EP 2
泥沼夫妻のほのぼの農業と、「ママ、パパ」の呪い
ルナミス帝国と獣人王国の緩衝地帯に位置する、のどかな開拓村――ポポロ村。
この村の農業区画は、年間を通して温暖な気候と豊かな土壌に恵まれ、『太陽芋』や『月見大根』など、数々の特産品を生み出している。
そのポポロ村の農家の中でも、ひときわ周囲から羨望の眼差しを集めている夫婦がいた。
泥沼武蔵(どろぬま・むさし/50歳)と、その妻の恵(めぐみ/45歳)である。
「おおーい、恵。休憩にするぞ。冷たい『陽薬草茶』でも飲もうや」
「はいはい、あなた。今行きますわ」
麦わら帽子を被り、日に焼けた屈強な腕で鍬を振るう武蔵に、手ぬぐいを首に巻いた柔和な笑顔の恵が水筒を差し出す。
泥沼夫妻は、ポポロ村の誰もが認める『おしどり夫婦』だった。
結婚して20年以上、一度も大きな喧嘩をしたことがない。
唯一の心残りは、二人の間に『子宝』が恵まれなかったことだが、それゆえに夫婦の絆は誰よりも強く、互いを労わり合いながら、まるで実の子供のように丹精込めて農作物を育ててきたのだ。
「ふぅ……美味え。やっぱり恵の淹れた茶が、世界で一番だな」
「もう、あなたったら大袈裟ね。ふふっ」
木陰で肩を寄せ合い、穏やかな笑い声を上げる二人。
この日も、泥沼家の畑には、平和で愛に満ちた日常が流れている――はずだった。
* * *
「あら?」
休憩を終え、畑の隅にある『太陽芋』の畝の手入れをしていた恵が、ふと手を止めた。
土と草の匂いに混じって、どこからか、甘く芳醇な香りが漂ってきたのだ。
「おかしいわね。うちの畑に、こんな甘い匂いのする作物は植えていないはずだけれど……」
恵は香りの元を辿り、防風林の近くの茂みをかき分けた。
そこには、ソフトボールほどの大きさの、見事な網目模様が入ったエメラルドグリーンの【メロン】が、ぽつんと一つだけ実をつけていた。
「まぁ……! なんて綺麗なメロン……。野良メロンかしら? 鳥が種を運んできたのね」
ポポロ村では通常、気候の問題でメロンは育たない。
だが、誰か(純白のドレスのエルフ)が数日前に、この近くで『善意の種まき』をしたことなど、恵が知る由もなかった。
恵は、愛おしむようにそっと両手でそのメロンを包み込み、持ち上げた。
ズシリとした重みと、手のひらから伝わってくる微かな温もり。そして、鼻腔をくすぐる、脳髄を直接とろけさせるような極上の甘い香り。
その時だった。
『……ま、ままぁ?』
「……えっ?」
恵の心臓が、ドクンッと大きく跳ねた。
聞き間違いではない。今、確かに『声』が聞こえた。
それも、舌ったらずで、か弱くて、無垢な――人間の『赤ちゃん』そっくりの声が。
恵が恐る恐る手元のメロンを見つめると、網目模様の一部がムニュッと変形し、つぶらでウルウルとした愛らしい『二つの瞳』と、小さな『口』が浮かび上がっていた。
『まま……だっこ……』
「ひっ……!? しゃ、喋った……!? あ、あなたが喋ったの!?」
恵は驚きのあまり、悲鳴を上げてメロンを取り落としそうになった。
だが、その瞬間。
『う、うぇえええええんっ!! こわいよぉぉぉっ!! まま、ままぁぁっ!!』
メロン――『ベビーメロロン』が、瞳から大粒の涙(果汁)をボロボロとこぼし、この世の終わりかのように甲高い声で泣き叫び始めたのだ。
「ああっ……! ご、ごめんなさい! ごめんなさいね、怖がらせるつもりはなかったのよ!」
その純粋な赤ちゃんの泣き声を聞いた瞬間。
恵の脳内から「喋る植物に対する恐怖心」が完全に吹き飛び、代わりに、長年抑え込んできた【母性本能】が爆発的な勢いで溢れ出した。
