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EP 5

究極の不倫劇と『マスクメロン(仮面)夫婦』の誕生

 生米と水道水だけの夕食から、さらに数日が経過した。

 かつてポポロ村で一番美しいと称賛された泥沼家の農地は、今や見る影もなく荒れ果てていた。

 雑草が膝の高さまで生い茂り、手入れを放棄された太陽芋の葉は黄色く枯れ落ちている。最新式の魔導トラクターは泥にまみれたまま放置され、その金属部品にはうっすらと赤錆が浮いていた。

 ただ一箇所。

 農地の奥にあるビニールハウスだけが、異様な活気と妖しいピンク色の魔導光に包まれている。そこだけが、まるでスラム街にそびえ立つ高級クラブのように、不気味なまでの存在感を放っていた。

     * * *

 深夜のリビング。

 照明の落とされた部屋には、重く、ねっとりとした沈黙が満ちていた。

 テーブルを挟んで向かい合うのは、泥沼武蔵と恵の夫婦。

 武蔵は、サイズが合わずヨレヨレになったスーツ姿のまま、深く椅子に腰掛け、ポポロ村特産の高級嗜好品『ポポロシガー』をふかしている。紫色の煙が、ハードボイルドな映画のワンシーンのように、彼の無精髭の生えた横顔を陰らせていた。

 対する恵もまた、けばけばしい赤いルージュを引き、安っぽいパーティードレスを身に纏ったまま、冷たい視線で夫を睨みつけている。

「……話ってのは、なんだ」

 武蔵が、シガーの灰をテーブルの上の空き缶に落とし、低く掠れた声で口を開いた。

「単刀直入に言うわ」

 恵は、まるで昼ドラの悲劇のヒロインのような、ひどく思い詰めた、それでいてどこか陶酔しきった表情で、武蔵を真っ直ぐに見据えた。

「――私、もうあなたとはやっていけないわ」

 離婚の切り出し。

 結婚20年目のおしどり夫婦が、ついにその歴史に終止符を打とうとした瞬間だった。

「……ふっ」

 しかし、武蔵はその言葉を聞いても、微塵も動揺を見せなかった。

 ただ、口の端を歪めて自嘲気味に笑い、深く紫煙を吐き出しただけだ。

「奇遇だな。俺も、全く同じ気持ちだったんだよ。お前みたいな、存在しないホストの幻覚(幸彦)に狂った女とは、これ以上同じ屋根の下で息をするのもウンザリしていたところだ」

「それはこちらのセリフよ! メロンをキャバ嬢(仁美)だと思い込んで、毎日ヘラヘラと鼻の下を伸ばしているあなたを見るたびに、虫唾が走っていたわ!」

 バチィッ! と、空中で二人の視線が火花を散らす。

「私には、心から愛している人がいるの。……幸彦よ。あの子は、私がすべてを捨ててでも守りたい、運命の男なの」

 恵が、両手を胸の前で組み、天井を仰ぎ見て熱を帯びた声で語る。

「私は、幸彦のすべてを奪って、身も心も一緒になって、彼に食べられてしまいたいのよ……。そのためなら、あなたとの20年の結婚生活なんて、安いものだわ」

「狂ってやがる」

 武蔵は吐き捨てるように言い、シガーを強く噛んだ。

「だが、俺も似たようなもんだ。俺には仁美ちゃんがいる。あの純粋で、俺のすべてを受け入れてくれる可愛い天使……。俺は、残りの人生と財産のすべてを、仁美ちゃんに捧げると決めたんだ。お前との過去になんて、未練は1ミリもねぇ」

 互いに、自らの「不倫相手メロン」への究極の愛を語り合い、配偶者を完全に見下し合う二人。

 彼らは完全に失念していた。

 恵が愛する「幸彦」も、武蔵が愛する「仁美」も、物理的には【ハウスにある全く同じ一つのメロン】であることを。

「じゃあ、話は早いわね。今すぐ離婚届に判を……」

 恵がテーブルの上に紙を叩きつけようとした、その時だ。

「待て」

 武蔵が、鋭い声でそれを制止した。

「……なんだと言うの? まさか、今更未練がましいことを言うつもりじゃないでしょうね?」

「馬鹿野郎。現実リアルを見ろ」

 武蔵は、シガーの煙をゆっくりと吹き出しながら、窓の外――真っ暗なポポロ村の風景を顎でしゃくった。

「ここはポポロ村だぞ。村の連中の繋がりは異常に強い。もし俺たちがここで正式に離婚スキャンダルを起こしてみろ。明日には村中に噂が広まり、農業組合の長老連中が黙っちゃいねぇ」

