第三話
開始の鐘が鳴り終わる前に、朝倉悠真が動いた。
橋の上で右手を振りかぶる。掌に灯っていた炎が大きく膨らみ、蓮たちのいる石畳へ向かって飛んできた。
「下がれ!」
瀬戸の声に、蓮は陽菜の腕を引いた。
炎が足元に落ちる。
濡れた石畳から白い蒸気が立ち上り、熱風が頬を打った。陽菜が小さく悲鳴を上げる。蓮は彼女を連れて、近くの石柱の陰へ飛び込んだ。
鼻の奥に、焦げた布の臭いが残っている。
「二人とも、大丈夫か?」
「私は平気です」
「こっちも。危なかったけどな」
瀬戸が柱から顔を出した。
橋の上では、朝倉が再び炎を作っている。
その後ろにいた二人の姿が見えなくなっていた。
「……残りの二人は?」
蓮が尋ねると、瀬戸は橋の左右へ目を走らせた。
「右へ行った男は見えた。向こうの水路に降りてる。もう一人は……建物の陰だな」
蓮は自分たちの立つ場所を確認した。
背後には水路沿いの石畳が続き、右手には半壊した市場らしい建物が並んでいる。屋根の残った通路と、露店の跡だろう木組みの棚。奥には二階へ上がる階段も見えた。
正面の橋は、幅が三メートルほどしかない。
橋を渡ろうとすれば、朝倉の炎を避ける場所がなくなる。
「向こうから来るのを待つか」
蓮が言うと、瀬戸は首を振った。
「待ってるだけじゃ挟まれる。右の男、こっちへ回り込もうとしてるぞ」
水路に目を向ける。
橋から離れた場所に、石造りの低い通路があった。周囲は水没しているが、ところどころ水面から段差が突き出している。
その上を、大柄な男が歩いていた。
堀内剛志。
試合前に見た名前が、蓮の頭に浮かんだ。
男は左腕に丸い盾を持ち、右手には短い剣を握っている。水を避けながら進んでいたが、やがて膝下まで浸かり、構わずこちらへ向かってきた。
「……あいつ、でかいな」
瀬戸が呟いた。
蓮も同じことを考えていた。
身長は自分より頭一つ高く、革鎧の下からでも肩幅の広さがわかる。
同じ日本人とはいえ、身体つきには随分な差があった。
「神谷、あいつを引き受けられるか?」
「……やるしかないだろ」
「無理そうならすぐ下がれよ。今の腕じゃ盾をまともに受けられない」
「ああ」
蓮は剣を左手に持ち替えた。
握り慣れない柄が、掌の中で落ち着かない。
アーロンに教わった構えを思い出し、足を開く。
そのとき、橋の上から声が飛んできた。
「堀内! そっちの三人、気をつけろ!」
朝倉だった。
彼の声を受けて、堀内がこちらへ顔を向けた。
「わかってる!」
低い声が、水路に響く。
堀内は石段を上がり、蓮たちと同じ高さへ出た。
盾を持ち上げる。
「悪いな。俺たちも勝たなきゃいけないんだ」
「……こっちも同じだよ」
蓮は答えた。
堀内が踏み込む。
大きな盾が迫り、蓮は左へ避けた。
直後、盾の縁が石柱へぶつかった。
乾いた衝突音とともに、柱の表面が削れる。
「っ!」
蓮は思わず距離を取った。
堀内の腕が、鈍い灰色に変わっていた。
皮膚の表面に、金属のような光沢が浮かんでいる。
「《硬質化》っていうんだ」
堀内が盾を構え直す。
「悪いけど、普通の剣じゃ簡単には斬れないぜ」
蓮は返事をしなかった。
防御を固めた相手に、左手だけでどう戦えばいいのか。
右腕にはまだ包帯が巻かれている。
《鬼力》を使えば、押し返せるかもしれない。
だが、治癒術師の言葉が頭をよぎった。
次に同じことをすれば、治しきれるかわからない。
