第一話 鬼神の加護
ざり、と靴底を擦る音がした。
神谷蓮は目を開けた。スニーカーの先が、白い砂に埋まっている。足を引くと、縫い目に入り込んだ粒が靴の中へ落ちた。
顔を上げた先に、石の壁があった。
左右へ大きく弧を描き、その上には幾層もの観客席が積み重なっている。上段へいくほど、人の顔は見分けられなくなった。旗が揺れ、その下で大勢がこちらを覗き込んでいた。
ざわめきが、途切れずに降ってくる。
蓮は右手を見た。
大学帰りに買った缶コーヒーを持っていたはずだった。駅前の信号が青になり、一歩踏み出した。覚えているのは、そこまでだ。缶の冷たさはまだ指に残っているのに、手の中には何もなかった。
「ねえ、ここ、どこ?」
制服姿の少女が、スマートフォンを耳から離した。画面を確かめ、もう一度かけ直している。
「駄目だ。繋がんない」
「誰か警察に電話できないの?」
「だから、圏外なんだって」
声のする方を見れば、また別の人が立っていた。スーツの男。買い物袋を抱えた女性。作業着の老人。人垣の向こうにも、同じように辺りを見回す人々がいる。
聞こえてくるのは日本語だった。
「兄ちゃん。ここに来る前、何してた?」
肩を叩かれ、蓮は振り向いた。眼鏡をかけた若い男が、返事を待っている。
「駅の近くを歩いてました。大学から帰る途中で」
「俺は家。パソコンの前にいたんだけどな」
男は蓮の向こうまで見渡した。
「誘拐にしたって、多すぎるよな」
蓮は答えられなかった。誰に聞けばいいのかさえ、わからない。
頭上で鐘が鳴った。
低い響きが胸まで伝わってきた。二度、三度と続くうち、近くの話し声がやんでいく。
『静粛に』
蓮は耳に手を当てた。
鐘とは違った。声が来る方角がない。耳を塞いでも、言葉ははっきり聞こえた。
『異界より招かれし者たちよ。万界闘技場へ、ようこそ』
観客席の正面に、張り出した壇がある。白い法衣を着た老人が、その中央で杖を掲げていた。左右には、金糸の光る衣服や長いドレスを身につけた男女が並んでいる。
『今回、召喚されたのは三百名。いずれも同一世界より選定された者たちである』
「三百……」
眼鏡の男が、肩越しに人垣を見た。
『諸君には、正式な剣闘士となる資格が与えられる。認められた者は各国貴族と契約を結び、この世界での居住権と、能力を高める機会を得ることになる』
「帰せよ!」
スーツの男が前へ出た。
「誰がそんなこと頼んだ! ここはどこなんだ!」
「子供が家で待ってるんです!」
「説明しろよ!」
声が重なった。老人は杖を下ろさない。
その隣で、一人の男が連れの耳元に口を寄せた。二人の肩が揺れた。笑っているのだとわかるまで、蓮はしばらく見つめていた。
『まずは、諸君自身の力を確認してもらおう。この世界の住人は、生まれながらに魂固有の能力を持つ。我々はそれを《天賦》と呼ぶ』
杖の先が光った。
【個体情報を確認しました】
目の前に文字が現れ、蓮は後ずさった。文字もついてくる。目を閉じても、瞼の裏に残っていた。
【名前:神谷 蓮】
【レベル:1】
【固有天賦:鬼神の加護】
【状態:未覚醒】
「鬼神の加護……?」
手を伸ばしても触れられない。自分の名前が、知らない言葉と並んでいる。
能力名を見ていると、その下に説明が増えた。
【鬼神の力を宿す者に与えられる加護】
【詳細:未解放】
読み直しても、それ以上は何も出なかった。
「そっちも見えてるか?」
眼鏡の男が、何もない場所に指を動かしている。
「俺、《測距》だって。距離を測るのか、これ」
