第四話
銀貨が食卓に置かれ、乾いた音を立てた。
「こちらが、今回の試合で皆さんに支払われる報酬です」
リシェルは三つの革袋を、それぞれの前へ差し出した。
蓮は受け取った袋を開けてみた。大小の硬貨が入っている。銀色のものが大半で、縁には細かな模様が刻まれていた。
「これ、いくらくらいなんだ?」
「一般的な宿でしたら、しばらく滞在できる金額です」
「へえ。思ったよりもらえるんだな」
瀬戸が袋を持ち上げた。
「俺たち、まだ一回しか勝ってないのに」
「公式戦の賞金は、参加者への報酬と所属家への配分に分かれています。皆さんの取り分は、契約で定めた割合になっています」
蓮は硬貨を一枚取り出した。
表面には知らない男の横顔。裏には、塔を三つ並べた紋章があった。
「日本円に換えられたらいいんだけどな」
瀬戸が言う。
「帰れるなら、こんな金いらないけど」
誰もすぐには答えなかった。
蓮は硬貨を袋へ戻した。
試合に勝ってから、すでに数時間が過ぎている。脇腹の傷は治癒術師に塞いでもらったが、身体を捻るとまだ痛んだ。右腕も前より動くようになったものの、重いものを持つことは禁止されている。
それでも報酬を受け取ると、ようやく仕事を終えた気分になった。
その仕事が、命を懸けて人間と戦うことだというのは、考えないようにしているだけかもしれない。
「リシェルの取り分は?」
蓮が尋ねると、彼女は手元の帳簿を開いた。
「こちらです」
並んだ数字を見ても、蓮には読めない。
「今回の賞金から登録費を差し引き、残りが当家の収入になります。治療や装備にかかった費用は、その中から支払います」
「それで、家は大丈夫なのか?」
「今回の収入だけで、すべての問題が解決するわけではありません」
リシェルは帳簿を一枚めくった。
「ただ、次の納付までに必要な額には、少し近づきました」
瀬戸が身を乗り出す。
「納付って、税金ですか?」
「税と、防衛負担金です。国境を守る家には、領地の収入に応じた負担が求められます」
「なるほど。毎年かかるものなんですね」
「はい。それに加えて、闘技場の戦績が一定の基準を下回ると、領地の一部を返還しなければなりません」
蓮は食卓の向こう側を見た。
リシェルの背後には大きな窓があり、その外に畑が見える。夕方の光の中で、何人かが農具を片づけていた。
「領地って、あの辺りも?」
「そうです。丘の向こうの村々も、アルヴェイン家の管理下にあります」
「土地を取られたら、住んでる人はどうなる?」
「新しい領主の統治を受けます」
リシェルの返事は短かった。
「それが、必ずしも悪いこととは限りません。ただ、今の土地で暮らし続けられるか、税がどう変わるかは、次の領主次第になります」
蓮は窓の外を見た。
畑仕事を終えた人々が、屋敷とは反対方向へ歩いていく。
あの人たちにとっては、貴族同士の勝ち負けも生活に関わる問題なのだろう。
瀬戸が帳簿を覗き込んだ。
「それで、あと何勝必要なんです?」
「今の戦績だけで計算するなら、少なくとも三勝は必要です。ただし、ほかの家の成績によっても変わります」
「あと三勝か……」
「それも、期限までにです」
リシェルは帳簿の端を指で押さえた。
「今期の集計が終わるまで、あと一か月ほどしかありません」
瀬戸の手が止まった。
「一か月で三勝?」
「はい」
「随分、忙しいな」
蓮が言うと、リシェルは苦笑した。
「これまでは、試合へ出せる剣闘士の人数も限られていましたので」
「でも、今は俺たちがいる」
「……ありがとうございます」
リシェルは顔を上げた。
「ただし、怪我が治るまでは無理をしていただきたくありません。次の試合については、皆さんの状態を見て決めたいと思っています」
「そうしてください」
瀬戸が即答した。
「神谷、昨日も治療室で怒られてましたから」
「怒られたわけじゃないだろ」
「次に同じことをしたら治しきれるかわからないって言われたんだろ?」
「……それは、そうだけど」
陽菜が蓮の右腕を見た。
「私も、少し休んだほうがいいと思います」
二人の視線が集まる。
蓮は革袋を卓上に置いた。
「わかった。無理はしない」
「それ、試合前にも聞いたぞ」
瀬戸が言った。
「今回は本当に」
「なら、いいけど」
陽菜が笑った。
蓮はそれ以上言い返さなかった。
実際、まだ右腕は満足に動かない。今の状態で次の試合へ出れば、二人の足を引っ張るだけだ。
