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EP 5

公園デビュー。天極流は「ハイハイ」から始まる

生後1年6ヶ月。

俺ことリアン・クラインは、順調に、そして驚異的なスピードで成長していた。

理由は2つある。

1つは、母マリアが毎日欠かさず注ぎ込んでくる『回復魔法』という名の過剰ドーピング。細胞レベルで活性化された俺の肉体は、同年代の赤ん坊とは比べ物にならないほどの骨密度と筋繊維を獲得していた。

2つ目は、俺が『善行型ネット通販』でこっそり購入している、地球産の極上無添加ベビーフードと栄養補助食品による完璧なマクロ栄養素の摂取である。

結果として、俺は1歳半にして既にしっかりとした足取りで歩行が可能になり、その気になれば小走りすらできる身体能力を手に入れていた。

だが、俺は基本的には『ハイハイ』を多用している。

なぜなら、歩くよりも四つん這いの方が空気抵抗が少なく、重心が低いため転倒リスクがゼロで、何より『怠けている赤ん坊』に見えるからだ。

有能であることを隠し、ローコストでスローライフを送る。それが俺の基本戦略である。

そして今日。俺は母マリアに抱かれ、ルナハンにある大きめの公園へとやってきていた。

いわゆる『公園デビュー』というやつだ。

「さぁ、リアン。お友達がいっぱいいるわよ。一緒に遊んできなさい」

マリアに砂場へと下ろされる。

周囲には、ルナハンに住む奥様方と、その子供たち(1歳〜4歳くらい)がひしめき合っていた。

ルナハン騎士団長の妻であり、元A級冒険者、そして絶世の美女であるマリアが登場したことで、奥様方の間に目に見えない緊張感と歓声が広がった。

「まぁ、マリア様! 今日はリアン君もご一緒なのね!」

「なんて可愛らしい……お人形さんみたい!」

マリアが奥様方のコミュニティ(いわゆるママ友カーストの頂点)に笑顔で迎え入れられる中、俺は一人、砂場の中央に陣取った。

周囲でよだれを垂らしながら泥団子を作ったり、意味もなく叫びながら走り回ったりしている幼児たちを、俺は冷徹な簿記1級の視点で観察した。

(……まるで統率の取れていない繁忙期の厨房だな)

彼らの行動には論理がない。目的もない。ただ本能の赴くままにエネルギーを浪費している。

俺はあんな無駄なカロリー消費はしない。

砂場に置かれていた木のブロックを一つ引き寄せると、それをただ無心で眺めることにした。

何もしない。これこそが究極のコスト削減である。

しかし、平和な時間は長くは続かなかった。

「おい、おまえ! それ、オレのだぞ!」

頭上から、乱暴な声が降ってきた。

見上げると、小太りでガキ大将のような面構えをした3歳くらいの男児が、俺を見下ろしていた。

彼の手には泥が握られており、俺がキープしていた綺麗な木のブロックを奪おうとしているらしい。

(やれやれ……どこの世界にも、新入りにマウントを取りたがるウザい先輩はいるもんだ)

俺はブロックをひょいと背後に隠した。

俺の物だ、という意思表示である。

「あっ! なまいきだぞ、おまえ!」

ガキ大将が顔を真っ赤にして怒った。

3歳児とはいえ、1歳半の俺からすれば体重も身長も倍近い体格差がある。

彼が両手を突き出し、俺を力任せに突き飛ばそうと突進してきた。

(チッ……面倒な)

その瞬間だった。

俺の脳裏に、前世の記憶が鮮明にフラッシュバックした。

『優也! 将軍たる者、いかなる体勢からでも敵の機先を制せねばならん! 歩法は小笠原流! 受けは関口流! 丹田に気を落とし、柳の如く力を流せ!』

俺の祖父、武信たけのぶの怒鳴り声だ。

祖父は重度の歴史マニアであり、特に徳川吉宗を崇拝していた。その結果、剣、槍、弓、組手を合わせたハイブリッドな架空の総合武術『天極流』を独自に体系化し、俺に幼少期から叩き込んだのだ。