男の目が蓮に止まった。
「二・一メートル」
「何が?」
「俺から君まで。数字がわかる」
男は足元を見て、それから観客席を見上げた。眼鏡を押し上げかけた手が、途中で止まる。
少し離れたところで、歓声が上がった。
「火だ! 俺、火が出せる!」
若い男が手のひらを突き出している。指の上で炎が揺れ、近くにいた人たちが一斉に顔を寄せた。別の場所では水が噴き出し、ズボンを濡らされた男が飛び退いた。
「剣術適性って書いてある」
「私、料理の味がわかるって。何それ」
帰せと叫んでいた人の何人かも、自分の手を確かめ始めた。
蓮は拳を握った。開いて、もう一度握る。腕の太さも、指の動きも、知っている自分のままだ。
『確認は済んだかね』
壇上に赤い旗が掲がった。
『これより第一試練、《血の洗礼》を開始する。条件は二つ。十五分間の生存、あるいは、試練対象の討伐』
正面の石壁が動いた。
継ぎ目から砂がこぼれ、壁が左右へ開いていく。蓮はその向こうを見て、首を伸ばした。
森があった。
通路の先に木が生えているのではない。木々は奥へ奥へと続き、その上には山の稜線まで見えている。少し前まで壁だった場所に、どこまでも遠くを見通せる隙間ができていた。
「どうなってんだよ……」
眼鏡の男の声が、隣でした。
『なお、試練中の死亡について、主催者は一切の責任を負わない』
蓮は老人を見た。
今、何と言った。
問い返す声が上がるより早く、森の中で木が倒れた。
太い幹が傾き、隣の木へ枝を引っかけながら崩れていく。その向こうから、黒い頭が現れた。
二本の角。重なり合う甲殻。地面へ沈む四本の脚。
頭が左右に動くたび、角の根元に引っかかった枝が擦れた。甲殻の隙間には灰色の皮膚が見え、鼻先から糸を引いた涎が落ちている。
蓮の足元で、小石が跳ねた。
獣が一歩踏み出す。次の足が下りる。近づくにつれて、腐った肉と糞尿の臭いがした。
『試練対象、黒甲獣ベヒモル』
蓮は後ろへ下がろうとした。誰かの足に踵が当たった。
『開始』
【14:59】
黒甲獣が頭を下げた。
見た目の重さに反して、動き出すのは速かった。砂を蹴った四肢が巨体を押し出し、人垣へまっすぐ迫る。
進路にいた男が、両腕を上げた。
「待っ――」
鈍い音がした。
男の身体が跳ね、離れた砂地へ落ちた。着地しても足が動かない。片腕が背中の方へ折れ曲がっている。
駆け寄ろうとした人が、途中で立ち止まった。
砂に赤いものが広がった。
蓮の脇を誰かが走り抜けた。背中を押され、一歩踏み出したところへ、また別の肩がぶつかる。
「どけ!」
「押さないで!」
転んだ人を避けようとして、靴が滑った。蓮は両腕を振り回し、どうにか踏みとどまった。
もう一度、男の落ちた場所を見た。
男はまだ、同じ姿勢で横たわっていた。
蓮は走り出した。
*
森に入って木の幹へ手をついたとき、口の奥に鉄の味がした。
背後からは、まだ叫び声が届く。観客席のざわめきも消えていない。目の前の枝では鳥が鳴いていた。
蓮は息を吸おうとして咳き込んだ。足元は湿った土に変わっている。靴底に葉が貼りついた。
【11:43】
あと十一分。
木の間を覗く。奥へ進んでいく人の背中が、幹に隠れて見えなくなった。あちらへ行けば、獣から離れられる。
手を離しかけたところで、声がした。
「誰か、いませんか」
すぐ近くの、低い場所からだった。
根の張り出した地面に、制服姿の少女が座っていた。片足を抱えている。靴下に血が滲んでいた。
少女は蓮を見ると顔を上げた。口が動いたが、声にはならなかった。