蓮は剣を握り直した。
まずは普通に戦う。
そう決めて、堀内の足元へ目を向けた。
水から上がったばかりの靴が、石畳を濡らしている。
次の踏み込みで、右足が前へ出た。
蓮は剣を振った。
堀内の盾が、それを受ける。
剣先が滑った。
そのまま盾が押し込まれ、蓮は後ろへ下がる。
足がもつれた。
「神谷、右!」
瀬戸の声。
蓮は身を捻った。
堀内の短剣が、脇腹をかすめる。
服が裂け、遅れて痛みが走った。
蓮は三歩ほど下がり、ようやく体勢を立て直した。
左の脇腹に手を当てる。
指先に、血がついた。
深い傷ではなさそうだ。
だが、今の一撃がもう少し内側に入っていたら。
「……くそ」
堀内が近づいてくる。
蓮は剣を構えた。
今度は先に攻撃しない。
盾の動きを見て、避ける。
反撃しようとしたところで、また短剣が突き出された。
下がる。
避ける。
少しずつ、足場が狭くなっていく。
背後には市場の建物。
右には水路。
堀内は蓮を水際へ追い込もうとしていた。
「神谷!」
瀬戸の声がした。
「こっちへ!」
蓮は横目で確認した。
市場の入口。
瀬戸が立っている。
その隣で、陽菜が倒れかけた木戸に両手を添えていた。
蓮は堀内の盾を避け、入口へ向かった。
「逃がすか!」
堀内が追ってくる。
蓮は建物の中へ飛び込んだ。
濡れた石畳から、乾いた土の床へ足場が変わる。
通路は狭かった。両側に壊れた棚が並び、人が二人並べば肩がぶつかるほどの幅しかない。
瀬戸はさらに奥へ下がっていた。
「神谷、そのまま!」
蓮は駆け抜けた。
入口に堀内が踏み込む。
陽菜の声が上がった。
「《仮止め》!」
斜めに倒れていた木戸が、石柱へ固定された。
堀内の目の前を塞ぐ。
男は勢いのまま盾をぶつけた。
木が大きく軋んだ。
しかし、倒れない。
「何だ、これ!」
堀内がもう一度盾を叩きつける。
木戸の表面に亀裂が入った。
瀬戸が蓮の肩を掴んだ。
「十秒しかない。こっち!」
通路の脇に、細い階段があった。
蓮は瀬戸に続いて駆け上がる。
二階へ出ると、壁の大部分が崩れていた。下には、先ほどの通路が見える。
堀内はまだ木戸を破ろうとしていた。
「……あいつをどうする?」
蓮が尋ねる。
瀬戸は階段の反対側を指さした。
「向こうへ回れる。あいつの後ろに出よう」
「そんな時間あるか?」
「間に合わなきゃ、そのまま逃げる」
瀬戸は先に走り出した。
蓮も続く。
崩れかけた床板が、足元で軋んだ。
階段を下りたところで、木が砕ける音がした。
堀内が木戸を破ったのだろう。
蓮は足を速めた。
建物の裏手へ出る。
堀内の背中が見えた。
男は壊れた木戸を振り返っていた。
陽菜が入口の反対側へ退く姿も見える。
「神谷、左から!」
瀬戸の声に合わせ、蓮は踏み込んだ。
左手の剣を振る。
堀内が振り返る。
盾が上がった。
だが、蓮は剣を途中で引いた。
そのまま身体を低くし、堀内の右側へ回り込む。
アーロンに何度も教わった、足の動き。
盾ばかり見ない。
相手がどちらへ体重をかけているかを見る。
堀内が右足を踏み直した。
蓮は、その膝の外側へ足を入れた。
「うおっ!?」
堀内の身体が傾く。
蓮は左肩で押した。
男が後ろへよろけ、壁に背中をぶつける。
剣を持つ腕が上がった。
その前に、蓮は剣先を堀内の喉元へ向けた。
「……降参してくれ」
声が掠れていた。
堀内は動かなかった。
