ、わからない。
ただ、今までより少しだけ、自分の身体の動きを理解できた気がした。
「……帰ろう」
蓮が言った。
瀬戸が頷く。
「そうだな」
陽菜も笑った。
「今日は、ゆっくり休みたいです」
三人は、峡谷の出口へ向かって歩き出した。
*
リシェルは、闘技場の出口で三人を迎えた。
蓮の左足を見た途端、表情が変わった。
「……また怪我を」
「大したことないと思う」
「その言葉は、あまり信用できなくなってきました」
蓮は返事に困った。
瀬戸が横で笑いをこらえている。
「……すみません」
「まずは治療です」
リシェルは従者へ声をかけた。
蓮は歩きながら、彼女に尋ねた。
「これで、何勝目?」
「今期、皆さんが参加してから二勝目です」
「……あと二勝か」
「はい」
リシェルは頷いた。
「ですが、まずは今日の勝利を喜ばせてください」
蓮は顔を上げた。
彼女は笑っていた。
「おめでとうございます。三人とも、見事でした」
瀬戸が頭を掻く。
「今回は、かなり作戦どおりにいきましたね」
「最後はちょっと危なかったですけど」
陽菜が言う。
蓮も頷いた。
「まだまだ、練習が必要だな」
リシェルは三人を見た。
「それでも、前の試合よりずっと落ち着いて動けていました」
蓮は歩みを緩めた。
「……リシェル」
「はい?」
「今回の試合、賞金はどれくらいになる?」
彼女は少し驚いた顔をした。
「正確な金額は、後ほど通知されます。討伐戦ですので、対象の魔獣によって報酬が変わります」
「……そっか」
「何か必要なものがありますか?」
蓮は少し考えた。
「陽菜の道具、もう少し丈夫にできないかなって」
陽菜が顔を上げた。
「私の?」
「うん。今日も石を使ってたけど、毎回あんな都合のいい場所があるとは限らないだろ」
瀬戸が頷いた。
「俺も、それは考えてた。折り畳み式の板を、もう少し軽くして、強度も上げられればいいんだけどな」
リシェルは二人の話を聞きながら、少し考えた。
「……職人に相談してみましょう」
陽菜の顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「はい。ただ、費用については確認が必要です」
「ありがとうございます!」
リシェルは頷いた。
そのとき、屋敷へ向かう馬車が近づいてきた。
従者が扉を開く。
蓮は左足を庇いながら乗り込んだ。
続いて、瀬戸と陽菜。
最後に、リシェルが席へ座った。
馬車が動き出す。
窓の外で、闘技場が少しずつ遠ざかっていった。
蓮は背もたれに身体を預けた。
左足が痛む。
右腕も、まだ完全には治っていない。
それでも、前よりは戦えるようになってきた。
瀬戸が隣で何かを話している。
陽菜が笑う。
リシェルは膝の上に帳簿を置き、今日の試合結果を書き込んでいた。
蓮は、その手元を見た。
勝利数の欄に、新しい線が一本加えられる。
二本。
あと二本で、当面の目標に届く。
リシェルは帳簿を閉じ、窓の外へ目を向けた。
蓮も、同じ方向を見た。
丘の向こうに、アルヴェイン家の屋敷が見え始めていた。