リシェルが帳簿を閉じた。
「それでは、報酬については以上です。皆さん、今日はゆっくり休んでください」
三人が立ち上がりかけたところで、食堂の扉が叩かれた。
「お嬢様。王都から使いが参りました」
廊下に立つ従者が告げた。
「ラドクリフ伯爵家より、お手紙を預かっております」
リシェルの表情が変わった。
「……ラドクリフ伯爵家から?」
「はい。至急、お目通しいただきたいとのことです」
従者が封筒を差し出した。
厚い紙には赤い封蝋が押され、獅子の紋章が刻まれている。
リシェルはそれを受け取り、封を切った。
蓮は座り直した。
ラドクリフ伯爵家。
さっき戦った朝倉たちの所属先だ。
何の用だろう。
リシェルは手紙を読み進めるうち、眉を寄せた。
「……何かあった?」
蓮が尋ねる。
彼女は顔を上げた。
「神谷さん。あなたに、面会の申し出が届いています」
「俺に?」
「はい」
「誰から?」
「ラドクリフ伯爵ご本人です」
蓮は瀬戸と顔を見合わせた。
瀬戸が小さく首を傾げる。
「……負けた相手の貴族が?」
「詳しい用件は記されていません。ただ、あなたの天賦について話をしたい、と」
蓮は右腕を見た。
包帯の隙間に、黒い紋様が残っている。
「《鬼神の加護》のことか」
「おそらく」
リシェルは手紙を卓上に置いた。
「面会を断ることもできます。あなたに応じる義務はありません」
「……会ったほうがいいのかな」
「私としては、慎重に判断したいところです」
彼女は言葉を選んだ。
「伯爵家は、当家よりもはるかに大きな力を持っています。単なる情報交換であれば問題ありませんが、何か別の意図があるかもしれません」
蓮は手紙を見た。
自分の名前が書かれているはずだが、読めない。
この世界に来て数日。
まだ、何も知らない。
だからこそ、話を聞いてみたい気持ちもあった。
「……少し考えさせて」
「もちろんです」
リシェルは手紙を畳んだ。
蓮は革袋を持ち、食堂を出た。
廊下に出ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
遠くに、万界闘技場の灯りが見える。
試合はもう終わったはずなのに、建造物の周囲にはまだ人が集まっていた。
蓮はしばらく、その光を見ていた。
*
翌朝、訓練場にはアーロンが待っていた。
壁際に並ぶ木剣の前で、蓮がやって来るのを見ている。
「傷の具合は?」
「昨日よりはいいです」
「右腕は」
「まだ痛みます」
「では、今日は剣を振りません」
蓮は足を止めた。
「……訓練は?」
「します。剣を使わないだけです」
アーロンは訓練場の中央へ歩いた。
地面には、細い線が何本も引かれている。
「昨日の試合を、リシェル様から聞きました」
「はい」
「勝ったそうですね」
「三人で、何とか」
「おめでとうございます」
アーロンは短く言った。
「では、次に同じ相手と戦ったら、また勝てますか?」
蓮は答えに詰まった。
朝倉の炎。
堀内の盾。
藤堂の水紋。
どれも、一度戦ったからこそわかった能力だった。
相手がこちらの戦い方を知った今、同じ方法が通じるとは限らない。
「……わかりません」
「そうでしょう」
アーロンは地面の線を示した。
「では、何が足りなかったのかを考えましょう」
蓮は線の前へ立った。
「まず、あなたは相手の剣を避けるとき、身体を大きく動かしすぎています」
「……そうですか?」
「試合では、それで何度も足場を失いました。相手が追撃してこなかったから助かった場面もあります」
アーロンはゆっくりと歩いてみせた。
一歩。
半歩。
身体の向きを変える。
「攻撃を避けるために必要なのは、大きく逃げることではありません。相手の攻撃が届かない位置へ、必要なだけ動くことです」
蓮も真似をした。
最初は足がもつれた。
慣れてくると、少しずつ動きが小さくなる。
アーロンは蓮の前に立ち、手を伸ばした。
「私の手に触れられないよう、避けてください」
「わかりました」
アーロンの手が動く。
蓮は反射的に大きく下がった。
「下がりすぎです」
もう一度。
今度は横へ避ける。
「足が交差しています」
三度目。
アーロンの手が伸びた。
蓮は半歩だけ身体をずらした。
指先が肩をかすめる。
「……今のです」
アーロンが手を下ろした。
「ようやく、必要な距離だけ動けました」