蓮は森の奥を見た。
自分の足は動く。息も戻りかけている。行くなら今だ。
一歩、そちらへ向いた。
少女の目が足元へ落ちた。蓮を呼び止める声はしなかった。
蓮はそこで足を止めた。少女と森の奥を、もう一度見比べた。
「立てる?」
「わかりません。足、つくと……」
蓮は引き返してしゃがんだ。
靴を脱がせると、足首の腫れがわかった。そっと触れただけで、少女の肩が上がった。
「ごめん。こっちの肩、掴んで」
少女の腕を回し、腰を支えて立たせる。右足が地面に触れた途端、身体が崩れた。
蓮は抱き留め、そのまましゃがみ直した。
「背中に乗って。右足、もうつかなくていいから」
首に腕が回った。立ち上がると、さっきまでの息切れが戻ってきた。
鳥が鳴かなくなっていた。
森の入口で枝が揺れる。一本の木が押し曲げられ、葉の間から黒い甲殻が見えた。
蓮は少女を背負い直した。
「掴まってて」
返事を待たず、木々の間へ入った。
太い幹の脇を抜け、根をまたぐ。背後で枝が折れるたびに、曲がる方向を変えた。どこへ向かっているのか、すぐにわからなくなった。
木が邪魔をして、獣はまっすぐには追ってこられない。蓮も走り続けることはできなかった。幹の陰で止まっては少女を背負い直し、音が近づく前に次の木へ移る。
肩に回された腕が、次第に強く締まってきた。
「私、降ります」
「まだいい」
「でも、重い――」
「手、離さないで」
声を出した分だけ、息が足りなくなった。
木を回り込むと、行く手を岩が塞いでいた。左へ避けようと踏み出した足が滑る。蓮は膝をつき、少女の重みを支えきれずに両手をついた。
背後で枝の折れる音がやんだ。
振り向くと、黒甲獣の鼻先が見えた。
甲殻には細かな傷が刻まれていた。頭の上には、古い深い傷もある。蓮はそれを見たまま、少女の腕を首から外した。
「岩の裏へ。早く」
少女を押し込み、自分も続こうとした。
影が落ちた。
獣の前脚が上がっていた。岩とその脚の間に、蓮は取り残されている。
両腕を持ち上げた。
防げるはずがないと考える前に、腹の奥が熱くなった。
右腕が膨らむ。袖の内側を筋肉が押し、皮膚の下に黒い筋が浮いた。手首から肘、肩へと、見たことのない紋様が伸びていく。
【固有天賦《鬼神の加護》】
【第一段階解放】
【《鬼力》を獲得しました】
爪が落ちてきた。
蓮は右腕を突き上げた。
衝撃で足が土に沈んだ。膝が折れ、噛み合った歯の間で舌を切った。口の中が血で満たされる。
爪は、まだ頭の上にあった。
腕が折れていない。
蓮は右足を踏み直した。爪に押されて傾いていた身体が、少しずつ起きる。腕を下げようとしても下がらず、反対に、持ち上げようとすれば獣の脚が動いた。
「っ、ああああ!」
押し返した。
前脚がずれ、黒甲獣の頭が近づいた。蓮はそこへ踏み込み、右拳を振り抜いた。
硬い感触が拳に残った。
甲殻が割れた。黒い破片が頬をかすめ、獣の頭が横へ振られる。
蓮は半歩よろけた。
自分の手を見た。拳の皮膚が裂け、指の間に甲殻の欠片が挟まっている。その指を握り直そうとして、声が出た。
「う、あ……」
腕が上がらない。
肩の奥が引っかかり、動かすほど痛みが増した。膝から力が抜けていく。
【警告】
【《鬼力》の過剰使用を検知】
【肉体負荷が許容値を超過しています】
獣が首を振った。
砕けた甲殻から、濃い色の液体が落ちていた。脚は四本とも地面についている。
倒せていない。
岩陰から少女が顔を出した。
「逃げて」
蓮は左腕を前へ出した。黒甲獣の鼻先が下がる。
「伏せろ!」
