EP 4
完全な水商売化と、生米の食卓
泥沼家のビニールハウスは、かつての長閑な農作業場から、異様な空間へと変貌を遂げていた。
本来なら『太陽芋』の苗を育てるためのスペースは完全に撤去され、代わりにベルベットの赤い布が敷き詰められている。天井からは、農業用の保温ランプではなく、魔導具屋で無駄に高く買ってきた【ピンク色に妖しく光る魔導石】が吊るされていた。
ここはもはや、農家のハウスではない。
魔性の果実・メロロンをもてなすための、狂気に満ちた『VIPルーム』だった。
「はぁ……はぁ……幸彦……待たせたわね……っ」
深夜。
妻の恵が、息を切らしながらハウスへと駆け込んできた。
普段の彼女なら絶対にしないような、派手な赤い口紅を引き、タンスの奥から引っ張り出してきた時代遅れのパーティードレスを着飾っている。
その両手には、ポポロ村の農業ギルドでも滅多にお目にかかれない、超高級な『特濃オーガニック・エルフ肥料』の樽が抱えられていた。
『めぐみ……。来てくれたんだね。待っていたよ』
ハウスの奥のクッションの上。
完熟を迎えたメロロンが、エメラルドグリーンの果肉を妖しく光らせながら、低くて甘い、極上のイケボ(幻聴)で囁きかけてきた。
「ええっ、ええっ! あなたのために、特別に取り寄せてきたのよ! これで、もっともっと立派に育ってね……っ!」
『ありがとう。でも、無理はしないでほしいな。君が苦労して手に入れた肥料だと思うと、僕、申し訳なくて……』
「そんなこと言わないで! 私は、あなたのためなら何だってできるわ!」
恵の脳内では、前髪の長いホスト風の美青年が、憂いを帯びた瞳で自分を見つめている映像が完璧に再生されていた。
『めぐみ……。君は本当に優しいね。君みたいな素敵な女性に愛されて、僕は世界一幸せな果実だよ。……さぁ、こっちにおいで』
「ああっ……幸彦ぉっ……!」
メロロンの放つ強烈なフェロモン(甘い香り)が、恵の理性を完全に焼き切る。
恵は涙を流しながら、超高級肥料をまるで『シャンパンタワー』に注ぐかのように、メロロンの足元の土へとドバドバと流し込んだ。
「(姫様から、特濃オーガニック入りましたーっ!!)」
恵の頭の中だけで、存在しないホストたちのコールが鳴り響く。
農業用のトラクターを新調するために、夫婦で何年もかけて貯めてきた定期預金。
それが今、たった一つのメロンの承認欲求を満たすための【推し活(ホス狂い)】の資金として、無惨に土の中へと消えていった。
* * *
そして、翌日の昼下がり。
恵がパート(日雇いの資金稼ぎ)に出ている隙を狙い、今度は夫の武蔵がハウスへと足を踏み入れた。
「仁美ちゃん……へへっ、今日も可愛いねぇ……」
武蔵は、普段の泥だらけの作業着ではなく、ルナミスデパートで買ってきた新品のスーツ(サイズが合っておらずダボダボ)を着て、ポマードで髪をテカテカに固めていた。
その顔は、キャバクラに通い詰める中年オヤジ特有の、だらしなく緩みきったエロティックな笑顔に支配されている。
『あーっ! むさししゃんっ! いらっしゃぁいっ♡』
メロロンの網目模様がウインクするように歪み、高くて甘いアニメ声(幻聴)が武蔵の鼓膜をくすぐる。
『ひとみ、むさししゃんが来てくれるの、ずーっと待ってたんだよ? ねぇねぇ、今日もひとみのお話、聞いてくれる?』
「おうおう、何でも聞くぞぉ! 仁美ちゃんの声を聞いてると、仕事の疲れなんて一発で吹き飛んじまうからなぁ!」
武蔵がデレデレと顔を崩しながら、メロロンの隣に腰を下ろす。
『えへへ、うれしいっ♡ あ、そうだ! むさししゃんのために、ひとみ、特別に「お酒」を作っておいたの! 飲む? 飲んでくれる?』
「おおっ! 仁美ちゃんの手作り酒か! そりゃあ嬉しいねぇ!」
ポタ、ポタタッ。
メロロンの果肉の表面から、発酵した甘い蜜(メロロン酒)が滴り落ち、武蔵が差し出したグラスに注がれる。
それを一口飲んだ瞬間、武蔵の脳天に、アルコールとフェロモンが混ざり合った強烈な快感が突き抜けた。
「くぅ〜っ!! こりゃあ美味え!! 五臓六腑に染み渡るぜぇ!!」