恵は慌ててメロロンを胸に抱き寄せ、その滑らかな表面を優しく撫でさすった。
「よしよし、もう怖くないわよ。ごめんね、痛くなかった? ほーら、いい子だから、泣き止んでね……」
『ひっく……まま……?』
「ええ、そうよ。私が、あなたのママよ……」
メロロンの放つ極上の甘い香りが、恵の思考力をフワフワと溶かしていく。
冷静な判断力はすでに失われ、恵の目には、この奇妙な植物が『自分が腹を痛めて産んだ、愛しい我が子』にしか見えなくなっていた。
「おい、恵! どうしたんだ、大きな声を出して!」
異変に気付いた夫の武蔵が、鍬を放り出して走ってきた。
「あなた! 見て、この子……このメロンが、喋ったのよ!」
「はぁ? メロンが喋るわけ……うおっ!?」
武蔵が目を丸くして立ち止まる。
恵の腕に抱かれたメロロンが、今度は武蔵の方をウルウルと見つめ上げた。
『ぱぱ……?』
「…………っ!!」
武蔵の屈強な身体に、稲妻のような衝撃が走った。
50年間、男手一つで荒れ地を開拓してきた頑固な農家の親父。だが、その胸の奥底には、「いつか自分の子供に『パパ』と呼ばれたい」という、叶わぬ夢が密かに眠り続けていたのだ。
『ぱぱぁ……! すき……。ありがとう……ぱぱ……まま……!』
ベビーメロロンが、満面の笑み(のような網目模様の歪み)を浮かべ、二人にすりすりと甘えるように身をよじった。
「なんて……なんて可愛いんだ……」
武蔵は、無骨で泥だらけの大きな手で、壊れ物を扱うようにそっとメロロンを撫でた。
「あなた……。私を、ママって言ってくれたの。子供に恵まれなかった私に、この子が……ママって……!」
恵の両目から、感動の涙がとめどなく溢れ落ちる。
「ああ……そうだな。神様が、俺たち夫婦に授けてくれた宝物(奇跡)に違いねぇ」
武蔵は恵の肩を抱き寄せ、メロロンを二人で挟み込むようにして愛おしそうに見つめた。
「よぉし、決めたぞ。今日からお前は俺たちの子供だ。パパとママが、大切に、立派に育ててあげるからな!」
『うれしい……! ずっと、いっしょ……!』
泥沼家の畑に、家族の温かい笑い声と、感動の涙が交差する。
傍から見れば、それはとても美しく、心温まるヒューマンドラマの1シーンだった。
――だが。
彼らは知らなかったのだ。
ポポロ村の農業組合が定める、『未知の魔法植物(特に甘い香りを放つもの)を扱う際の絶対の鉄則』を。
すなわち、【専用の防毒マスクと、高機能な耳栓を必ず装着すること】。
メロロンの放つ『チャーム(魅了)』のフェロモンは、人間の【承認欲求】と【庇護欲】をピンポイントで刺激し、脳の報酬系を完全にハッキングする劇薬である。
一度でもその声(甘え)に絆され、香りを直接肺に吸い込んでしまえば、もう二度と正常な判断力(倫理観)を取り戻すことはできない。
「ふふっ。さぁ、お家に帰りましょうね。今日はママが、あなたのために特別なお水を用意してあげるわ♡」
「俺は、こいつのために、畑の一番日当たりのいい場所に専用のハウスを建ててやるぞ!」
泥沼夫妻は、鍬も、手入れの途中だった太陽芋も、すべてを畑に放置したまま。
ただ一つのメロンだけを大事に抱きかかえ、足取りも軽く家へと帰っていった。
それが、ポポロ村が誇る最高のおしどり夫婦の、長く、そして泥沼のような【仮面夫婦】への破滅の始まりであることに、二人はまだ気づいていなかった。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




