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『万界闘技場の鬼神』  作者: 趣味 大隅 詩


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第二話

神谷蓮は、包帯の巻かれた右腕を見下ろした。


三日後。


先ほど聞いた日程を、頭の中でもう一度確かめる。


医務室の寝台から起き上がることすらできないのに、三日後には試合に出なければならないらしい。しかも、相手は自分たちと同じ日に召喚された日本人だという。


「……試合って、相手を殺すまでやるのか?」


扉の前に立つ男が、返答を求めるようにリシェルを見た。


「構いません。私から説明します」


リシェルがそう告げると、男は一礼して廊下へ下がった。


扉が閉まる。


「剣闘士対抗戦では、降参するか、戦闘を続けられなくなった時点で敗退となります。三人全員が敗退した側の負けです」


「だったら、殺す必要はないんだな」


「必要はありません。ただ……」


彼女は言葉を切った。


「試合中の死亡については、原則として罪に問われません」


蓮は顔を上げた。


「降参したら終わるんだろ?」


「審判が認めれば、その時点で試合から除外されます。けれど、攻撃を受けている最中に降参を宣言しても、間に合わないことがあります」


「……そういうことか」


闘技場で見た男の姿が浮かんだ。


吹き飛ばされて、砂の上に落ちた男。あのとき、助けを求める時間などあっただろうか。


「それに、今回は特殊な試合なのか?」


「いえ。召喚された方々の戦闘能力を確認する、通常の団体戦です。戦場の地形は試合当日に発表されます」


「相手の能力もわからない。場所もわからない。それで戦えって?」


「そうなります」


リシェルは否定しなかった。


蓮は左手で額を押さえた。


試合まで三日。


右腕はこの状態。


そして、三人一組。


「……あんたの家に、ほかの剣闘士はいるのか?」


「おります。ただ、今回の対抗戦は新たに召喚された方のみが出場できる規定です」


「じゃあ、俺以外に二人必要ってことか」


「はい」


蓮は寝台の脇に置かれた契約書を見た。


さっきまで、自分一人の問題として考えていた。


この家へ行くか、ほかの貴族を探すか。


だが、三人で戦うとなれば話が違う。


「瀬戸と村瀬にも、あんたの家の話をしてくれないか」


「承知しました。お二人の治療が終わっていることを確認してから、お話しします」


「それで、もし二人が断ったら?」


「別の方にお声がけします。それでも三名が揃わなければ、今回の試合への登録は見送ることになります」


「……見送れるのか?」


「登録そのものは任意です。ただし、剣闘士としての戦績がなければ、家に与えられる配分も減ってしまいます」


リシェルは机に置かれた書類を揃えた。


「あなたには、まだ契約していただいていません。試合に出るかどうかも含めて、決めていただきたいと思っています」


蓮は黙った。


少し前まで、彼女の家のために勝てばいいと言っていた。


その言葉が、今になって引っかかる。


勝つと決めるのは簡単だ。


だが、自分が勝とうとすれば、向こうにも負ける人間がいる。


相手も、ついさっきまで日本で暮らしていたはずなのに。


「……先に、二人と話したい」


「わかりました」


「それから決めてもいいか?」


「もちろんです」


リシェルは契約書を机へ戻した。


蓮は右腕を寝具の上に置き直した。わずかに動かしただけで、肘から肩まで痛みが走る。


三日後のことを考えるには、まず、この腕をどうにかしなければならなかった。


*


翌朝、治療室を訪れた老齢の治癒術師は、蓮の右腕を確かめながら眉を寄せた。


「……何をしたら、こうなるんじゃ」


「魔獣を殴りました」


「それは聞いた。どうして殴った程度で、骨と筋肉の両方がこれほど傷むのかと聞いておる」


「俺にもわかりません」


「……そうじゃろうな」


術師は右腕に手をかざした。


淡い光が包帯の上を流れる。


昨日より痛みは引いていたが、肘を伸ばそうとすると、まだ深いところが軋んだ。


「骨の修復は進んでおる。あと二日もあれば、日常生活には支障がなくなるじゃろう」


「じゃあ、試合には……」


「出るつもりか?」


「その予定です」


術師は手を止めた。


「普通の剣を持って戦う程度なら、回復の具合を見て判断できる。じゃが、あの力をもう一度使うというなら話は別じゃ」


蓮は右腕を見た。


包帯の端から、黒い紋様が一本覗いている。


「能力のせいで、ここまで傷んだんですか?」


「おそらくな。あんたの筋肉は、骨が耐えられる以上の力を出したんじゃろう。どれほど強い力でも、身体が受け止められなければ自分を壊す」


術師は新しい包帯を取り、巻き直し始めた。


「次に同じことをすれば、今度は治しきれるかわからん」


蓮は黙っていた。