灰色に硬化した腕が、ゆっくり下がっていく。
「……マジかよ」
その口元が歪んだ。
「俺の負けか」
蓮は剣を下ろさなかった。
堀内は短剣を地面へ落とした。
「降参だ!」
頭上で、鐘が一度鳴った。
【堀内剛志:敗退】
文字が浮かぶ。
蓮は息を吐き、剣先を下げた。
堀内は壁に寄りかかったまま、蓮の右腕を見た。
「……お前、右腕怪我してたのか」
「まだ治りきってない」
「それで、左手で……」
堀内は何か言いかけたが、やめた。
蓮もそれ以上は話さなかった。
試合は、まだ終わっていない。
残りは二人。
朝倉と藤堂。
蓮は瀬戸へ目を向けた。
「……次、どうする?」
瀬戸は市場の屋根の向こうを見ていた。
「まずいな。朝倉が橋を渡ってる」
蓮も振り返った。
建物の隙間から、赤い炎が見えた。
朝倉はすでに橋の半ばまで進んでいた。
その後ろ、水路沿いの石段を、一人の女性が歩いている。
藤堂莉子。
腰まで伸びた髪を後ろで結び、細身の剣を持っていた。
彼女は蓮たちのいる建物へ顔を向けた。
「……あそこ」
声が聞こえた。
藤堂が、朝倉へ何かを伝える。
朝倉は頷いた。
次の瞬間、炎がこちらへ飛んできた。
「伏せろ!」
瀬戸が叫ぶ。
蓮は陽菜の肩を抱き、石壁の陰へ飛び込んだ。
炎が市場の屋根に直撃した。
古い木材が燃え上がり、黒い煙が立ち始める。
「……まずい」
瀬戸が口元を押さえた。
「このままだと、建物の中にいられない」
蓮は燃え始めた屋根を見た。
火の粉が、乾いた床へ落ちてくる。
外へ出れば朝倉がいる。
中に残れば、煙に巻かれる。
そして、藤堂の姿が見えない。
蓮は剣の柄を握り直した。
右腕の奥が、鈍く痛んだ。
「裏へ抜けよう」
蓮が言うと、瀬戸はすでに通路の奥を見ていた。
「出口がある。八メートル先だ」
天井から火のついた木片が落ちてきた。
陽菜が後ろへ飛び退く。三人は身を低くし、煙の下を進んだ。
途中で蓮の右肩が棚にぶつかった。痛みで足が止まりかけたが、瀬戸に背中を押されてどうにか通路を抜ける。
外には、水没した通りが広がっていた。
石造りの建物が向かい合い、その間を水が満たしている。水面から階段や壊れた塀が突き出し、ところどころに乾いた足場が残っていた。
市場の裏口から、低い石段が水際へ続いている。
「左に行けば、屋根の残った通路がある」
瀬戸が指さした。
蓮は頷き、石段を下りようとした。
「そっちに三人!」
女の声が響いた。
通りの向こう側。
藤堂莉子が、剣を構えて立っていた。
足元は浅い水に浸かっている。彼女は蓮たちを見ると、背後へ声をかけた。
「朝倉、裏に回ってる!」
「わかった!」
少し離れた場所から返事があった。
蓮は足を止めた。
藤堂との間には水路がある。対岸へ渡れるのは、右手にある細い石橋だけだった。
だが、こちらの動きを知られた以上、朝倉もすぐに追ってくる。
「……どうする」
瀬戸が低い声で尋ねた。
「橋を渡るしかない」
「向こうは、それを待ってるぞ」
藤堂は橋の近くへ移動した。
剣を握ったまま、こちらの様子を見ている。
蓮は周囲を見渡した。
水路には崩れた石材が沈み、水面からいくつかの角が覗いている。足場にできなくはなさそうだが、間隔は不揃いだった。
「瀬戸。あの石まで、どれくらい?」
「手前のが二・八メートル。その先は三・一メートル」
「飛べるか?」
「一つ目なら。二つ目は厳しいな」
蓮は右腕を見た。