蓮は自分の足元を見た。
大きく避けなくても、届かない場所へ移動できる。
言葉にすれば簡単だ。
だが、実際にやると難しい。
「もう一度、お願いします」
アーロンが頷いた。
訓練は続いた。
午前中いっぱい、蓮はひたすら足を動かした。
剣を振ることも、能力を使うこともない。
ただ、伸びてくる手を避ける。
それだけの練習だった。
それでも、終わる頃には額に汗が滲んでいた。
蓮は訓練場の端へ座り込んだ。
「……疲れた」
アーロンが水差しを置いた。
「慣れない動きは、身体に負担がかかります。最初からできる人などいません」
蓮は水を飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
「……アーロンさん」
「何でしょう」
「俺の能力について、何かわかりますか?」
アーロンは蓮の右腕を見た。
「《鬼神の加護》ですか」
「はい」
「名前は聞いたことがあります。ただ、詳しいことまでは知りません」
蓮は顔を上げた。
「聞いたことはあるんですか?」
「古い記録に、鬼神の名を持つ天賦がいくつか残っています。ですが、それらが同じ力なのかはわかりません」
アーロンは少し考えた。
「あなたの場合、今わかっているのは、肉体を強化する力だということ。そして、強化した肉体がその力に耐えられていないということです」
蓮は頷いた。
「……どうすれば、使えるようになりますか?」
「まずは身体を鍛えることです」
アーロンは即答した。
「能力そのものを鍛える方法もあるでしょう。しかし、土台となる身体が弱いままでは、何を覚えても同じことを繰り返します」
「……なるほど」
「それから、もう一つ」
アーロンは蓮の目を見た。
「力を出すことだけを考えないでください」
「……どういう意味ですか?」
「昨日の試合で、あなたは《鬼力》を使わずに勝ちました」
蓮は頷いた。
「仲間がいたからです」
「そうですね。あなた一人では、勝てなかったでしょう」
アーロンは訓練場の中央へ目を向けた。
「ですが、それは弱さではありません。必要なときに必要な力を使う。それができれば、能力はもっと役に立ちます」
蓮は右腕を見た。
黒い紋様が、包帯の下に残っている。
強い力を持っている。
それは確かだ。
だが、使い方を間違えれば、自分も仲間も危険に晒す。
「……わかりました」
蓮は立ち上がった。
「もう一回、足からお願いします」
アーロンは小さく頷いた。
「よろしい」
再び、訓練が始まった。
訓練を終えた頃には、陽が傾き始めていた。
蓮は水場で顔を洗い、濡れた手で首筋の汗を拭った。腕を大きく動かさなかったせいか、右肩の痛みは朝より軽くなっている。
訓練場の端では、瀬戸と陽菜がまだ木板を並べていた。
「……何やってるんだ?」
蓮が近づくと、瀬戸は地面に引いた線を指さした。
「《仮止め》の使い方を調べてた。固定したものが、どれくらいの力で壊れるかって話」
「もうわかった?」
「細い木なら、固定が切れる前に折れる。石同士なら、結構強く押しても平気だった」
陽菜が石板を二枚持ち上げた。
「あと、離れた場所からは使えません。必ず両方に触らないと駄目みたいです」
「それ、結構危なくないか?」
「そうなんです。だから、何をどこで固定するか、先に決めておいたほうがよさそうで」
陽菜は石板を並べ直した。
蓮はそれを見ながら、試合中の出来事を思い出した。
橋の上で、藤堂の退路を塞いだ木戸。
そして、朝倉の背後を塞いだ倒れかけの扉。
「……場所を選べば、かなり使えるな」
「そう思うだろ?」
瀬戸が頷いた。
「ただ、いつも都合よく木戸があるわけじゃない。持ち運べる道具があったほうがいいかもしれない」
「板とか?」
「そう。折り畳めるものなら邪魔にもならないだろうし」
陽菜が自分の両手を見た。
「……私、武器より道具を持ったほうがいいのかな」
「両方試してみればいいんじゃないか」
蓮が言うと、陽菜は頷いた。
瀬戸は石板を片づけ始めた。
「アーロンさんにも相談してみるか。戦場で持ち歩けるものを考えてくれるかもしれない」
「そうだな」
蓮は二人と一緒に道具を運んだ。
その途中、屋敷から一人の従者がやって来た。
「神谷様。リシェル様がお呼びです」
「俺だけ?」
「はい。書斎へお越しいただきたいとのことです」
蓮は瀬戸たちに声をかけ、屋敷へ戻った。
*