黒甲獣の頭を殴ったとき、あの力がなければ確実に死んでいた。


だが、使えば自分の身体が壊れる。


右腕を見つめていると、術師が短く言った。


「強い力を使えることと、強い身体を持っていることは違う。そこを間違えるな」


蓮は頷いた。


「……ありがとうございます」


「礼なら、次はもう少し軽い怪我で済ませてくれ」


術師は包帯を留め、道具を片づけ始めた。


蓮は寝台から立ち上がる。


まだ腕は重かったが、昨日より身体は動いた。


医務室を出ると、石造りの廊下が続いていた。


壁には細長い窓が並び、外の光が床に落ちている。窓から覗く街には、赤い屋根の家々が密集していた。


その向こうに、巨大な円形の建造物が見えた。


万界闘技場。


街のどこからでも見えるほどの大きさだった。


蓮は窓辺で足を止めた。


闘技場の上空には、薄い雲が流れている。


昨日、あの場所で何が起きたのか。


ここに暮らす人間にとっては、きっと珍しくもない出来事なのだろう。


「神谷!」


背後から声がした。


振り返ると、瀬戸直也が立っていた。


眼鏡の左側には、新しい傷が入っている。


「起きて大丈夫なのか?」


「なんとか。そっちは?」


「俺は打撲くらいで済んだ。村瀬さんも、もう歩けるってさ」


瀬戸は蓮の右腕を見た。


「……ずいぶん派手にやったな」


「自分でも、もう少し手加減できると思ってた」


「いや、手加減する相手じゃなかっただろ、あれ」


二人はしばらく顔を見合わせた。


昨日は、話をする余裕などなかった。


蓮は瀬戸が何歳なのかも、仕事をしていたという以外、何も知らない。


「そういえば、何歳?」


「二十五。神谷は?」


「二十歳。大学生」


「五つ下か。……その割に無茶するな」


「年齢、関係ある?」


「いや、ないな」


瀬戸は短く笑った。


それから、廊下の先へ顎を向けた。


「村瀬さん、外の庭にいる。お前も来ないかって言ってたんだ」


蓮は頷いた。


「行く」


*


建物の裏手には、小さな庭があった。


低い石壁の向こうに街の屋根が見える。花壇には見慣れない草が植えられ、土を掘り返したばかりの匂いが漂っていた。


陽菜は石造りのベンチに座っていた。


制服の膝には繕った跡があり、右足首にはまだ細い包帯が巻かれている。


蓮に気づくと立ち上がろうとしたが、瀬戸が手で制した。


「座ってろって。まだ足、痛むんだろ」


「もう歩けますよ」


「歩けるのと、治ったのは違うだろ」


陽菜は少し不満そうな顔をしたものの、立ち上がるのはやめた。


「神谷さん、腕は大丈夫ですか?」


「大丈夫とは言いにくいな」


蓮は右腕を軽く持ち上げた。


「動かせるようにはなるらしいけど、能力は使うなって言われた」


「……そうですか」


陽菜の視線が包帯に落ちる。


蓮は隣のベンチに腰を下ろした。


「昨日、あのあとどうなった?」


瀬戸が向かいの石壁に寄りかかる。


「俺たちも医務室に運ばれた。神谷はすぐ治療が始まったらしいけど、俺は昼過ぎまで寝てたな。村瀬さんは足を治してもらって、そのあとずっとお前のこと聞いてたよ」


「瀬戸さんだって、何回も聞いてましたよ」


「いや、俺は……」


瀬戸が眼鏡を直した。


蓮は二人を見た。どちらも、昨日より顔色はよかった。


「……助けてくれて、ありがとう」


瀬戸が顔を上げた。


「何だよ、急に」


「二人がいなかったら、絶対に生き残れなかったから」


陽菜が首を振る。


「私こそ、神谷さんが来てくれなかったら……」


そこで声が止まった。


蓮は、彼女が続きを言うのを待たなかった。


「とりあえず、三人とも生きてる。それで十分だろ」


陽菜は膝の上に置いていた手を見た。


少ししてから、頷いた。


「……はい」


庭の向こうから、荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえた。


蓮は二人に、今朝聞いた話を伝えた。


三日後の団体戦。


三人一組で、相手も日本から召喚された人間であること。


試合では降参が認められるが、必ず生きて帰れるわけではないこと。


そして、リシェルの家から契約の申し出があったこと。


話している間、瀬戸は一度も口を挟まなかった。


陽菜も、膝に置いた手を動かさなかった。


「……そういうことか」


最初に口を開いたのは瀬戸だった。


「三人一組ね。そりゃ、俺たちに声がかかるわけだ」


「無理に誘うつもりはない」


蓮は言った。


「戦闘向きじゃない能力だって、自分たちで言ってただろ。俺だって、この腕でまともに戦えるかわからない」


「でも、俺たちの能力であの魔獣を止めたのも事実だろ」


「それはそうだけど」


「俺、昨日の夜、ほかの貴族の勧誘も聞いてみたんだ」


瀬戸が石壁から離れた。


「《測距》は使い道があるらしい。測量とか、建築とか。そういう仕事に回すこともできるってさ」


「いいじゃん。そのほうが安全だろ」