《鬼力》を使えば、跳び越えられるかもしれない。
しかし、三人全員が渡れなければ意味がない。
そのとき、藤堂が声を上げた。
「そこから動かないほうがいいと思うけど」
蓮は顔を上げた。
「……どういう意味だ?」
「水に入ったら、居場所がわかるから」
藤堂は剣先を下げ、水面へ目を向けた。
「私の能力、《水紋》。水の動きがわかるの」
瀬戸が小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
蓮は彼を見た。
「何かわかった?」
「さっき、あいつらが妙に正確にこっちを狙ってきただろ。煙で見えないはずなのに」
「……ああ」
「足元の水だ。俺たちが動けば、水面も揺れる。藤堂はそれを感じ取れるんじゃないか」
蓮は石段を見下ろした。
逃げるために水路へ入れば、藤堂に位置を知られる。
ならば、乾いた場所を通るしかない。
だが、橋は彼女が守っている。
「厄介だな……」
瀬戸が呟いた。
その直後、背後から熱が迫った。
「伏せろ!」
蓮は陽菜を抱えて石段の脇へ飛び込んだ。
赤い炎が頭上を通り過ぎ、向かいの壁へぶつかる。
石の表面が黒く焦げた。
振り返ると、朝倉が市場の裏口に立っていた。
右手に炎を宿し、左手には剣を持っている。
「堀内、やられたんだってな」
朝倉は蓮を見た。
「まさか、あいつが先に負けるとは思わなかった」
「……こっちだって、簡単じゃなかったよ」
「だろうな」
朝倉は周囲を確認した。
水路。
石橋。
逃げ道の少ない通り。
それから、ゆっくりと右手を持ち上げた。
「悪いけど、ここで終わらせる」
炎が膨らむ。
蓮は剣を構えた。
左手だけでは、あの炎を防げない。
水に飛び込めば避けられるかもしれないが、藤堂が待っている。
朝倉と藤堂。
二人を同時に相手にするのは難しい。
蓮は石橋を見た。
橋の幅は狭い。
その向こうに、藤堂がいる。
「……瀬戸」
「何だ」
「藤堂を先に何とかしたい」
「どうやって?」
蓮は足元の石を拾い上げた。
拳ほどの大きさがある。
「水の動きがわかるなら、これでも反応するんじゃないか?」
瀬戸は石を見た。
それから、蓮へ目を向ける。
「……試してみる価値はあるな」
蓮は石を水路へ投げ込んだ。
水が跳ねる。
藤堂の顔が、そちらへ向いた。
ほんのわずかな動きだった。
だが、確かに反応した。
「……いけるかも」
蓮はもう一つ石を拾った。
今度は瀬戸も、近くに落ちていた破片を手に取る。
「村瀬さん、橋の脇にある板、見える?」
瀬戸が尋ねた。
陽菜は石橋の手前へ目を向けた。
壊れた木製の扉が、石柱へ斜めに立てかけられている。
「……はい」
「あれ、固定できる?」
「触れれば、できます」
「じゃあ、橋の向こうまで行って、あの板を使って藤堂の退路を塞いでほしい」
陽菜は板の位置を確認した。
「……わかりました」
蓮は二人を見た。
「俺が朝倉の注意を引く。瀬戸は、陽菜が橋を渡るまで援護してくれ」
「一人で大丈夫か?」
「……大丈夫とは言えないけど」
蓮は剣を握り直した。
「少しなら、何とかする」
瀬戸は頷いた。
「無茶すんなよ」
「ああ」
蓮は石段を駆け上がった。
朝倉の視線がこちらへ向く。
「まだやる気か!」
炎が放たれた。
蓮は石柱の陰へ飛び込む。
炎が柱に当たり、熱気が顔を包んだ。
その間に、瀬戸と陽菜が橋へ向かって走る。
蓮は柱から顔を出した。
