第五話
ラドクリフ伯爵は、返事を待つ間も書斎の入口から動かなかった。
濃紺の外套には、金糸で獅子の紋章が縫い込まれている。胸元の留め具にも同じ意匠があった。装飾の多い服装だが、着ている男自身には不思議と派手な印象がない。
「神谷蓮という青年は、こちらにいるのだろう?」
伯爵が重ねて尋ねた。
リシェルは机の上の書類を伏せた。
「当家に所属しております。ただ、面会のお返事については、まだお送りしたばかりです」
「ああ、行き違いになったらしい。急がせてしまったかな」
「事前に日時をご相談いただければ、お迎えの準備もできたのですが」
伯爵の後ろに控えていた従者が、わずかに顔を上げた。
リシェルは構わず続けた。
「蓮さんとの面会をご希望でしたら、まず本人の意思を確認させてください」
「もちろんだ。無理に会わせろとは言わないよ」
伯爵はあっさり頷いた。
「待たせてもらっても?」
「応接室をご用意いたします」
リシェルが呼び鈴へ手を伸ばす。
伯爵は書斎を見渡し、壁際の本棚に目を留めた。
「懐かしいな。この部屋は昔から変わらない」
リシェルの手が止まった。
「……以前、お越しになったことが?」
「君の父上が存命だった頃にね。何度か仕事をしたことがある」
伯爵は本棚から視線を戻した。
「ずいぶん世話になった」
リシェルは何も答えなかった。
伯爵もそれ以上は話さず、案内に来た従者について廊下へ出ていった。
扉が閉まると、リシェルは机の上に残された書類を見下ろした。
先ほどまで整理していた領地の収支報告書だった。
今期の不足額が、赤い文字で記されている。
彼女は報告書を引き出しへ戻し、もう一度呼び鈴を鳴らした。
*
「……伯爵が来た?」
蓮は訓練場の端で足を止めた。
呼びに来た従者が頷く。
「はい。リシェル様が、神谷様のご意向を確認したいと」
蓮は右腕を見た。
包帯は外れているが、肩を動かすとまだ少し痛む。アーロンからは、今日も剣を持たずに足運びだけを練習するよう言われていた。
「今から会うこともできるのか?」
「お望みでしたら」
蓮は訓練場の中央へ目を向けた。
アーロンが、地面に引いた線を消している。
「アーロンさん、少し抜けても大丈夫ですか?」
「構いません。相手が伯爵なら、あまり待たせるのもよくないでしょう」
「……そんなに偉い人なんですか?」
「少なくとも、私よりはずっと」
アーロンは木剣を片づけた。
「ただし、聞かれたことに何でも答える必要はありません。わからないことは、わからないと伝えればよいのです」
蓮は頷いた。
訓練場を出ようとしたところで、背後から声がした。
「神谷、どこ行くんだ?」
瀬戸だった。
陽菜と一緒に、訓練用の木板を抱えている。
「伯爵が来たらしい。ちょっと会ってくる」
「伯爵って、昨日の手紙の?」
「ああ」
瀬戸は木板を壁へ立てかけた。
「一人で行くのか?」
「リシェルもいると思うけど」
「なら、俺も行こうかな」
「……何で?」
「気になるだろ。あの貴族が何を考えてるのか」
瀬戸は眼鏡を押し上げた。
「それに、交渉みたいな話になるなら、人がいたほうがいいんじゃないか」
蓮は少し考えた。
「……確かに」
会社員だったという瀬戸のほうが、こういう場面には慣れているかもしれない。
少なくとも、大学生の自分よりは。
「じゃあ、一緒に来てくれる?」
「もちろん」
陽菜も木板を置いた。
「私も行ったほうがいいですか?」
「村瀬さんは、訓練を続けてていいよ。俺たちで話を聞いてくる」
瀬戸がそう言うと、陽菜は頷いた。
「わかりました。何かあったら呼んでください」
二人は従者に案内され、屋敷へ向かった。
廊下を歩く間、蓮は右腕の袖を下ろした。
紋様はすでにほとんど消えている。
それでも、能力を使おうと意識すると、皮膚の内側に熱が集まる感覚があった。
伯爵が知りたがっているのは、おそらくこれだ。
鬼神の加護。
自分でも使い方のわからない力を、ほかの人間に説明できるのだろうか。
応接室の前で従者が立ち止まった。
「神谷様と瀬戸様をお連れしました」
扉の向こうから、リシェルの返事があった。
「どうぞ」
蓮は一度、瀬戸を見た。
瀬戸が軽く頷く。
二人は扉をくぐった。
部屋には、すでに茶の香りが漂っていた。
窓際の長椅子に伯爵が座り、その向かいにリシェルがいる。
伯爵の従者は扉の脇に控えていた。
蓮たちが入ると、伯爵は茶器を置いた。
「君が神谷蓮君か」