「そう思ったんだけどな」


瀬戸は眼鏡を外した。


「どこへ所属しても、試合に出なくていいって保証はしてくれなかった。仕事がある間は働かせるし、必要なら闘技場にも出す。そういう話だった」


「……そっか」


「結局、こっちの事情なんて、あんまり関係ないんだよな」


瀬戸はレンズの汚れを確かめて、かけ直した。


「だったら、最初から知ってる奴と組むほうがいい。少なくとも、何ができるかはわかってる」


「……また怪我するかもしれないぞ」


「それは神谷も同じだろ」


瀬戸は包帯を顎で示した。


「俺たちが後ろにいたら、また一人で突っ込むつもりか?」


蓮は答えに詰まった。


最初の試練では、確かにそうした。


陽菜を守るために前へ出て、右腕を壊した。それで助かったのは、瀬戸と陽菜が別の方法を考えてくれたからだ。


「……もう少し、考えて戦う」


「そうしてくれ。昨日みたいなのは二度と御免だ」


瀬戸は陽菜へ顔を向けた。


「村瀬さんは、どうする?」


陽菜はすぐに答えなかった。


庭の向こうを見ている。


そこには、闘技場の上部が見えていた。


「……私、昨日まで、自分の能力が外れだと思ってたんです」


陽菜が口を開いた。


「最初に見えたのが《仮止め》って名前で。説明を読んでも、物をくっつけるだけだって」


膝の上で手を開く。


「周りの人は火を出したり、剣が使えたりしてたのに、私は何もできなくて」


蓮は黙って聞いていた。


「でも、昨日は役に立ちました。十秒だけでも、あの魔獣を止められた」


「……ああ」


「それで少し、考えたんです」


陽菜は蓮と瀬戸を順に見た。


「怖いのは、今も変わりません。またあの場所に入るのは、嫌です」


彼女は一度言葉を切った。


「でも、何もできないって決めつけたまま、ほかの人に守られるだけなのも嫌なんです」


蓮は彼女の足首を見た。


包帯はまだ取れていない。


「……本当にいいのか?」


「はい」


陽菜は頷いた。


「ただし、無茶はしません。無理だと思ったら降参します」


蓮は少し笑った。


「それでいいと思う」


「神谷さんもですよ」


「……俺も?」


「そうです。自分だけは最後まで戦わないといけない、なんて思わないでください」


瀬戸が隣で頷く。


「そこは俺も賛成」


蓮は二人を見た。


昨日、森の中で名前を聞いたばかりの相手だ。


年齢も、暮らしていた場所も違う。


それでも、今この世界で頼れる人間を挙げろと言われれば、この二人の名前が最初に出る。


「……わかった」


蓮は左手を差し出した。


「じゃあ、もう一度よろしく」


瀬戸がその手を握る。


陽菜も、上から手を重ねた。


「よろしくお願いします」


瀬戸が笑った。


「まずは生き残る。勝つのはその次だな」


蓮は頷いた。


三人の手が離れる。


そのとき、庭の入口から声がした。


「……お話は、まとまりましたか?」


リシェルが立っていた。


昨日と同じ紺色のドレスだが、今日は上から薄い外套を羽織っている。


「勝手にお話を進めてしまって、申し訳ありません」


瀬戸が首を振った。


「いや、俺たちで決めたことなんで。それより、確認したいことがあります」


「何でしょう?」


「非戦闘系の能力でも、ちゃんと剣闘士として登録できるんですか?」


「はい。登録に必要なのは、第一試練の生存資格です。天賦の種類による制限はありません」


「じゃあ、俺と村瀬さんも出場できる」


「お二人が希望されるのでしたら」


瀬戸は蓮へ目を向けた。


蓮が頷くと、リシェルは少しだけ表情を緩めた。


「ありがとうございます。では、契約内容を順番に確認しましょう」


彼女が差し出した書類には、三人それぞれの名前が記されていた。


その横に、蓮には読めない文字が並んでいる。


「翻訳を担当する者も、別室に待機しています。ご不明な点は、すべて確認してから署名してください」


瀬戸は書類を受け取り、目を細めた。


「……本当に、読めねえな」


「俺も昨日、同じこと思った」


「日本語に見える文字が一個もない」


リシェルが小さく笑った。


「その点も含めて、少しずつ覚えていただければと思います」


蓮は彼女を見た。


「リシェル。一つ、いいか?」


「はい」


「俺たち三人が入ったら、あんたの家はどうなる?」


「……どうなる、とは?」


「勝てなかったら、何か困ることはあるのか」


彼女はすぐには答えなかった。


「契約を結べば、三人分の登録費と維持費が必要になります。治療や装備にも費用がかかりますので、試合で成果を出せなければ、当家の負担は増えることになります」


「……やっぱり、そうだよな」


「ですが、それは私が判断することです」


リシェルは蓮を見た。


「費用について、お三方に負担を求めるつもりはありません。私が契約をお願いしているのですから」


瀬戸が横から口を挟んだ。


「その代わり、勝てば家に収入が入るんですよね?」