『じいちゃん、俺は料理人になるんだよ! 将軍になる予定はないし、令和の時代に真剣白刃取りなんて使わないから!』

『馬鹿者! 厨房も戦場ぞ! 刃物を扱う者が体捌きを知らんでどうする!』

そんな無茶苦茶な理屈で、俺は来る日も来る日も投げられ、受け身を取らされ、歩法を仕込まれたのだ。

今思えば、あの理不尽極まりない特訓が、まさか異世界の砂場で役立つ日が来るとは思わなかった。

ガキ大将の丸太のような両腕が、俺の肩を突き飛ばそうと迫る。

マリアや周囲の奥様方が「あっ!」と悲鳴を上げるのが聞こえた。

だが、俺の体は思考よりも先に、完全に無意識下で『天極流』の理合を再現していた。

俺はハイハイの姿勢(四つん這い)のまま、右の手のひらを砂に滑らせ、自身の重心を極限まで下(丹田)に落とした。

小笠原流の歩法を応用した、完璧な『入り身』の体勢。

そして、俺の肩に触れようとしたガキ大将の手首に、左手をふわりと添える。

力は一切入れない。

ただ、関口流の『柔の受け』を用いて、彼自身の突進するエネルギーのベクトルを、ほんの数ミリだけ外側へと円を描くようにズラしてやったのだ。

「え……?」

ガキ大将の顔から、怒りが消え、呆然とした表情に変わった。

彼が俺を押そうとした力は、俺の体に触れることなく虚空へと流れ、彼自身の体重が前方への推進力となって暴走した。

いわゆる『合気』の原理である。

ゴロンッ!

ガキ大将は、俺の横を勢いよくすり抜け、そのまま砂場の端っこに積まれていた砂山へと、見事な放物線を描いてダイブした。

怪我はない。ただ、綺麗に一回転して砂まみれになっただけだ。

「…………へ?」

公園全体が、水を打ったように静まり返った。

奥様方が、信じられないものを見るような目で俺を見つめている。

「い、今……何が起きたの?」

「ボイデン君(ガキ大将)が突き飛ばそうとしたら、リアン君がちょっと動いて……ボイデン君が勝手に転がってったわよ?」

「あ、あの動き……まるで達人のような体捌きだったんじゃ……」

(しまった!)

俺は内心で舌打ちをした。

前世で体に染み付いた武術の癖が、思わず出てしまった。

ハイハイの姿勢から見事な合気投げを決める1歳半児など、どう考えても異常だ。これでは「神童だ!」「騎士団に入れろ!」と面倒なフラグが立ってしまう!

「う……うわああぁぁぁぁん!!」

砂まみれになったガキ大将が、遅れて事態を把握し、大声で泣き出した。

その泣き声でハッと我に返った俺は、すぐさま『1歳半の赤ん坊』の顔面筋を構築した。

「あーう? あうあう?」

(あれー? お兄ちゃん、どうして急に転んじゃったのー? ぼくわかんなーい)

両手を不思議そうにパタパタとさせ、コテンと首を傾げる。

あざとさ100%の、純真無垢なベビー・スマイル。

「あらあら!」

そこへ、母マリアが慌てた様子で駆け寄ってきた。

マリアは俺をひょいと抱き上げると、俺の体をくまなくチェックした。

「リアン、怪我はない!? びっくりしたわね。ボイデン君、いきなり走ってくるから転んじゃったのね。リアンも上手に避けられてえらいわ」

……どうやら、マリアの『親バカフィルター』にかかれば、今の完璧な天極流の体捌きも「たまたま運良く避けられた」という風に脳内変換されたらしい。

『ピロリン♪』

【システム:無駄な争いを回避し、怪我人を出さずに事態を収拾しました。+10pt】

【現在の善行ポイント:65pt】

脳内に鳴り響く、善行ポイント獲得のファンファーレ。

ガキ大将を怪我させなかったことが『善行』としてカウントされたらしい。

ポイントが貯まるのは嬉しいが、心臓には悪い。

(いかんいかん。いくらドーピングされていても、目立てば面倒事が増えるだけだ。これからは、もっと徹底的に『普通の無能な赤ん坊』を演じなければ……)

俺はマリアの豊かな胸に顔を埋めながら、スローライフを守るためのステルス性能をさらに高めることを、砂場の中心で固く誓ったのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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