「はい」
「隣は?」
「瀬戸直也です。同じチームで戦っています」
瀬戸が頭を下げる。
伯爵は二人を見比べた。
「なるほど。昨日の試合で《測距》を使っていた青年だね」
瀬戸の眉が少し上がった。
「能力までご存じなんですか」
「試合を見ていれば、ある程度はね。君は距離を確かめながら仲間へ指示を出していた」
伯爵は向かいの椅子を示した。
「座ってくれ。立ったままでは話しにくい」
蓮はリシェルを見た。
彼女が頷いたので、瀬戸と並んで腰を下ろした。
「まずは、昨日の勝利を祝わせてほしい」
伯爵が言った。
「私の剣闘士を三人とも退けるとは、なかなか見事だった」
「……ありがとうございます」
蓮は答えた。
伯爵は微笑んだまま続ける。
「朝倉たちから話を聞いたよ。随分と悔しがっていた」
「三人とも、怪我は大丈夫なんですか?」
「ああ。堀内は打撲が残っているが、命に関わる傷ではない。藤堂も朝倉も、すでに訓練へ戻っている」
蓮は少し肩の力を抜いた。
伯爵はその様子を見ていた。
「自分が倒した相手を心配するのか」
「同じ日本から来た人たちですから」
「そうか」
伯爵は茶器に手を伸ばした。
「だが、次も同じように戦えるとは限らない。相手が降参しなければ、君が傷つくかもしれないし、相手が死ぬかもしれない」
蓮は返事をしなかった。
昨日、朝倉の首元に剣を向けたときのことを思い出した。
もし相手が降参せず、炎を撃とうとしていたら。
自分は剣を突き出せただろうか。
「……それは、わかっています」
蓮が答えると、伯爵は頷いた。
「ならばいい。試合の相手を気遣うことと、危険を忘れることは別だからね」
彼は茶を一口飲んだ。
「さて、本題に入ろう」
蓮は背筋を伸ばした。
「君の天賦について、少し聞きたい」
「《鬼神の加護》のことですか」
「そうだ」
伯爵は頷いた。
「最初の試練で、君は黒甲獣の甲殻を素手で砕いた。その後の試合では、一度も同じ力を使わなかったね」
「……見てたんですか?」
「もちろん。今回の召喚者の試合記録は、ほとんど確認している」
伯爵は蓮の右腕へ視線を落とした。
「使わなかったのか、使えなかったのか。どちらだろう」
蓮は少し迷った。
右腕の状態を、どこまで話すべきか。
「……両方です」
結局、そう答えた。
「使えば強くなれるけど、今の身体じゃ負担が大きすぎる。試合では、できるだけ使わないようにしました」
「なるほど」
伯爵は腕を組んだ。
「出力に身体が追いつかないわけだ」
「……はい」
「興味深い」
伯爵は傍らの従者へ手を伸ばした。
従者が細長い木箱を差し出す。
箱の留め具を外すと、中から古い紙束が現れた。
「これを見てもらいたい」
伯爵は一枚を取り出し、卓上へ置いた。
蓮は紙を覗き込んだ。
当然ながら、文字は読めない。
ただ、中央に描かれた図だけはわかった。
人間の身体。
その腕と胸に、黒い線が走っている。
蓮は思わず身を乗り出した。
「……これ」
「似ているだろう?」
伯爵が言った。
「古い天賦の記録だ。名称は《鬼将の加護》」
「鬼将……?」
「君の《鬼神の加護》とは、名前が一文字違う」
蓮は絵を見つめた。
腕に走る紋様。
形は違う。
だが、肩から胸へ広がる線の配置は、自分のものとよく似ていた。
「同じ能力なんですか?」
「それはわからない」
伯爵は即答した。
「名前が似ているからといって、同じ性質を持つとは限らない。天賦はそれぞれ固有のものだからね」
彼は紙の下部を指さした。
「ただ、共通点はある」
リシェルが身を乗り出した。
「……肉体強化型の天賦、ということでしょうか」
「そうだ。この記録の持ち主も、常人を大きく超える力を発揮したらしい」
伯爵は紙を裏返した。
「だが、最初は自分の力に耐えられなかった」
蓮の目が止まった。
「……それって」
「骨折や筋肉の損傷を繰り返したと書かれている。君と似ているね」
伯爵は二枚目の紙を出した。
そこには、先ほどとは違う紋様が描かれていた。
「この人物は、その後、天賦を進化させている」
「進化……」
「そう。レベルが上がり、能力選択の機会を得たんだ」
蓮は顔を上げた。
「選択したら、何が変わったんですか?」
伯爵は紙に目を落とした。
「最初の進化では、筋力をさらに高める能力を選んでいる」
「……さらに?」
「そうだ。結果として、出せる力は大きくなった」
蓮は続きを待った。
伯爵は、しばらく紙を見ていた。