「はい。賞金と、戦績に応じた配分が得られます」


「だったら、ちゃんと商売になってるわけだ」


リシェルは少し驚いた顔をした。


瀬戸は笑う。


「一方的に面倒を見てもらうだけじゃ、こっちも居心地悪いんで。働いた分はきっちり払ってもらいますよ」


「……もちろんです」


リシェルが頷く。


その返事を聞いて、蓮はようやく契約書へ手を伸ばした。


*


正式な契約を終えた三人がアルヴェイン家の屋敷へ移ったのは、その日の午後だった。


馬車で街を離れ、石畳の道を進む。


窓の外には畑と小さな集落が続いていた。遠くには低い丘が見え、その斜面を羊に似た動物が歩いている。


蓮は馬車の揺れに合わせて右腕を押さえた。


「……痛むか?」


向かいに座る瀬戸が尋ねた。


「少し。揺れると響く」


「帰ったら、もう一度診てもらえよ」


「そうする」


陽菜は窓に顔を寄せていた。


「……本当に異世界なんですね」


道沿いの畑では、農作業をしている人々の間を、背中に鱗のある大きな獣が歩いていた。


荷車を引いているらしい。


角も牙もないが、その姿は日本で見たどんな動物とも違った。


「さっきの街だけだったら、まだ外国って言われても納得できそうだったんですけど」


「外国にしては、闘技場がでかすぎるけどな」


瀬戸が答える。


蓮も窓の外を見た。


闘技場は遠ざかっていたが、建造物の上部だけはまだ見えている。


あの中に、森があった。


今度は山かもしれない。


海かもしれない。


そんな場所で、三日後には戦う。


蓮は背もたれへ身体を預けた。


正直、まだ実感が湧かなかった。


家族に連絡する方法もない。


大学のことも、部屋に置いてきた荷物のことも、どうすればいいかわからない。


今できるのは、目の前の問題を一つずつ片づけることだけだった。


馬車が緩やかな坂を上る。


しばらくして、リシェルが窓の外を指さした。


「あちらが、アルヴェイン家の屋敷です」


丘の上に、石造りの建物が見えた。


二階建ての本館と、いくつかの小さな建物。


庭を囲む壁には補修の跡があり、屋根の一部は色の違う瓦に葺き替えられている。


華やかさはない。


それでも、手入れされた庭木と、きれいに整えられた門の周りから、住んでいる人々が丁寧に暮らしていることは伝わってきた。


「……ここが?」


「はい」


リシェルは少しだけ姿勢を正した。


「ようこそ、アルヴェイン家へ」


屋敷の中は、思っていたより静かだった。


玄関を入ると、磨かれた石の床が続いている。壁に飾られた絵画は数枚だけで、廊下の燭台もところどころ空いていた。


案内された部屋には、寝台と机、小さな衣装棚があった。


「三人とも、個室を用意しております。必要なものがあれば遠慮なく申しつけてください」


リシェルがそう言うと、瀬戸は部屋の中を一通り見回した。


「十分すぎますよ。ありがとうございます」


「そう言っていただけると助かります」


蓮も礼を言い、荷物のない衣装棚を開けた。


何も入っていない。


当然だった。


着替えも、財布も、大学の学生証も、何一つ持ってきていないのだから。


昨日まで当たり前に持っていたものを思い出し、蓮は棚を閉めた。


「……リシェル」


「はい」


「剣闘士の練習って、どこでできる?」


「訓練場があります。少し古い設備ですが、使用できますよ」


「見てもいいか?」


リシェルは時計に目を向けた。


「今日は身体を休めていただきたいところですが……見学だけでしたら」


「見るだけにする」


蓮が答えると、彼女は頷いた。


案内されたのは、屋敷の裏にある石壁に囲まれた広場だった。


地面には踏み固められた土が広がり、端には木製の人形がいくつか並んでいる。壁際には木剣や盾が立てかけられていた。


中央では、がっしりした体格の男が木剣を振っていた。


年齢は四十代ほどだろうか。短く刈った髪に白いものが混じり、左の頬には古い傷がある。


「アーロン」


リシェルが声をかけた。


男は木剣を下ろした。


「お嬢様。お戻りでしたか」


「こちらが、今回契約してくださった異界の方々です」


アーロンは三人を見た。


蓮の右腕に目を留める。


「……その怪我で、試合に出るのですか」


「そのつもりです」


蓮が答えると、男は短く息を吐いた。


「無茶をなさる」


「アーロン、まだ試合まで時間があります」


リシェルが口を挟む。


「ええ。ですが、三日というのは治療の時間であって、戦い方を覚える時間ではありません」


アーロンは蓮を見た。


「剣を使った経験は?」


「ありません」


「格闘技は」


「学校の体育くらいです」


「そうですか」


男は木剣を壁へ戻した。


「でしたら、まず自分がどれほど動けないかを知るところから始めましょう」


「……どういう意味ですか?」


「今は休んでください。明日の朝、ここへ来ていただければわかります」


アーロンは瀬戸と陽菜にも目を向けた。