「……っ!」

 恵の顔から、スッと血の気が引いた。

「俺たちの農地は、元々農業組合からの借り受け(借地)だ。俺たちが『おしどり夫婦』として真面目に農作業をやっていたからこそ、格安で土地を任せてもらえていたんだ。

 離婚騒動を起こして、この荒れ果てた畑を見られでもしたら……一発で契約解除。この土地から追い出される」

「そ、そんな……! 土地を追い出されたら……ハウスはどうなるの!? 幸彦が、幸彦が路頭に迷ってしまうわ!」

 恵がパニックを起こし、テーブルに身を乗り出す。

「そうだろうが。俺だって、仁美ちゃんをこんな田舎から追い出すような真似はしたくねぇ。あの子には、もっと温かくて安全な場所ハウスで、綺麗な水と肥料を与え続けてやりたいんだ」

 武蔵の指摘は、極めて現実的で、そして致命的だった。

 メロロンへの愛(不倫)を貫くためには、皮肉なことに、今の【農地とハウス】というインフラを絶対に維持しなければならないのだ。

 そしてそのためには、村の連中から『円満な農家夫婦』であると思われ続ける必要がある。

「……じゃあ、どうすればいいのよ。私はもう、あなたと夫婦のふりをして笑い合うなんて、絶対に無理よ」

 恵が唇を噛み締め、悔しそうに俯く。

 沈黙が降りた。

 チクタク、チクタクと、壁掛け時計の無機質な音だけがリビングに響く。

 やがて、恵が顔を上げ、まるで悪魔と契約を交わすような、底冷えのする声で提案した。

「……世間体もあるから。【仮面夫婦】になりましょう」

「仮面、夫婦だと?」

 武蔵が眉をひそめる。

「ええ。外に出る時や、村の集会、組合の監査の時だけは、今まで通り『仲良しのおしどり夫婦』を完璧に演じるの。

 でも、家の敷地内に入ったら、お互い一切干渉しない。会話も食事も別々。そして何より……」

 恵の目が、狂気的なギラつきを帯びた。

「あのハウス(愛しの人の部屋)に入る時間は、シフト制で厳格に分けるわ。

 私が幸彦と同伴デートしている時は、あなたは絶対にハウスに近づかない。あなたが仁美と会っている時は、私も一切邪魔をしない。

 ……お互いの【究極の不倫(愛)】を、互いに黙認し、そして徹底的に守り抜くのよ」

 夫はキャバ嬢に。妻はホストに。

 互いの狂気を肯定し合うことで、表向きの平穏を保つという、狂気に満ちた不可侵条約。

 これが、疑似恋愛の魔物・メロロンがもたらした、人間関係の最悪の終着点である。

「…………」

 武蔵は、恵の提案を聞き、目を閉じて深く息を吸い込んだ。

 そして、短くなったポポロシガーを灰皿に押し付け、ハードボイルド映画の主人公のような、渋く、重みのある声で言い放った。

「……マスクメロン(仮面)夫婦か。笑えない洒落だな」

 窓の外から差し込む月明かりが、ダボダボのスーツを着た中年オヤジの横顔を、無駄に劇画チックに照らし出していた。

「ええ、そうね。でも、これが私たちにとっての最適解よ。……異論はないわね?」

「あぁ。俺の愛しの仁美ちゃんを守るためだ。泥水でもすすって、村の連中を騙し通してやるさ」

 ここに、究極の不倫協定が結ばれた。

 だが、この悲劇(喜劇)の最も恐ろしいところは、彼らが文字通り『身も心も、そして財産もすべてを捧げようとしている不倫相手』が、実は【全く同じ一つのメロン】であるという事実だ。

 朝はホストの幸彦として恵に甘い言葉を囁き、夜はキャバ嬢の仁美として武蔵に愛嬌を振りまく。

 メロロンは、泥沼家の夫婦が時間差でハウスを訪れるのをいいことに、二人の承認欲求を交互に搾取し、無限の肥料カネと愛情を吸い上げ続けるのである。

 アナスタシア世界において、これほどまでに滑稽で、これほどまでに完璧なNTR(寝取られ)劇が存在するだろうか。

 彼らは、お互いに「自分が一番愛されている」と信じて疑わないまま、たった一つの植物によって、人生のすべてをしゃぶり尽くされようとしていた。

 そして、この『マスクメロン夫婦』という狂気の感染症パンデミックは。

 ルナがばら撒いた無数の種により、泥沼家だけにとどまらず、ポポロ村の【すべての農家】へと静かに、そして確実に蔓延していくこととなるのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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