「朝倉!」
声をかける。
朝倉が振り向いた。
「何だ!」
「俺たち、同じ日本人だろ!」
「……だから何だよ!」
「こんなところで、殺し合う必要なんてないだろ!」
朝倉の手の炎が、一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに大きくなる。
「俺だって殺したくねえよ!」
朝倉が叫んだ。
「でも、勝たなきゃいけないんだ!」
炎が飛ぶ。
蓮は再び身を隠した。
柱の縁に火が当たり、乾いた音がした。
朝倉の声が続く。
「お前らだけじゃない! 俺たちだって、帰る場所が欲しいんだよ!」
蓮は返事をしなかった。
返す言葉がなかった。
その間に、瀬戸と陽菜は橋を渡り始めていた。
藤堂が気づく。
「朝倉! 橋に二人!」
彼女が駆け出した。
瀬戸は石を水路へ投げ込む。
続けて、もう一つ。
水しぶきが上がった。
藤堂の動きが、わずかに鈍る。
彼女は視線を水面へ落とした。
だが、すぐに顔を上げる。
「……そんなので!」
藤堂が橋の上へ踏み込んだ。
瀬戸は剣を抜いた。
「村瀬さん、先に!」
陽菜が走る。
藤堂が彼女を追おうとしたところで、瀬戸が前へ出た。
剣と剣がぶつかる。
金属音が水路に響いた。
瀬戸は一歩下がった。
藤堂の剣が、胸元をかすめる。
「っ!」
瀬戸は身体を捻り、どうにか避けた。
「……あんた、剣使えるのかよ!」
藤堂が問い返す。
「そっちこそ!」
瀬戸は剣を構え直した。
藤堂の動きは速い。
ただし、朝倉や堀内と違って、正面から強引に押してくるわけではなかった。
こちらの剣を避け、隙を見つけて突いてくる。
瀬戸は無理に攻撃せず、距離を保った。
「二・五……二・三……」
小さく呟く。
藤堂が踏み込んだ。
「一・九!」
瀬戸は横へ避けた。
剣先が空を切る。
藤堂は素早く向きを変え、追撃しようとする。
だが、その足元で木が軋んだ。
「《仮止め》!」
陽菜の声。
橋の脇に立てかけられていた木戸が、石柱へ固定された。
藤堂の退路を塞ぐ。
「……っ!」
藤堂が振り返る。
その隙に、瀬戸が剣を持つ手を打った。
刃ではなく、剣の平らな部分だった。
藤堂の手から剣が落ちる。
石畳に金属音が響いた。
瀬戸はすぐに剣先を彼女へ向けた。
「……降参してくれ」
藤堂は木戸を見た。
背後には瀬戸。
横には水路。
もう一方には、陽菜がいる。
「……最悪」
彼女が小さく呟いた。
瀬戸は剣を下ろさない。
藤堂は目を閉じ、一度息を吐いた。
「……降参」
鐘が鳴った。
【藤堂莉子:敗退】
瀬戸は剣先を下げた。
陽菜がその場に座り込む。
「……やった」
声が震えていた。
瀬戸も肩を落とした。
「……何とかなったな」
しかし、試合はまだ終わっていない。
最後の一人。
朝倉悠真が残っている。
*
「莉子まで……!」
朝倉は橋の向こうを見た。
藤堂が剣を拾い上げ、戦闘区域から離れていく。
その背中を見送り、朝倉は蓮へ向き直った。
「……お前ら、何なんだよ」
右手に炎が灯る。
さっきより大きい。
蓮は石柱の陰で身を低くした。
朝倉の足音が近づいてくる。
蓮は、柱の反対側へ回った。
足元には、浅い水が広がっている。
水路と繋がった、建物の間の細い通路だ。
そこを通れば、朝倉の背後へ回り込める。
だが、水に入れば音がする。
今は藤堂が敗退している。
ならば、位置を知られる心配は少ない。