「お二人も参加されるのでしょう?」


「はい」


「でしたら、一緒に」


蓮は頷いた。


アーロンの言葉には、妙な説得力があった。


少なくとも、怪我をした腕を見て、すぐに強さを褒めてくるような人ではない。


*


翌朝。


蓮は、訓練場の中央で膝をついていた。


「……もう一度」


アーロンが木剣を肩に担いだまま言う。


「今の動きでは、剣を持たなくても倒されます」


「……わかってます」


「でしたら立ってください」


蓮は左手を地面につき、身体を起こした。


右腕の添え木は外されていたが、まだ包帯は残っている。動かせる範囲は昨日より広がったものの、力を込めると痛みが走った。


だから、訓練では左手に木剣を持っている。


アーロンは剣を構えた。


「来てください」


蓮は踏み込んだ。


左手の木剣を振る。


アーロンは半歩だけ身体をずらした。


剣が空を切る。


直後、足を払われた。


「うわっ!」


尻から地面に落ちた。


土埃が舞い上がる。


「……今、何したんですか」


「あなたが剣を振る前に、足を動かしました」


「そんなの、見えなかったんですけど」


「見えていないのではなく、剣ばかり見ていたのです」


アーロンは蓮の足元を木剣で示した。


「剣を振ることに意識が向いて、足が止まっている。身体を動かす順番も、重心の置き方もわかっていません」


蓮は立ち上がった。


昨日、黒甲獣を殴り飛ばしたときには、こんなことを考える余裕はなかった。


ただ、力任せに拳を振っただけだ。


「……難しいな」


「当然です。剣は、持っただけで扱えるようになる道具ではありませんから」


アーロンは木剣を下ろした。


「もう一度、足から始めましょう」


それから一時間ほど、蓮はひたすら歩き方を教わった。


前へ出る。


下がる。


横へ避ける。


身体の向きを変える。


木剣を振るのは、そのあとだった。


何度も足をもつれさせ、何度も姿勢を崩した。


それでも、最初よりは身体が動くようになっていた。


訓練場の端では、瀬戸と陽菜が別の練習をしていた。


「……四・三メートル。いや、四・一か」


瀬戸が木製の人形を見ながら呟く。


彼の視界には、対象までの距離が表示されているらしい。


「動いてるものも測れるんですか?」


陽菜が尋ねた。


「測れる。ただし、わかるのは今の距離だけだな。次にどこへ動くかまでは教えてくれない」


瀬戸は歩きながら何度か数字を確認した。


「でも、距離の減り方を見れば、近づいてる速さくらいは判断できる」


「じゃあ、攻撃が来るタイミングも?」


「相手が真っすぐ来てくれれば、ある程度は。急に止まったり曲がったりされると、読み直しだ」


陽菜は頷いた。


足元には二枚の木板が置かれていた。


片方を立て、もう一枚を斜めに支える。


陽菜はそれぞれに手を触れた。


「《仮止め》」


板と板の接合部に、淡い光が走った。


陽菜が手を離しても、斜めの板は倒れない。


「……おお」


瀬戸が近づいた。


「思ったよりしっかりしてるな」


「でも、十秒だけです」


陽菜は少し離れた場所へ移動した。


瀬戸が板を軽く押す。


動かない。


もう少し力を込める。


板が軋み、接合部に亀裂が入った。


「……壊れるのか」


「はい。固定されるだけで、板自体が強くなるわけじゃないみたいです」


しばらくすると、光が消えた。


斜めの板が倒れ、地面を叩く。


「十秒。正確には、九秒ちょっとかな」


瀬戸は距離の表示を消し、陽菜を見た。


「これ、使えるぞ」


「本当ですか?」


「ただし、先に仕掛けて待つのは難しい。十秒じゃ、敵が来る前に切れちまう」


彼は木板を持ち上げた。


「相手が近づいてきたところで固定するしかないな」


陽菜は二枚の板を見下ろした。


「……じゃあ、私が近くにいないと駄目ですね」


「そうなる」


「ちょっと怖いですね」


「俺も怖い」


瀬戸はあっさり答えた。


「だから、神谷に前にいてもらう。俺が距離を伝えて、村瀬さんが仕掛ける」


「でも、神谷さんは腕が……」


「そうなんだよな」


二人は、訓練場の中央に目を向けた。


蓮は、またアーロンに足を払われていた。


「……大丈夫でしょうか」


「……どうだろうな」


瀬戸は眼鏡を押し上げた。


蓮は土を払いながら立ち上がった。


「聞こえてるぞ!」


「聞こえる距離で話してるからな!」


瀬戸が返した。


陽菜が小さく笑った。


その声を聞いて、蓮も口元を緩めた。


昨日まで、笑う余裕すらなかった。


今は、こうして三人で話せている。


それだけで、少し違った。


アーロンが木剣を下ろした。


「では、次は三人で動いてみましょう」


蓮は顔を上げた。


「三人で?」


「試合は団体戦です。個人の技術が足りないなら、連携で補うしかありません」


アーロンは訓練場の端にあった木製の人形を引き寄せた。