リシェルの書斎は、二階の奥にあった。
扉を叩くと、中から返事があった。
「どうぞ」
部屋には本棚が並び、壁には大きな地図が掛けられていた。地図には赤と青の線が複雑に引かれ、ところどころに小さな旗の印がある。
リシェルは机の前に座っていた。
「訓練中に呼び出してしまって、申し訳ありません」
「ちょうど終わったところだから大丈夫」
蓮は勧められた椅子に腰を下ろした。
机の上には、昨日届いた赤い封蝋の手紙が置かれている。
「伯爵の件?」
「はい。お返事を出す前に、あなたの意思を確認しておきたいと思いまして」
「……会ってみようと思ってる」
リシェルは少し意外そうな顔をした。
「よろしいのですか?」
「何の話なのか気になるし、俺の能力について何か知ってるのかもしれない」
蓮は右腕を見た。
「アーロンさんにも聞いたけど、詳しいことはわからなかった。もし伯爵が何か知ってるなら、聞いておきたい」
リシェルは頷いた。
「確かに、ラドクリフ伯爵家には多くの記録が集まっています。古い天賦についても、当家より詳しい資料を持っているでしょう」
「じゃあ、会っても大丈夫かな」
「お話を聞くこと自体は問題ありません。ただし、私も同席させてください」
「もちろん」
リシェルは机から新しい便箋を取り出した。
「では、当家での面会を希望する旨をお伝えします。場所がこちらであれば、相手の都合だけで話を進められることもありませんから」
蓮は書き始めた彼女の手元を見た。
迷いなくペンが動く。
いつもは穏やかに話すリシェルだが、貴族としての仕事をしているときは、少し雰囲気が違った。
「……リシェル」
「はい?」
「伯爵って、そんなに偉いのか?」
彼女はペンを止めた。
「爵位だけでも、私より上の立場です。それに、ラドクリフ伯爵家は王都の有力家門の一つですから」
「……家の力も違うんだな」
「はい。保有する領地も、兵の数も、闘技場での戦績も大きく違います」
蓮は壁の地図を見た。
「この地図、国の地図?」
「大陸西部の地図です。こちらが私たちの住むエルデン王国で、北側にノルグラント帝国、南にはセレスタ海洋連邦があります」
リシェルは席を立ち、地図の前へ移動した。
蓮も立ち上がる。
彼女が指で示した場所には、それぞれ違う色の線が引かれていた。
「闘技場は、どこの国にあるんだ?」
「万界闘技場そのものは、どの国にも属していません」
「……属してない?」
「はい。各国は闘技場を共同で管理しています。入口はそれぞれの国にあり、同じ闘技場へ繋がっています」
蓮は地図を見た。
国境から離れた場所にも、闘技場を示す印がある。
「じゃあ、俺たちが戦った場所って……」
「昨日の沈水街も、第一試練の森林も、闘技場の内部です。外から見える建物の大きさとは関係がありません」
蓮は少し考えた。
「森の奥まで走ってたら、どこまで行けたんだ?」
「試合ごとに、移動できる範囲は定められているそうです。それ以上は、闘技場の結界によって進めなくなります」
「……なるほど」
あの森にも、終わりはあったということか。
もっとも、追われていた蓮には、その境界を確かめる余裕などなかった。
「ほかの国にも、日本人が行ってるのか?」
「はい。召喚に参加した貴族の中には、他国の方もいます。生き残った召喚者は、それぞれの契約先へ移りました」
蓮は地図を見つめた。
三百人が召喚され、二百三十七人が生き残った。
その全員が、この国にいるわけではない。
今頃、知らない国で暮らし始めている人間もいるのだろう。
「……いつか、ほかの国の奴らとも戦うのかな」
「国際大会へ出場する資格を得れば、可能性はあります」
「国際大会?」
「各国の上位派閥が参加する大会です。通常の試合よりも大規模で、複数の勢力が同時に戦うこともあります」
リシェルは地図の中央を指さした。
「優勝した派閥には、大きな報酬と政治的な権利が与えられます」
蓮はその場所を見た。
国境線がいくつも集まっている。
「……ずいぶん先の話だな」
「そうですね」
リシェルは小さく笑った。
「まずは、今期の戦績を何とかしなければなりませんから」
蓮も笑った。
国際大会。
名前だけ聞けば、少しわくわくする。
だが、そこで戦う相手は、きっと今まで以上に強いのだろう。
自分の力がどこまで通用するのか。
考えてみても、まだ想像できなかった。