「だが、その後も怪我は減らなかったようだ」
「……そうですか」
蓮は右腕へ目を向けた。
力を強くすれば、当然、敵を倒しやすくなる。
だが、身体が耐えられなければ意味がない。
「能力選択って、毎回好きなものを選べるわけじゃないんですよね?」
瀬戸が尋ねた。
「そのとおり」
伯爵は頷いた。
「一定のレベルに達すると、天賦に関連した三つの候補が提示される。その中から一つを選ぶ仕組みだ」
「候補は人によって違う?」
「違う。同じような天賦でも、これまでの戦い方や成長の経緯によって、提示されるものが変わると言われている」
蓮は紙を見た。
「じゃあ、俺もレベル五になったら……」
「三つの候補から、一つ選ぶことになる」
伯爵は紙束を箱へ戻した。
「そして、一度選んだものは、原則として取り消せない」
瀬戸が小さく息を吐いた。
「……結構、重い選択ですね」
「そうだね。特に最初の選択は、その後の成長に大きく関わる」
伯爵は蓮へ顔を向けた。
「君がどんな能力を得るのか、私は非常に興味がある」
蓮は、その言葉の先を待った。
伯爵は微笑んだ。
「私の家へ来ないか」
部屋が静かになった。
蓮は、すぐには意味を理解できなかった。
「……え?」
「ラドクリフ伯爵家へ移籍してほしい、と言っている」
伯爵は落ち着いた声で続けた。
「君の天賦は、まだ扱い方がわかっていない。だが、それだけ大きな力を持っているのなら、きちんとした環境で育てる価値がある」
リシェルの手が、膝の上で止まった。
「……伯爵」
彼女が口を開く。
伯爵は片手を上げた。
「もちろん、強制するつもりはない。契約を結ぶかどうかは本人が決めることだ」
それから蓮を見る。
「報酬は、現在の三倍を保証しよう。専属の治癒術師と訓練担当者をつける。必要な装備も用意する」
蓮は黙っていた。
今の三倍。
専属の治癒術師。
訓練設備。
リシェルの屋敷では、どれも十分に揃っているとは言えない。
伯爵は続けた。
「それから、天賦に関する資料も閲覧できるようにする。私の家には、王都でも有数の記録が集まっているからね」
蓮は卓上の木箱を見た。
たった今見せられた、古い天賦の記録。
自分の能力を理解する手がかりになるかもしれない。
条件だけ見れば、魅力的だった。
「……瀬戸と村瀬は?」
蓮が尋ねた。
伯爵は少し首を傾げた。
「二人も一緒に、ということかな」
「はい」
「……ふむ」
伯爵は瀬戸を見た。
「《測距》は便利な能力だ。観測や測量にも使えるだろう」
それから、少し考えた。
「《仮止め》についても、使い道はありそうだ。だが、二人を同じ条件で迎え入れるとなると、話は変わってくる」
「……そうですか」
「君ほど高い待遇にはできないかもしれない」
蓮は頷いた。
予想していた答えだった。
「じゃあ、今はやめておきます」
伯爵が眉を上げた。
「……もう決めるのかい?」
「はい」
「理由を聞いても?」
蓮は少し考えた。
「今の家で、まだやれることがあるので」
伯爵はリシェルへ目を向けた。
彼女は黙っていた。
「アルヴェイン家のために?」
「それもあります」
蓮は答えた。
「でも、一番は、今の仲間と戦いたいからです」
瀬戸が横から蓮を見た。
「……神谷」
「俺、一人じゃ最初の試練も生き残れなかったと思うんです。昨日の試合もそうです」
蓮は伯爵を見た。
「強い能力があるだけじゃ、勝てないってわかったので」
伯爵はしばらく黙っていた。
やがて、口元を緩めた。
「……なるほど」
茶器を持ち上げる。
「君が、あの三人の戦い方にこだわる理由はわかった」
蓮は返事をしなかった。
「気が変わったら、いつでも声をかけてくれ。今日の話は、それまで保留にしておこう」
伯爵は木箱を閉じた。
蓮は、その手元を見た。
「あの……一つ、聞いてもいいですか」
「何かな」
「さっきの記録、もう少し見せてもらうことはできますか?」
伯爵は蓮を見た。
少ししてから、笑った。
「やはり、気になるか」
「はい」
「残念だが、今ここにあるのは一部だけだ。原本は王都の資料庫に保管されている」
「……そうですか」
「ただ、閲覧する方法がないわけではない」
伯爵はリシェルへ目を向けた。
「アルヴェイン子爵。君の家から正式な閲覧申請を出せば、紹介状を用意することはできる」
リシェルは少し考えた。
「……条件はございますか?」
「資料庫の規則に従うこと。それだけだ」