声に反応して身を屈めると、頭の上を枝が飛んだ。獣の顔に当たり、折れて落ちる。
黒甲獣がそちらを向いた隙に、蓮の左肩が掴まれた。
「こっち!」
引かれるまま、岩の後ろへ回る。眼鏡の男だった。最初に蓮へ話しかけてきた男だ。
「走れるか?」
「少しなら……」
「直線は駄目だ。あいつ、曲がる前に速さが落ちる。木か岩を挟め」
獣の頭が岩の端から覗いた。男は蓮の肩を押し、少女にも手で下がるよう示した。三人が移動すると、頭が引っ込み、向こう側で土を掻く音がした。
「見てたのか、ずっと」
「測ってた。何度か突っ込んでくるときに、距離の減り方を見たんだ。合図は出せる」
男は木々の間を指さした。
高さ三メートルほどの岩がある。脇には倒木が重なり、通れる幅を狭めていた。
「あそこまで行ければ、足を取れるかもしれない。君、能力は?」
少女が顔を上げた。
「《仮止め》です。物を、くっつけられます」
「触れば?」
「はい。十秒だけ」
男はもう一度、倒木を見た。
「岩と木を固定できる?」
少女は左足に体重を移し、岩越しに確かめた。
「手が届けば、できます」
【02:46】
蓮は空中の数字を見た。
残り二分四十六秒。あれほど遠かった十五分の終わりが、近づいていた。
「殺さなくていいんだ」
男が言った。
「時間まで生きてればいい。木を固定しても、あの重さじゃ折られるかもしれない。でも、つまずかせるだけなら」
男は地面に指を置き、岩と倒木の位置を描いた。そこへ一本、進路を引く。
蓮はその線を見て、まだ動く左手を開いた。
「俺が引きつける。二人は、先に」
「無理するなよ。さっきから腕――」
「走るだけならできる」
立ち上がりかけたところで、男に呼び止められた。
「瀬戸直也。名前、何て呼べばいい?」
「神谷蓮」
「村瀬陽菜です」
少女も答えた。瀬戸は二人の顔を順に見て、眼鏡をかけ直した。
「普通の場所で聞きたかったな」
蓮は息だけで笑った。
岩の向こうで、爪が石を擦った。
蓮は左手をついて立ち、獣の見える側へ出た。
「こっちだ!」
赤い目が蓮へ向いた。瀬戸が陽菜に肩を貸し、反対側から離れていくのが見えた。
蓮は駆けた。
黒甲獣の進む音が、すぐに追ってくる。近い木へ逃げ込み、幹を挟んで向きを変える。獣が回り込む前に次の木へ移った。
足を上げたつもりでも、根に靴先が引っかかった。左手をつき、右腕を庇って起き上がる。それだけで距離が詰まる。
大岩までは遠くない。まっすぐ走れば、そこへ着く前に追いつかれる。
瀬戸の声を探しながら、蓮は木と岩の間を回った。獣が反対側から迫って、引き返したこともあった。右腕は振れず、曲がるたびに身体がそちらへ流れる。
ようやく大岩が正面に見えた頃には、時間表示の分の桁がゼロになっていた。
「右! 三歩!」
瀬戸が岩の向こうから叫んだ。
蓮は指示された側へ寄った。倒木の陰に、陽菜の姿が見える。片手を岩へ、もう片手を幹へ伸ばしていた。
背後の足音が速くなった。
「まだ!」
大岩が迫る。もう避けなければ、自分がぶつかる。
「今だ!」
蓮は横へ跳んだ。
黒い頭が脇を通り過ぎ、角が岩を削った。
「《仮止め》!」
倒木と岩の接したところに光が走る。
黒甲獣の前脚が、固定された幹に引っかかった。木がしなり、甲殻同士のぶつかる音がした。前のめりになった巨体が地面を打ち、蓮の顔へ土が降りかかる。
陽菜が手を離した。岩の裏へ退く。
「十秒! それ以上は持たない!」
瀬戸の声に重なって、木が裂ける音がした。
蓮は左手で身体を起こした。