蓮は足を踏み入れた。
冷たい水が靴の中へ入り込む。
膝下まで浸かりながら、建物の陰を進む。
右腕が重い。
脇腹の傷も、じくじくと痛んでいた。
それでも、足は動く。
瀬戸と陽菜が橋を渡ってくるのが見えた。
二人とも無事だ。
蓮は手を上げ、近づかないよう合図した。
朝倉がこちらを探している。
炎の光が石壁を照らした。
「どこ行った!」
朝倉の声。
蓮は壁に背中をつけ、息を抑えた。
足元の水が、ゆっくりと流れている。
瀬戸が橋の上から声をかけた。
「朝倉!」
炎がそちらへ向いた。
蓮は動かなかった。
「……何だ!」
「もう二人とも降参したぞ! 一人で続けるのか!」
「うるせえ!」
炎が橋へ飛んだ。
瀬戸と陽菜が石柱の陰へ飛び込む。
蓮はその間に、通路を抜けた。
朝倉の背中が見えた。
距離は、十メートルほど。
蓮は剣を構えた。
ここから一気に走れば、届くかもしれない。
だが、足元は水に浸かっている。
走れば音がする。
朝倉が気づく前に距離を詰められるか。
蓮は右腕を見た。
黒い紋様が、包帯の下に残っている。
《鬼力》。
あの力を使えば、十メートル程度ならすぐに詰められるだろう。
だが、右腕が耐えられる保証はない。
蓮は剣を握り直した。
左手だけで、どこまで戦えるか。
試してみるしかなかった。
一歩、踏み出す。
水が揺れた。
朝倉が振り返る。
「……そこか!」
炎が膨らんだ。
蓮は身を低くした。
赤い光が視界を覆う。
間に合わない。
そう思ったところで、瀬戸の声が飛んだ。
「神谷! 左!」
蓮は左へ跳んだ。
炎が水面へ落ち、大きな蒸気を上げる。
熱が頬を焼いた。
蓮は転がるように石段へ上がる。
朝倉が追撃しようとした。
だが、その足が止まった。
背後にある木製の扉が、突然動かなくなったのだ。
「《仮止め》!」
陽菜の声が響く。
彼女はいつの間にか橋を下り、朝倉の背後に回り込んでいた。
倒れかけていた木戸と石柱を固定し、通路の一部を塞いでいる。
朝倉が振り返った。
「……っ!」
蓮は、その隙を逃さなかった。
左手の剣を握り、踏み込む。
朝倉が右手を向ける。
炎が灯る。
蓮は剣を振った。
刃を当てるのではなく、剣の平らな部分で朝倉の手首を叩く。
「ぐっ!」
朝倉の腕が横へ逸れた。
炎が石壁へ向かって放たれる。
蓮はさらに距離を詰めた。
朝倉が左手の剣を振り上げる。
蓮も剣を構えた。
金属音が響く。
左手だけでは、力負けする。
朝倉の剣が押し込まれ、蓮の腕が下がった。
右腕を使いたい。
だが、力を込めれば傷が開く。
蓮は足を踏み直した。
アーロンの言葉が浮かんだ。
剣ばかり見るな。
足を見る。
相手の身体を見る。
朝倉は右手で炎を扱い、左手で剣を持っている。
どちらも攻撃に使おうとしている。
そのため、身体の正面が大きく開いていた。
蓮は剣を引いた。
朝倉の剣が前へ出る。
蓮は身体を低くし、相手の右側へ回り込んだ。
「……っ!」
朝倉が向きを変えようとする。
蓮は足を踏み込んだ。
左肩を、朝倉の胸元へぶつける。
二人の身体がぶつかった。
朝倉がよろける。
そのまま、背後の石壁へ押しつけた。
蓮は剣先を彼の首元へ向けた。
「……降参してくれ」
朝倉は動かなかった。
右手には、まだ小さな炎が灯っている。
その手を上げれば、蓮の顔を焼くこともできるだろう。
蓮は剣を下ろさなかった。
「もう、終わりにしよう」
