EP 3
成長期の分裂〜「幸彦」と「仁美」〜
泥沼夫妻が、畑で見つけた奇妙なメロン――『ベビーメロロン』を自宅に持ち帰ってから、わずか数週間が経過した。
メロロンの成長速度は、異常だった。
最初はソフトボール程度だった果実は、またたく間に人間の頭ほどの大きさに膨れ上がり、見事なエメラルドグリーンの網目模様を形成した。
そして、それと比例するように、果実から放たれる『甘い香り』は日を追うごとに濃度を増し、今や泥沼家のリビングは、高級クラブのVIPルームのようなむせ返るような芳香に満たされていた。
【完熟】のフェーズを迎えたメロロンは、もはや「ママ、パパ」と泣きじゃくるだけの無力な果物ではなかった。
自らの意思でぽよんぽよんと跳ねるように移動し、ターゲットの深層心理(欲望)を読み取り、最適な声と態度で『極上の癒やし(洗脳)』を提供する――恐るべき【疑似恋愛(水商売)特化型】の魔物へと進化を遂げていたのだ。
* * *
「ただいま……。おおーい、恵。今日の夕飯はなんだ?」
すっかり日が落ちた頃。
泥沼武蔵は、泥だらけの長靴を脱ぎ捨て、重い足取りでリビングへと入ってきた。
以前の武蔵であれば、日が暮れるまで畑仕事に精を出すのが日課だった。しかし最近は、早く家に帰って『あの愛しいメロン』の顔を見たいがために、農作業を早々に切り上げるようになっていた。
それでも、体を動かせば腹は減る。武蔵の頭の中は、愛妻・恵が作ってくれる、温かくて美味しい手料理のことでいっぱいだった。
「恵ー? 腹ペコだぞ。今日はシチューか? それとも……」
武蔵が食卓に目を向けた瞬間。
彼の言葉は、ピタリと途切れた。
テーブルの上にあったのは、湯気を立てる手料理ではなかった。
プラスチックのパックに入ったままの『冷めきったコロッケ(半額シール付き)』と、水気の飛んだ『マカロニサラダ(30%引きシール付き)』、そして、茶碗に雑に盛られた白米だけだった。
「……恵。なんだ、これは?」
武蔵が、信じられないものを見る目で尋ねる。
「あら、ごめんなさいね。お帰りなさい」
キッチンから出てきた恵は、エプロンも着けず、なぜかほんのりと頬を紅潮させ、夢見るようなとろけた瞳をしていた。
「今日はちょっと、夕食の支度をする時間がなくって。スーパーのお惣菜で我慢してくださいね」
「時間がないって……お前、今日は一日ずっと家にいたじゃないか。体調でも悪いのか?」
「いいえ、すっごく元気よ! ただ……【幸彦】のお世話をしてたら、あっという間に時間が過ぎちゃって♡」
恵が、両手を頬に当ててうっとりとため息をつく。
「……ゆき、ひこ?」
武蔵は眉をひそめた。
「そうよ、幸彦! 私たちの可愛い可愛いメロンちゃん!