リシェルは机へ戻り、便箋を書き終えた。
「面会については、これでお返事を出しておきます」
「ありがとう」
「ただ、蓮さん」
彼女は封筒を閉じる前に、蓮を呼んだ。
「伯爵家から何か提案があっても、その場で返事をする必要はありません」
「……わかった」
「特に、契約や能力に関わることについては、必ず内容を確認してください」
蓮は頷いた。
リシェルは封筒に封をして、机の端へ置いた。
「それでは、今日はここまでにしましょう。夕食まで、まだ少し時間がありますので」
蓮は席を立った。
「……リシェル」
「はい?」
「もし伯爵が、俺を自分の家に欲しいって言ってきたら、どうする?」
彼女は蓮を見た。
少しだけ、返事に間があった。
「……その場合は、あなたの意思を確認します」
「それだけ?」
「はい。契約には、ご本人の同意なく移籍させないと明記していますから」
蓮は彼女を見つめた。
「……引き止めたりしないのか?」
リシェルは視線を落とした。
「引き止めたいとは、思うでしょう」
小さな声だった。
「ですが、私の家より良い条件があるのなら、それを知る権利はあなたにあります」
蓮は何も言わなかった。
彼女は机の上の書類を揃えた。
「私の都合だけで、あなたの選択を狭めたくはありません」
蓮は、その言葉を聞いてから扉へ向かった。
「……今のところ、移るつもりはないよ」
リシェルが顔を上げた。
蓮は扉の前で振り返った。
「まだ一回しか勝ってないし、あんたの家がどうなるかも気になるから」
リシェルは少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
蓮は頷き、書斎を出た。
*
その夜。
蓮は自室の寝台に腰掛け、目の前の表示を開いていた。
【名前:神谷 蓮】
【レベル:3】
【固有天賦:鬼神の加護】
【解放能力:鬼力】
【次回能力選択:Lv.5】
指を動かし、能力の詳細を確認する。
【鬼力】 鬼神の力を肉体に宿し、身体能力を一時的に強化する。 現在の肉体では、出力に応じた反動が発生する。
蓮は説明を読み直した。
出力に応じた反動。
その一文が引っかかった。
最初の試練では、力を込めることしか考えていなかった。
目の前の魔獣を止めるために、出せるだけの力を出した。
だから、腕が壊れた。
ならば。
「……少しだけ使うことも、できるのか?」
蓮は右手を開いた。
指先の紋様は、まだ薄く残っている。
試しに力を込めようとして、途中でやめた。
治癒術師の顔が浮かんだ。
今、無理に試して悪化させれば、明日の訓練もできなくなる。
蓮は手を下ろした。
「……明日、アーロンさんに聞いてみるか」
窓の外には、星が見えた。
日本で見ていた空とは、星の並び方が違う。
蓮はしばらく眺めていたが、やがて寝台へ横になった。
右腕を身体の横へ置き、目を閉じる。
明日も訓練がある。
伯爵との面会も、近いうちに行われるだろう。
考えることは多かった。
それでも、今日は眠れそうだった。
*
翌日の午後。
アルヴェイン家の門前に、一台の馬車が停まった。
黒い車体。
金色の装飾。
扉には、獅子の紋章が刻まれている。
従者が慌てて屋敷へ駆け込んだ。
「リシェル様!」
書斎で書類を整理していたリシェルが顔を上げる。
「何事ですか?」
「ラドクリフ伯爵家より、お客様がお見えです!」
「……もう?」
リシェルは椅子から立ち上がった。
返事を出してから、まだ一日も経っていない。
面会の日程について、正式な回答は届いていなかった。
「どなたがいらしたのですか?」
従者は一度息を整えた。
「ラドクリフ伯爵ご本人です」
リシェルは机の上の封書を見た。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
複数人の足音。
やがて、低い男の声が響いた。
「急な訪問で失礼するよ、アルヴェイン子爵」
扉の前に、背の高い男が立っていた。
濃紺の外套。
胸元には金の獅子を象った留め具。
年齢は四十代半ばほどだろうか。
男は室内を見渡し、穏やかに微笑んだ。
「少し、話をさせてもらえないかな」
リシェルは男を見つめた。
「……ラドクリフ伯爵」
男は頷いた。
「例の異界人について、ぜひ直接話してみたくてね」
そして、廊下の向こうへ視線を向けた。
「神谷蓮という青年は、こちらにいるのだろう?」