『やったぁ♡ ねぇねぇ、むさししゃん。もしよかったらなんだけど……ひとみのために、とびきり高い【太陽芋焼酎】、ボトルキープしてくれないかなぁ……? ダメ……?』
メロロンが、少し上目遣いになるような角度で果実を傾け、あざとい声でねだる。
「ダ、ダメなわけあるか!! よぉし、一番高いプラチナランクの焼酎を、ドンとキープしてやるぞ!!」
『わぁいっ! むさししゃん、太っ腹ぁ! 世界で一番カッコいいっ! だぁいすきっ♡』
「おおおおっ! 仁美ぃぃぃっ!!」
武蔵は歓喜の雄叫びを上げ、メロロンを抱きしめて頬擦りをした。
彼が今しがた口約束で溶かした資金は、来年の種籾を買うための、農家にとっての生命線とも言える絶対不可侵の予算だった。
だが、今の武蔵にとって、そんな将来の生活基盤など、仁美の「カッコいい」という一言の前に比べれば、路傍の石以下の価値しかなかった。
同じ空間。同じ一つのメロン。
だが、夫婦は互いの時間をズラし、それぞれの理想の幻覚を投影することで、完全に【ホストクラブ】と【キャバクラ】の底なし沼へと沈んでいったのだ。
* * *
その日の夜。
泥沼家の食卓は、異常な静寂に包まれていた。
グゥゥゥゥ……。
リビングの椅子に座る武蔵の腹の虫が、悲痛な音を立てて鳴る。
目の前のテーブルに置かれているのは、おしどり夫婦だった頃の温かい手料理ではない。
昨日までの「冷めた惣菜」すら、そこにはなかった。
置かれているのは。
茶碗に盛られた、カチカチの【生米(米麦草)】。
そして、コップに注がれた【水道水】。
ただそれだけだった。
「…………恵。なんだ、これは?」
武蔵が、生米を見つめながら、感情の抜け落ちた声で尋ねた。
「見ればわかるでしょ。生米とお水よ」
対面に座った恵は、派手なドレスを着たまま、悪びれる様子もなく答えた。
「私、料理を作る時間なんてないのよ。それに、食費(予算)ももう1Gも残ってないわ。
今日、幸彦のために『特濃オーガニック肥料』を全部注ぎ込んできたからね。だから、しばらくの間、うちの食事はずっとこれよ」
妻からの、完全なる育児(夫)放棄宣言。
そして、生活費の全額横領の告白である。
本来の武蔵であれば、激怒してちゃぶ台をひっくり返し、大喧嘩に発展していただろう。
農家にとって、食は命だ。それを蔑ろにするなど、絶対に許されることではない。
だが。
今の武蔵の脳髄もまた、メロロンのフェロモンによって完全に狂わされていた。
「……ふっ」
武蔵は、怒るどころか、フッと自嘲気味な笑みを漏らした。
「そうか。……ちょうどよかったぜ」
「あら? 怒らないの?」
恵が意外そうに眉を上げる。
「怒るわけねぇだろ。俺の腹と心はな、昼間に仁美ちゃんが注いでくれた『特製メロロン酒』で、もう十分に満たされてるんだよ。
お前の作った飯なんて、もう必要ねぇ。俺も今日、来年の種籾の予算を全部使って、仁美ちゃんのために一番高い酒をボトルキープしてきたからな」
「……あ、そう。それは重畳ね。私も、あなたが何にお金を使おうと、もう知ったことじゃないわ」
「俺もだ。お前がどんなホスト(幸彦)に貢ごうが、俺には関係ねぇ。俺には仁美ちゃんがいれば、それでいい」
ガリッ、ボリッ。
武蔵が、手づかみで生米を口に運び、無表情に噛み砕く。
恵もまた、コップの水道水を優雅なワインのように傾け、生米をボリボリと咀嚼した。
「幸彦……ああっ、幸彦ぉ……♡」
「仁美ちゃん……明日は同伴(畑の散歩)しようねぇ……♡」
薄暗いリビングに響く、硬い米を噛み砕く無機質な音。
それとは対照的に、二人の顔には、麻薬に溺れたような【至上の幸福】の笑みが浮かんでいた。
食事という人間の根源的な営み(尊厳)すらも捨て去り。
貯蓄を食いつぶし、互いの存在価値すらも否定し合う。
かつてポポロ村で一番の「おしどり夫婦」と呼ばれた泥沼家は。
たった一つの魔性のメロンがもたらした疑似恋愛の前に、最悪の形で【絶対的な破滅】を迎えようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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