五メートルほど先に、獣の頭があった。さっき殴った場所だけ、甲殻の割れ目が白く見える。
前脚が地面を掻いた。倒木が軋む。
あそこへ、もう一度。
蓮は右腕を持ち上げた。
肩に痛みが走り、肘が落ちかける。力を込めると、消えかけていた黒い紋様が浮き直した。
【《鬼力》再発動】
【警告:肉体損傷の危険があります】
踏み込んだ足の下で、土が沈んだ。
蹴ったつもりより強く身体が前へ出る。獣の頭が迫り、足が地面を離れた。蓮は右拳を振り上げ、割れ目に目を据えた。
「――っああ!」
拳を叩き込んだ。
甲殻が砕け、腕が深く沈んだ。獣の頭が地面へ打ちつけられ、周囲の土が跳ね上がる。
蓮も弾き返された。
背中から落ち、息が止まった。吸おうとしても胸が動かない。口を開けたまま、左手で地面を掻いた。
右腕が視界に入った。
肘から先の向きがおかしかった。
見ないようにして、身体を起こそうとした。左肘をつくことさえできなかった。
倒木が折れた。
獣の頭が持ち上がる。割れた甲殻から血が流れ、口の端を伝って落ちていた。
蓮は足を引こうとした。
動かない。
開いた口から臭いが吹きつけた。歯の間に、赤黒いものが挟まっている。
鐘が鳴った。
牙が、顔のすぐ上で止まった。
蓮は目を閉じられずにいた。獣の目も動かない。赤い表面に光の粒が生まれ、頭から胴へ広がっていく。
牙の先が崩れた。脚の輪郭が薄れ、向こう側の木が透けた。
頭上から重い影がなくなった。
【00:00】
【第一試練終了】
【生存条件達成】
蓮の開いた口に、土が入った。
吐き出そうとして咳が出る。ようやく息を吸えた。
「神谷!」
瀬戸が横へ膝をついた。肩を掴まれ、蓮は声を絞った。
「触るな、腕……」
「悪い!」
瀬戸の手が離れた。眼鏡の奥の目が、右腕から動かなくなった。
陽菜も左足を引き寄せながら近づいてきた。蓮の左側へ座り、何か言おうとして口を閉じる。それから、頭を下げた。
「ありがとうございます」
蓮は返事をしようとした。唾を飲み込むと、切れた舌が痛んだ。
「こっちこそ」
それだけ言うのに、息を使い切った。
【経験値を獲得しました】
【レベルが上昇しました】
【Lv.1 → Lv.2】
【固有天賦《鬼神の加護》】
【《鬼力》の熟練度が上昇しました】
【次回能力選択:Lv.5】
文字を追っているうちに、瀬戸の声が遠くなった。目の前にいるのに、何を言っているのか聞き取れない。
観客席から歓声が届いた。
蓮は、最初に吹き飛ばされた男を思い出した。あの男も、能力を使えたのだろうか。自分の表示を読む時間はあったのだろうか。
【試練参加者:300名】
【生存者:237名】
三百から二百三十七を引いた。
六十三。
もう一度、引いた。答えは同じだった。
知らない人ばかりだった。名前も聞いていない。ただ、さっきまで同じ場所で、帰せと叫んでいた。
蓮は左手を握った。指の間に土が詰まった。
「なんなんだよ……」
言い終える前に、瀬戸の顔が見えなくなった。
*
天井から白い布が下がっていた。
その隙間に木の梁が見える。蓮はしばらくそこを見つめ、背中が砂ではなく寝具に触れていることに気づいた。
薬草と、アルコールに似た匂いがする。
右腕を動かしかけ、息を止めた。
包帯が巻かれていた。肘から手首には添え木が当てられている。指先を少し曲げただけで、腕の奥まで痛みが響いた。
「まだ動かさないでください。骨も筋肉も傷んでいます」
窓際に女性がいた。