伯爵は肩をすくめた。
「さすがに、閲覧した者を全員、私の家へ勧誘するつもりはないよ」
リシェルはすぐには答えなかった。
「では、規則と閲覧可能な資料の範囲を、書面でいただけますか」
「もちろん」
伯爵は従者へ声をかけた。
従者が小さな帳面を取り出し、何かを書き始める。
「後日、正式な案内を届けさせよう」
蓮は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。君がどのように成長するのか、私も見てみたいからね」
伯爵は立ち上がった。
リシェルも席を立つ。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。急な訪問に応じてくれて感謝する」
伯爵は出口へ向かった。
扉の前で、一度だけ振り返る。
「そうだ、神谷君」
「はい」
「君の次の試合は、もう決まっているのかな」
蓮はリシェルを見た。
彼女が首を振る。
「まだです」
「ならば、少し急いだほうがいいかもしれない」
伯爵は穏やかに言った。
「今期の集計は、もうすぐ締め切られる。下位の家ほど、残された試合の重みが大きくなるからね」
リシェルは頷いた。
「承知しております」
「そうか」
伯爵はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
従者の足音が廊下を遠ざかる。
しばらくして、屋敷の外で馬車が動き出す音が聞こえた。
蓮は椅子に座り直した。
「……緊張した」
瀬戸が息を吐く。
「俺も。ああいう人と話すの、仕事でもほとんどなかったな」
蓮はリシェルを見た。
「……あの人、何考えてるんだろう」
リシェルは空になった茶器を見ていた。
「おそらく、本当にあなたの力に興味があるのでしょう」
「……それだけ?」
「それだけとは、思えません」
彼女は木箱が置かれていた場所へ目を向けた。
「伯爵家にとって、有望な剣闘士を早い段階で確保することは、大きな利益になります。あなたを勧誘すること自体は、不思議ではありません」
「……なるほど」
「ただ、今回のように伯爵ご本人が訪問されるのは、珍しいことです」
蓮は考え込んだ。
直接会いに来るほど、自分の能力が気になるのか。
それとも、ほかに理由があるのか。
「……リシェル」
「はい」
「資料庫の件、お願いしてもいい?」
「もちろんです。条件を確認して、問題がなければ申請しましょう」
蓮は頷いた。
「ありがとう」
「それと、蓮さん」
リシェルが声をかけた。
「先ほどのお返事ですが……」
彼女は少し言い淀んだ。
蓮は顔を上げた。
「……何?」
「当家に残るとおっしゃってくださったこと、嬉しく思います」
蓮は少し照れくさくなった。
「……そんな大したことじゃないよ」
「いいえ」
リシェルは首を振った。
「あなたには、もっと良い条件を選ぶ権利があります。それでも当家に残ってくださるのでしたら、私もできる限りのことをしたいと思っています」
蓮は頷いた。
「じゃあ、これからもよろしく」
「はい」
リシェルは小さく微笑んだ。
瀬戸が横から口を挟む。
「……二人とも、俺がいること忘れてない?」
蓮が振り返る。
「忘れてないよ」
「いや、何となく居づらくなってきたからさ」
リシェルが少し慌てた。
「そ、そんなつもりでは……」
瀬戸が笑う。
「冗談ですって」
蓮も笑った。
さっきまでの緊張が、少しだけ薄れた。
そのとき、窓の外から鐘の音が聞こえた。
遠くの闘技場で、また試合が始まったのだろう。
蓮は窓へ目を向けた。
巨大な建造物の上に、赤い旗が揺れている。
まだ、あの中では誰かが戦っている。
蓮は右腕を見た。
黒い紋様は、すでに薄くなっていた。
次のレベルまで、あと二つ。
新しい能力を選ぶとき、自分は何を選ぶのだろう。
伯爵が見せた記録の持ち主は、力を強くする道を選んだ。
その結果、怪我を繰り返したという。
ならば、自分は。
蓮は考えかけて、やめた。
まだ、候補すら見ていない。
今は、目の前のことから始めるしかない。
「……瀬戸」
「ん?」
「訓練場、戻ろうか」
瀬戸は立ち上がった。
「そうだな。村瀬さんも待ってるし」
二人はリシェルに挨拶し、応接室を出た。
廊下の先から、陽菜の声が聞こえてくる。
何かを動かしているらしく、木がぶつかる音もした。
蓮は足を速めた。
右腕を庇いながら、訓練場へ向かった。