あの子ったら、私が水をあげようとしたら、『恵……いつも僕のために、ありがとう。今日はすごく疲れてるんじゃない?』って、私の手を優しく包み込んでくれたのよ!」
恵の脳内では、完璧な情景が再生されていた。
メロロンの網目模様が、まるでイケメン俳優の流し目のように歪み、低くてセクシーな男の声で囁きかけてきたのだ。
『君の荒れた手を見るたびに、胸が痛むよ。今日はもう何もしなくていい。僕が、君を癒やしてあげるから……』
そう言って、メロロンは自らの果肉をブルブルと震わせ、恵の肩に乗って極上のマッサージまで施してくれたのである。
「もう……幸彦ったら、本当に優しくて、大人なんだから♡ あんな甘いセリフ、あなたからは一度も言われたことないわ!」
恵が、少女のようにキャピキャピとはしゃぐ。
しかし。
その言葉を聞いた武蔵の顔色は、みるみるうちに険しくなっていった。
「……おい、恵。お前、疲れて幻聴でも聞いてるんじゃないのか?」
「はぁ? 幻聴ですって?」
恵がムッとして武蔵を睨む。
「幸彦なんて男、うちにはいねぇ! あのメロンの名前は【仁美】だ!!」
武蔵が、テーブルをバンッ! と叩いて怒鳴った。
「仁美ぃ!? 誰よその女!!」
「俺たちの可愛い娘に決まってるだろ!!」
武蔵の脳内でもまた、全く別の情景が再生されていた。
昼間、武蔵がこっそり畑から戻ってメロンの様子を見に行った時のことだ。
メロロンはぽよんっと跳ねて武蔵の膝に乗り、高くて甘い、人気アイドルのようなアニメ声で囁きかけてきたのである。
『むさししゃん……おかえりなさいっ♡ 今日もいーっぱい働いて、えらいえらいっ! むさししゃんの大きな背中、ひとみ、だぁいすきっ♡』
そう言って、メロロンは網目模様をウインクするように歪ませ、武蔵の頬にすりすりと甘い果汁の匂いを擦り付けてきたのだ。
「仁美はな、俺が疲れて帰ってきたら『無理しちゃだめだよ?』って、健気に俺を気遣ってくれる、宇宙一可愛い女の子なんだよ!
それをお前、幸彦だぁ? どこぞのホストみたいな名前で呼びやがって!!」
武蔵が顔を真っ赤にして反論する。
「なっ……! ホストですって!? 幸彦はそんなチャラチャラした男じゃないわ!
大体、仁美って何よ! そのメロンは『男の子』よ! 私を女として扱ってくれる、立派な紳士なんだから!!」
「ふざけるな! あれはどう見たって『女の子』だ! 俺を慕ってくれる、可愛くて従順な天使だ!!」
「「…………!!」」
バチバチバチッ!!
泥沼家のリビングで、長年連れ添ったおしどり夫婦の視線が、かつてないほどの鋭い殺意を伴って激突した。
メロロンの恐るべき真の能力。
それは、ターゲットとなる人間の性別や欲求に合わせて、自らの声や性格、果ては性別の認識すらも『幻覚』として完全に使い分けることだった。
恵にとっては、孤独と女としての承認欲求を満たしてくれる、完璧な【担当ホスト】。
武蔵にとっては、男としてのプライドと庇護欲を満たしてくれる、完璧な【指名キャバ嬢】。
たった一つのメロンを巡って、夫婦は互いに「自分の幻覚(都合の良い理想)」を真実だと信じ込み、真っ向から衝突してしまったのだ。
「お前……まさか、俺の可愛い仁美を、変な目で見ているんじゃないだろうな!?」
武蔵が、恵を泥棒でも見るような目で警戒する。
「それはこっちのセリフよ! あなたこそ、私の幸彦に気安く触らないでちょうだい! 幸彦が穢れちゃうわ!」
恵も負けじと、エプロンを握りしめて怒鳴り返す。
「もういい! お前みたいな幻覚女の作った半額惣菜なんて、誰が食うか! 俺は仁美のところに行ってくる!」
「ええ、どうぞご勝手に! 私も幸彦と二人きりで、夜のティータイム(同伴)を楽しむんだから!」
バンッ!!
バタンッ!!
武蔵と恵は、互いに背を向け、冷めきったコロッケが残された食卓を放置したまま、別々の部屋へと嵐のように去っていった。
ポポロ村が誇る、結婚20年目のおしどり夫婦。
その鉄の絆は、たった一個の『魔性のメロン』がもたらした疑似恋愛(水商売)のトラップによって、いとも容易く、そして修復不可能なレベルでヒビ割れてしまったのだった。
そして、この泥沼家で起きた悲劇(NTR論争)は、ルナがばら撒いた種によって、ポポロ村の全農家へとパンデミックのように拡大していく運命にあった。
読んでいただきありがとうございます。
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