銀色の髪が肩から胸元へ流れている。紺のドレスの袖には銀糸が縫い込まれ、その手には数枚の紙があった。年齢は蓮とそれほど違わないだろう。
「誰ですか」
女性は紙を机に置き、寝台へ近づいた。
「リシェル・アルヴェインと申します。アルヴェイン子爵家の当主です」
子爵。
蓮は彼女の衣服を見直した。闘技場の壇上にも、こうした服の人間が並んでいた。
「あそこにいた?」
「闘技場でしたら、いました」
「観客席で、見てたんだ」
リシェルは答えるまでに間を置いた。
「見ていました」
蓮は天井へ顔を戻した。
「俺たち、何も知らなかった。歩いてたら急にあそこにいて、帰せって言っても、あいつら……」
続きが出てこなかった。
最初の男を思い出すと、その前に何があったのかわからなくなる。確かに、誰かがまだ話していたはずなのに。
「六十三人だって」
「はい」
「死ぬって、知ってたのか」
リシェルは蓮を見ていた。
「第一試練で犠牲者が出ることは、聞いていました」
「それで、召喚に参加した?」
「参加しました」
窓の外で鳥が鳴いた。蓮は音のした方を見てから、リシェルへ視線を戻した。
「何でそんなことするんだよ」
彼女は両手を重ねた。
「王国から、参加を命じられています。国境を守る家は、一定数の剣闘士を確保しなければなりません」
「命令なら、何でもやるのか」
リシェルの口が閉じた。
蓮は返事を待った。彼女は寝台の脇を離れなかった。
「拒めば、領地の統治権を失う可能性がありました。私の家は、今の収入では税と防衛費を賄えません。三年前に父が亡くなって、私が継いでからも、立て直せずにいます」
そこまで言って、彼女は蓮の腕を見た。
「そのために、あなたたちを呼びました」
蓮は左手で寝具を寄せた。
領地と言われても、どんな場所なのか知らない。そこに住む人の顔も浮かばない。知っているのは、さっき砂の上に倒れた人だけだった。
聞きたいことはほかにもあった。ここがどこなのか。なぜ日本人なのか。帰るには、どうすればいいのか。
いくつも浮かび、どれから言えばいいのかわからなくなった。
「生き残った人たちは」
「治療を受けています。重傷の方もいますが、その後に亡くなった方はいません」
「瀬戸直也と、村瀬陽菜。俺と一緒にいた二人は?」
リシェルは机の紙を取り上げた。
「瀬戸直也さんは軽傷です。村瀬陽菜さんも足首の治療を受けて、歩けるようになったと報告されています」
蓮は枕へ頭を沈めた。
陽菜の腕が首に回った感触が、まだ残っていた。瀬戸が最後に呼んでいた声も。
「二人とも、生きてるんだな」
「はい」
蓮は目を閉じた。
しばらくして開くと、リシェルが杯を持っていた。
「お水を」
左手で受け取った陶器は冷たかった。一口含むと、切れた舌にしみた。それでも、もう一口飲んだ。
杯を返したとき、差し出された布で口を拭った。血が薄くついた。
「お話ししておかなければならないことがあります」
リシェルが別の紙を取った。
「今回の試練を生き残った方々は、剣闘士として登録されます。そのうえで、召喚に参加した貴族家のいずれかと契約を結ぶことになります」
「断ったら?」
「所属先が決まらなければ、闘技場の管理下に置かれます」
蓮が顔を上げると、彼女は先を続けた。
「そこで一般の剣闘士として、試合に出ることになります」
右腕を見た。
骨の形が変わるほど殴っても、あの獣は倒せなかった。また同じことをしろというのか。
「どっちにしても、戦うんだな」
リシェルは何も言わなかった。
蓮は顔を左手で覆い、しばらく動かなかった。
「その紙は」
「当家との契約書です」