「私が相手役を務めます。三人で、私の進行を止めてみてください」


瀬戸と陽菜が近づいてくる。


蓮は左手で木剣を握り直した。


「……やってみよう」


最初の挑戦は、散々だった。


瀬戸の指示に合わせて動こうとすると、蓮の足が遅れる。


陽菜が板を固定しても、アーロンは別の方向から回り込んでくる。


蓮が前へ出すぎれば、二人の位置が見えなくなる。


それを何度か繰り返したところで、アーロンが手を上げた。


「止めましょう」


三人が動きを止める。


「神谷さん。あなたは、なぜ毎回、私を追いかけるのですか」


「……逃げられるからです」


「追いかければ、私の望む場所へ誘導されます」


アーロンは地面に三つの石を置いた。


一つを自分。


一つを蓮。


残りを瀬戸と陽菜の位置に見立てる。


「あなたたちの目的は、私を倒すことですか?」


蓮は少し考えた。


「……違います。止めることです」


「そうです。ならば、追う必要はありません」


アーロンは石を動かした。


「相手が進みたい場所を塞げばいい。動かなければならないのは、あなたではなく相手です」


瀬戸が顔を上げた。


「……なるほど」


蓮も石を見た。


そう言われれば、昨日も同じことをしている。


黒甲獣を倒そうとして勝ったわけじゃない。


逃げる場所を作り、進路を制限して、時間まで生き残った。


「もう一回、お願いします」


蓮が言うと、アーロンは頷いた。


今度は、蓮が無理に前へ出ない。


瀬戸が距離を測り、アーロンの動く方向を伝える。


陽菜は木板の近くで待つ。


アーロンが蓮の横を抜けようとしたところで、瀬戸が声を上げた。


「今!」


「《仮止め》!」


木板が固定される。


アーロンの進路が塞がった。


男は足を止めた。


蓮が左手の木剣を構える。


届く距離ではない。


それでも、アーロンが横へ抜けようとするのを一瞬ためらわせることはできた。


「……そこまで」


アーロンが木剣を下ろした。


陽菜が固定を解こうとして、効果が切れるまで待った。


板が倒れる。


「……できた?」


瀬戸が尋ねた。


「完全ではありません」


アーロンは木板を拾い上げた。


「ただ、今の動きなら、少なくとも無駄に相手を追いかける必要はありません」


蓮は木剣を下ろした。


息が上がっている。


派手な技を使ったわけでもない。


相手を倒したわけでもない。


それでも、最初に比べれば、三人で何をするべきかが少し見えてきた。


「……もう一回やろう」


蓮が言うと、瀬戸は頷いた。


「次はもう少し早く合図出す」


「私も、固定する位置を変えてみます」


陽菜が板を持ち直した。


アーロンは三人を見た。


「その前に休憩です。神谷さんの腕も、まだ治りきっていませんから」


蓮は反論しかけた。


しかし、右肩の奥が痛んでいることに気づき、口を閉じた。


「……はい」


木剣を壁へ戻す。


訓練場の端に座ると、身体のあちこちが重かった。


瀬戸が隣に腰を下ろした。


「どう思う?」


「……何が?」


「次の試合。勝てそうか?」


蓮は訓練場を見た。


まだ、何もできない。


少し歩き方を覚えただけ。


瀬戸の距離測定も、陽菜の仮止めも、ようやく使い方を考え始めたところだ。


「……わからない」


蓮は答えた。


「でも、昨日よりはマシだと思う」


瀬戸が頷いた。


「それなら、いいか」


陽菜が水の入った器を持って戻ってきた。


三人で分けて飲む。


遠くで、屋敷の鐘が鳴った。


昼を告げる鐘だった。


試合までは、あと一日。


*


その日の夕方、リシェルが三人を食堂へ呼んだ。


長い食卓の端に、数枚の書類が置かれていた。


「試合の組み合わせが決まりました」


蓮は椅子を引き、リシェルの向かいに座った。


瀬戸と陽菜も隣に腰を下ろす。


「相手は?」


「ラドクリフ伯爵家の所属剣闘士です」


リシェルが紙を広げた。


見慣れない文字の下に、三人の名前が記されている。召喚者の名前だけは、日本語でも併記されていた。


【剣闘士対抗戦・第一試合】


【アルヴェイン子爵家】  神谷 蓮  瀬戸 直也  村瀬 陽菜


【ラドクリフ伯爵家】  朝倉 悠真  藤堂 莉子  堀内 剛志


「……全員、日本人だな」


瀬戸が呟いた。


「はい。今回の対抗戦は、同時に召喚された方々で編成されたチーム同士が戦うことになっています」


蓮は相手の名前を見た。


朝倉悠真。


どこかで聞いたことがある気がしたが、思い出せない。


「相手の能力はわかる?」


「正式な天賦情報は公開されていません。ただ、初日の試練で確認された戦い方については、いくつか報告があります」


リシェルは別の紙を取り出した。


「朝倉悠真さんは、炎を扱う能力者だそうです」


蓮は顔を上げた。


「炎……」


最初の試練。


召喚直後、手のひらに炎を生み出していた青年がいた。


その後、黒甲獣へ炎を放っていたのも、若い男だったはずだ。