朝倉の目が、蓮の右腕へ向いた。
包帯。
脇腹の血。
左手で握られた剣。
「……お前、最初の試練で、あの化け物殴った奴だろ」
蓮は頷いた。
「そうだよ」
「……やっぱりな」
朝倉は小さく笑った。
「俺、あのとき見てたんだよ。すげえ奴がいるって」
右手の炎が、少しずつ小さくなっていく。
「……まさか、ここで戦うことになるとは思わなかった」
蓮は剣先を下げない。
「俺もだよ」
朝倉は目を閉じた。
それから、左手の剣を地面へ落とした。
「……降参だ」
鐘が鳴った。
【朝倉悠真:敗退】
蓮は剣を下ろした。
足元から力が抜けそうになり、石壁へ手をつく。
朝倉は壁にもたれたまま、蓮を見ていた。
「……次は負けねえからな」
蓮は顔を上げた。
「次?」
「また戦うことくらい、あるだろ。俺たち、ここで剣闘士やるんだから」
朝倉は剣を拾い上げた。
蓮は何も答えられなかった。
また戦う。
そんなことを、まだ考えたくなかった。
朝倉は蓮の返事を待たず、通路の向こうへ歩いていった。
*
試合終了を告げる鐘が、闘技場全体に響いた。
【剣闘士対抗戦・第一試合終了】
【勝利:アルヴェイン子爵家】
頭上に文字が浮かぶ。
観客席から歓声が上がった。
蓮は剣を鞘へ戻そうとした。
だが、左手が震えていて、うまく収まらない。
何度か試していると、瀬戸が近づいてきた。
「……貸せよ」
剣を受け取り、鞘へ納めてくれる。
「ありがとう」
「いいって」
瀬戸は蓮の肩を叩きかけ、脇腹の傷に気づいて手を引っ込めた。
「……大丈夫か?」
「少し切られた。深くはないと思う」
「右腕は?」
「何とか」
蓮は右手を開いてみた。
指は動く。
痛みはあるが、《鬼力》を使わずに済んだ。
少なくとも、あの力で再び身体を壊すことは避けられた。
陽菜が駆け寄ってくる。
「勝ちましたね!」
息が弾んでいた。
蓮は頷いた。
「ああ」
「本当に、勝てたんですね……」
陽菜は水に濡れた自分の靴を見た。
それから、瀬戸と蓮へ顔を向ける。
「……まだ、ちょっと信じられません」
瀬戸が笑った。
「俺もだよ。あの炎、もう一発食らってたらどうなってたか」
「瀬戸さん、途中で倒れるかと思いました」
「俺も思った」
陽菜が笑う。
蓮も、ようやく息を吐いた。
勝った。
黒甲獣との試練では、時間まで逃げ切っただけだった。
だが今回は、相手を倒し、降参させた。
それも、三人で。
蓮は水面を見た。
そこには、濡れた髪と、疲れた顔をした自分が映っていた。
剣闘士。
まだ、その言葉には慣れない。
それでも、この世界で生き残るために必要なことを、一つだけ覚えた気がした。
自分一人で戦う必要はない。
瀬戸が距離を測り、陽菜が道を塞ぎ、蓮が前に出る。
互いにできることを持ち寄れば、格上の相手にも勝てる。
「……帰ろう」
蓮が言った。
瀬戸が頷く。
「そうだな」
陽菜も続いた。
「リシェルさん、待ってますよね」
三人は歩き出した。
*
闘技場の出口には、リシェルが待っていた。
彼女は三人の姿を見つけると、足早に近づいてきた。
「皆さん!」
蓮は手を上げた。
「ただいま」
リシェルは蓮の右腕を見た。
次に、脇腹の傷へ目を向ける。
「……怪我を」
「少し切られただけ。治療すれば大丈夫だと思う」
「すぐに治療室へ向かいましょう」
彼女は従者へ声をかけ、三人の治療を手配した。
その間にも、瀬戸と陽菜の様子を確かめている。