手を下ろす。
「あなたに、私の家へ来ていただきたいと思っています」
「俺を?」
「黒甲獣の甲殻を素手で砕いたことは、闘技場でも話題になっています。《鬼神の加護》について詳しいことはわかりませんが、今回、あのような戦い方をした方はほかにいません」
「二回殴って、これだぞ」
蓮は包帯を示した。
「次も同じことができるかなんて、わからない」
「そのことも承知しています」
「じゃあ、どうして」
リシェルはすぐには答えなかった。持っている紙を見下ろし、端を揃えた。
「あなたが、村瀬さんのところへ戻ったからです」
蓮は彼女を見た。
「森の中まで、見えてたのか」
「戦場の各地を映す観測魔法があります。私は、その映像を見ていました。あなたは一度、森の奥へ行こうとして、戻りました」
蓮は視線を窓へ移した。
誰もいないつもりだった。あのときのためらいも、膝をついて少女の足を見ていた時間も、観客席に映っていたのか。
「力だけで選ぶのなら、私よりよい条件を出せる家はあります。ですが、私はあなたの行動を見て、お話をしたいと思いました」
蓮は返事をしなかった。
リシェルは持っていた紙を、寝台の脇へ置いた。
「私の家には、強い剣闘士がほとんどいません。兵も、資金も、設備も足りません。高額な報酬や装備をお約束することはできません」
「勧誘なんだよな、それ」
リシェルが顔を上げた。
「できないことを、お約束するわけにはいきませんので」
蓮の口から短く息が漏れた。笑ったのだと、自分でも少し遅れて気づいた。
リシェルは紙に手を置いた。
「傷ついた方が治療を受けられるようにします。報酬も、できる限り公正に分けます。私の家に来てくださる方を、道具として扱うつもりはありません。ただ、今の私にできることには限りがあります」
「俺、まだ信用してないからな」
「そうだと思います」
「そう言われたって、こっちじゃ確かめようがない。俺たちは何も知らないんだ。あんたの家に行けば大丈夫だって、何を見て決めればいい?」
リシェルは机へ戻った。
引き出しからペンを取り出し、契約書を広げる。蓮が見ている前で、余白に文字を書き加え始めた。
「何を書いてる?」
「治療費を当家が負担すること。それから、ご本人の同意なく、契約をほかの家へ譲らないことです」
ペンが止まり、また動いた。
「報酬の分配も、曖昧なままにしないようにします」
書き終えた紙が差し出された。
蓮は左手で受け取った。字の形は見えても、一つとして読めない。
「口で説明されても、そのとおりに書いてあるか、わからないぞ」
「翻訳魔法を使える者を立ち会わせます。今は私が読み上げますが、それだけで署名していただくつもりはありません」
蓮は書き足された部分を見た。ほかの文字より、まだ色が濃かった。
信用できる証拠にはならない。
ただ、問い返しても、この人は話を終わらせようとしなかった。
「もう一つ。瀬戸と村瀬のことも、頼みたい」
「お二人も、当家へ?」
「戦闘向きじゃない能力なんだ。でも、あいつらがいなかったら俺は死んでた。ほかに行くところがないなら、一緒に受け入れてほしい」
リシェルは紙の枚数を確かめた。
「まず、お二人の意思を聞かせてください。当家で受け入れることは可能だと思います」
「本人たちが嫌なら、無理には頼まない。それでいい」
窓の外で、鐘が鳴った。
蓮の左手が止まった。
二度目を聞く前に、扉の方を見た。右腕を身体へ寄せかけて、痛みに動きを止めた。
「次の試合の開始を告げる鐘です」
リシェルも窓へ顔を向けていた。