同じ人物かどうかはわからない。


「ほかの二人は?」


「詳しい情報はありません。少なくとも、三人とも第一試練を生き残っているということだけです」


瀬戸が腕を組んだ。


「情報が少ないな」


「申し訳ありません。私の家では、他家の剣闘士について調べられる範囲にも限りがありまして」


「いや、謝らなくていいですよ。こっちだって、相手に知られてないことは多いはずですし」


リシェルは頷いた。


「それと、もう一つお伝えすることがあります」


三人の視線が集まる。


「ラドクリフ伯爵家は、王都でも有力な貴族家です。今回の召喚でも、複数の有望な能力者と契約したと聞いています」


「……つまり、強いところってことか」


「はい。育成設備も、当家とは比較になりません」


蓮は書類を見つめた。


相手は、同じ日に召喚された日本人だ。


レベルだって、極端には変わらないだろう。


それでも、すでに環境には差が生まれている。


治療を受ける場所。


教えてくれる人間。


用意される装備。


金のある貴族に選ばれた人間は、それだけ恵まれた条件で戦える。


「……リシェル」


「はい」


「俺たちが負けたら、あんたの家はどうなる?」


リシェルは手元の書類へ目を落とした。


「今回の一敗だけで何かを失うわけではありません。ただ、今期は残された試合が少ないので、できれば勝っておきたいところです」


「そっか」


蓮は頷いた。


無理に勝たせようとはしない。


それでも、勝たなければ家が苦しくなる。


リシェルの置かれている立場も、少しずつわかってきた。


瀬戸が書類を手に取った。


「明日は、どんな場所で戦うんでしょうね」


「地形は、入場の直前まで知らされません」


「森だったら、昨日の練習も役に立ちそうだけどな」


「海だったらどうするんですか?」


陽菜が尋ねた。


瀬戸はしばらく考えた。


「……泳ぐ?」


「私、そんなに泳げません」


「俺も得意じゃないな」


二人が蓮を見た。


「……俺も普通くらい」


三人の間に沈黙が落ちた。


瀬戸が書類を置いた。


「海は勘弁してほしいな」


陽菜が笑った。


蓮もつられて笑いかけたが、すぐに明日のことを思い出した。


笑っている場合ではない。


相手は人間だ。


黒甲獣とは違う。


話すことができる。考えることも、こちらと同じようにできる。


そんな相手に向かって、あの力を使えるのだろうか。


蓮は右腕を見た。


包帯の下には、まだ黒い紋様が残っている。


「神谷さん」


リシェルの声がした。


「はい」


「明日の試合ですが、無理に勝とうとしなくても構いません」


蓮は顔を上げた。


「……どういう意味?」


「先ほども申し上げたとおり、私の家にとって勝利は必要です。ですが、三人とも無事に帰ってきてくださることのほうが大切です」


リシェルは三人を順に見た。


「危険だと判断したら、降参してください。試合の途中でも構いません」


瀬戸が頷く。


「そのつもりです」


陽菜も続いた。


「はい」


蓮は少し遅れて頷いた。


「……わかった」


ただ、胸の内には別の思いもあった。


負けてもいい。


それはありがたい言葉だった。


だが、いつまでも負け続ければ、リシェルの家は立ち行かなくなる。


そのとき、自分たちの居場所がどうなるのか。


まだ、誰にもわからない。


*


試合当日の朝。


蓮は、右腕の包帯を巻き直してもらっていた。


術師は最後の留め具を締め、腕の曲がり具合を確かめた。


「……昨日よりはよいな」


「ありがとうございます」


「ただし、全力で殴るのは許さんぞ」


「……努力します」


「努力では困る」


術師は蓮の顔を見た。


「よいか。痛みがなくなったからといって、治ったわけではない。あの力に身体が耐えられないことは、忘れるな」


「はい」


蓮は右腕を動かしてみた。


肘は曲がる。


指も握れる。


ただ、肩に力を入れると、まだ鈍い痛みが走った。


完全には治っていない。


それでも、昨日よりはましだった。


医務室を出ると、瀬戸と陽菜が待っていた。


二人とも、屋敷から支給された服を着ている。


動きやすそうな長袖の上着に、革の胸当て。


腰には短い剣が下げられていた。


蓮にも同じ装備が用意されている。


「……似合ってるな」


蓮が言うと、瀬戸は自分の胸当てを叩いた。


「そうか? こっちはまだ慣れなくてさ。歩くたびに変なところが当たる」


「私は、ちょっと重いです」


陽菜が腰の剣を持ち上げた。


「こんなの持ったことないですから」


「俺もだよ」


蓮は自分の剣へ手を伸ばした。


柄を握る。


ずっしりした重さが伝わってきた。


訓練用の木剣とは違う。


鞘から少し抜くと、刃が朝日を反射した。


「……これで戦うのか」


瀬戸が隣へ来た。


「神谷、昨日の話だけど」


「ん?」


「最初から《鬼力》を使うなよ」