全員が歩けることを確認すると、ようやく肩の力を抜いた。
「……おかえりなさい」
蓮はリシェルを見た。
彼女は小さく微笑んでいた。
「勝利、おめでとうございます」
「ありがとう」
蓮は頷いた。
「三人で勝てたよ」
「はい。拝見していました」
リシェルは瀬戸と陽菜にも目を向ける。
「お二人とも、見事でした」
瀬戸が照れくさそうに頭を掻いた。
「いや、俺はほとんど逃げ回ってただけですけどね」
「そんなことありません。お二人がいなければ、蓮さんも危険な場面が何度もありました」
陽菜が嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
蓮は、リシェルの後ろに控える従者へ視線を向けた。
手には、試合結果が記された書類がある。
「……リシェル」
「はい」
「これで、少しは家の役に立てた?」
彼女は書類を見た。
「はい。今回の勝利で、当家の戦績に一点が加算されます。賞金も支給される予定です」
「……そっか」
蓮は頷いた。
たった一点。
だが、最下位に近いというアルヴェイン家にとっては、必要な一点なのだろう。
「それと、皆さんにご報告があります」
リシェルが続けた。
「今回の勝利によって、剣闘士としての評価が更新されました。詳しい内容は、屋敷に戻ってからお伝えします」
蓮は頷いた。
そのとき、視界に文字が浮かんだ。
【経験値を獲得しました】
【レベルが上昇しました】
【Lv.2 → Lv.3】
【固有天賦《鬼神の加護》】
【《鬼力》の熟練度が上昇しました】
【次回能力選択:Lv.5】
蓮は表示を見つめた。
レベル三。
あと二つ上がれば、新しい能力を選べる。
それがどんな力なのか、まだわからない。
ただ、今のままでは足りないことだけは、はっきりしていた。
蓮は右手を握った。
わずかな痛みが走る。
すぐに力を抜いた。
「……リシェル」
「はい?」
「帰ったら、アーロンさんに伝えてくれないか」
「何をでしょう?」
「もう少し、剣を教えてほしいって」
リシェルは少し驚いた顔をした。
「……今は、まず治療を」
「それはわかってる。治ってからでいい」
蓮は笑った。
「次も、こんなぎりぎりの勝ち方はしたくないから」
リシェルは蓮を見ていた。
それから、ゆっくり頷く。
「……わかりました。お伝えしておきます」
瀬戸が隣から口を挟んだ。
「俺も訓練は増やしたいな。距離がわかっても、身体がついてこないんじゃ意味ないし」
「私もです」
陽菜が続いた。
「《仮止め》、もっといろいろ試してみたいです」
リシェルは三人を順に見た。
「では、アーロンと相談して、訓練内容を考えましょう」
蓮は頷いた。
三人の剣闘士と、一人の女性貴族。
まだ、何もかもが手探りだった。
それでも、次に何をすればいいかは少しずつ見えてきている。
蓮は闘技場を振り返った。
巨大な建造物の上には、いくつもの旗が揺れていた。
そのどこかに、朝倉たちもいるのだろう。
また戦うことがあるのかもしれない。
次も勝てるとは限らない。
「……行こうか」
瀬戸が言った。
蓮は顔を戻した。
「ああ」
リシェルが先に歩き出す。
陽菜がその隣へ並び、瀬戸も続いた。
蓮は最後にもう一度、右腕を見た。
包帯の下にある黒い紋様は、まだ消えていない。
指先を曲げると、かすかに痛みが残った。
蓮は腕を下ろし、三人の後を追った。