「もう、次か」
三度目の音が消えた。
蓮は契約書に目を戻した。読めない文字を見ていると、少しだけ、鐘から意識を離せた。
「お返事は、今でなくても構いません」
「いつまで?」
「明日の正午までです」
「短いな」
リシェルが頭を下げかけたので、蓮は紙を持つ手を上げた。
「あんたが決めたんじゃないんだろ。謝らなくていい」
右腕の指先に、黒い筋が残っていた。
試練の前にはなかったものだ。目を閉じても消えない文字と同じで、自分の身体からも逃げられない。
蓮はリシェルへ顔を向けた。
「俺がもっと強くなったら、何か変えられるのか」
彼女は椅子の背にかけていた手を離した。
「こういう召喚とか、戦いたくない人間まで戦わせる仕組みとか。勝てば、やめさせられるのか」
リシェルは窓を一度見た。
「あなたが強くなるだけでは、変えられないと思います」
蓮は返事を待った。
「闘技場で上位に立つ貴族家は、各国の議会へ意見を提出できます。領地や資金の配分にも発言できます。ですが、権利を得ることと、意見が認められることは別です」
「今のあんたには?」
「ありません」
彼女は机の端に指を置いた。
「当家は今期、最下位に近い位置にあります。次の大会で結果を残せなければ、領地の一部を手放すことになります」
蓮は天井を見た。
帰りたい。
大学から帰るつもりだった。たったそれだけのことが、今はどうすればできるのかもわからない。
顔を戻すと、リシェルはまだ返事を待っていた。
「契約書、最初から聞かせて」
「よろしいのですか」
「全部納得したわけじゃない。あんたのことだって、まだ知らない」
蓮は紙を持ち直した。
「でも、家がどうなるかは気になった。その土地、勝てば手放さなくて済むんだろ」
言ってから、包帯に目がいった。
勝つ、と言うのは簡単だった。十五分逃げ回っただけで、今は寝台から起きることさえできない。
リシェルは、蓮の腕ではなく顔を見ていた。
「簡単な試合ではありません」
「わかってる。少なくとも、負けるつもりで契約はしたくない」
リシェルが椅子を引き寄せた。
「では、順番にご説明します。わからないところは、途中でも止めてください」
彼女の指が紙の上部へ置かれた。
契約の期間。報酬を受け取る時期。聞いたことのない通貨の名前。
蓮は一つずつ聞いた。言葉の意味がわからないところで止めると、リシェルは前の項目へ戻って説明した。
廊下から足音が近づいてきたのは、報酬の分配について聞いているときだった。
扉が叩かれた。
「リシェル様。王都闘技場より通達が届いております」
彼女の指が、紙の上で止まった。
「内容は」
「今回の異界召喚者について、次の試合日程が決定いたしました」
蓮は顔を上げた。
「いつですか」
「三日後でございます」
リシェルが立ち上がった。椅子の脚が床を擦った。
「形式は」
「剣闘士対抗戦。三名一組の団体戦です」
蓮は右腕を見た。包帯の端から覗く指を動かそうとして、途中でやめた。
扉の向こうで、男が紙をめくった。
「対戦相手も、今回召喚された異界人から選出されます」
リシェルが蓮を振り返った。手には、まだ契約書があった。
蓮は何か言おうとしたが、口を閉じた。
三百人の人垣が浮かんだ。炎を見せていた男。電話をかけ直していた少女。あの中の誰かが、向こう側に立つ。
廊下では、通達の続きが読み上げられていた。
蓮は視線を腕へ戻した。
親指の付け根から手首へ、黒い線が一本残っている。
包帯の下へ続くその線が、ゆっくりと赤くなった。