蓮は顔を上げた。


「……わかってる」


「本当に?」


「本当に」


瀬戸はしばらく蓮を見ていた。


「昨日の訓練でわかっただろ。俺たちは、神谷が一人で突っ込むより、三人で動いたほうがいい」


「……ああ」


「だったら、無茶するな。俺も村瀬さんも、ちゃんと自分の役割はやるから」


陽菜が頷いた。


「そうです。私たちも戦うんですから」


蓮は二人を見た。


瀬戸は眼鏡を押し上げ、陽菜は腰の剣を握っている。


昨日まで、ほとんど知らなかった相手。


今は、同じ場所に帰ろうとしている仲間だった。


「……よろしく頼む」


蓮が言うと、瀬戸は笑った。


「任せろ、とは言い切れないけどな」


「そこは言い切れよ」


「無理なもんは無理だ」


陽菜が吹き出した。


三人で笑った。


そのとき、廊下の奥から足音が近づいてきた。


リシェルだった。


今日の彼女は、紺色のドレスの上に、銀糸の紋章が刺繍された外套を羽織っていた。


「準備はよろしいですか?」


蓮は頷いた。


「はい」


「では、参りましょう」


リシェルは三人を見た。


「本日は、私も同行いたします」


「リシェルも?」


「はい。所属家の当主として、観客席から試合を見届けることになっています」


彼女は少し微笑んだ。


「皆さんが戻られたら、温かい食事を用意しておきます」


蓮は、その言葉を聞いて頷いた。


「……楽しみにしてる」


リシェルも頷いた。


四人は屋敷を出た。


*


万界闘技場。


昨日と同じ、巨大な円形の建造物。


だが、正面の門から中へ入ると、蓮は足を止めた。


目の前に広がっていたのは、海だった。


「……うわ」


瀬戸が声を漏らした。


「本当に海かよ……」


水面が、朝日を反射していた。


遠くには石造りの建物が並び、いくつもの屋根が水の上に突き出している。


壊れた橋。


半分沈んだ家屋。


水路に取り残された小舟。


かつて港町だった場所が、そのまま闘技場の内部に作られているらしい。


蓮は水の向こうを見た。


水平線は見えない。


建物が続く先には、さらに広い水面が広がっていた。


【第二試練・剣闘士対抗戦】


【戦場:沈水街】


【参加人数:各陣営三名】


【勝利条件:敵陣営全員の戦闘不能、または降参】


文字が浮かんだ。


蓮は、足元の石畳を確かめた。


水際まで数メートル。


そこから先は、腰ほどの高さまで水が溜まっているように見える。


橋は狭い。


建物の間には通路があるが、どこへ繋がっているのかはわからない。


昨日の訓練を思い出す。


木板を固定し、相手の進路を塞いだ。


この場所なら、使えるところはありそうだった。


「……瀬戸」


「おう」


「距離、測れる?」


瀬戸は周囲を見渡した。


「測れる。あの橋まで十八メートル。向こうの建物までは……四十二メートルくらいだな」


「水の深さは?」


「それは無理だ。底が見えないと測れない」


「……そっか」


蓮は頷いた。


陽菜は足元の石畳に手を触れていた。


「……この石と、あの柱なら固定できるかもしれません」


「どれくらい離れてても?」


「触らないと駄目なので、近づく必要があります」


蓮は水路に面した柱を見た。


確かに、あそこなら通路を塞げる。


だが、敵が近づいてくるまで待たなければならない。


「……まずは、相手の出方を見るか」


瀬戸が頷く。


「そうだな。向こうの能力もまだわからないし」


蓮は水面の向こうを見た。


遠くの石造りの橋に、三つの人影が現れた。


こちらと同じような装備をした、日本人の男女。


その先頭に立つ青年が、蓮たちを見つけて足を止めた。


短い黒髪。


右腕に巻かれた赤い布。


そして、手のひらに揺れる小さな炎。


蓮は目を細めた。


「……あいつ」


最初の試練で見た青年だ。


召喚された直後、自分の能力を見せていた。


炎を出せることに、驚いていた男。


青年も、蓮に気づいたらしい。


遠くから、こちらを見ている。


やがて、手のひらの炎を消した。


橋の向こうで、何かを話し始める。


隣にいた男女が頷き、それぞれ別の方向へ散った。


「……動いたぞ」


瀬戸が言った。


蓮は剣の柄に手を置いた。


まだ抜かない。


右腕は重い。


左手も、いつもより汗ばんでいる。


向こうにいるのは、怪物ではない。


同じ日本から来た人間だ。


それでも、試合が始まれば戦わなければならない。


蓮は息を吸った。


「……二人とも」


「おう」


「はい」


「まずは、昨日の練習どおりにやろう」


瀬戸が頷いた。


陽菜が一歩、二人の後ろへ下がる。


蓮は剣を抜いた。


向こうの橋で、再び炎が灯った。


水面に赤い光が揺れる。


その光が大きくなったところで、開始の鐘が鳴った。

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