EP 2
おむつ替えの屈辱と、簿記1級の「損益分岐点」
目を覚ますと、視界が異様にぼやけていた。
体を動かそうにも、手足が鉛のように重い。いや、重いというより「自分の体の動かし方がまるで分からない」という表現が正しい。
「あー、うー」
声を出そうとすれば、間抜けな破裂音が漏れるだけだ。
状況を完全に把握するのに数分を要したが、俺の優秀な脳細胞(前世で過酷な三ツ星厨房を生き抜いたハイスペック)は、直ちに一つの残酷な結論を導き出した。
俺は、赤ん坊になっている。
あの、芋ジャージ姿でタバコを吹かしていた残念な女神・ルチアナの放った『健康サンダルキック』は、決して過労が見せた幻覚などではなかったのだ。
(マジかよ……本当に転生したのか)
絶望と安堵が入り交じる中、俺の腹部から下にかけて、ある『異変』が起きた。
じわぁっ、という生温かい感覚。
それが数秒後には、急速に冷えて不快感へと変わっていく。
(なっ……!?)
前世では25歳。三ツ星フレンチの副料理長まで務め上げた俺のプライドが、その現象の正体を認めることを強烈に拒絶していた。
だが、赤ん坊の未発達な膀胱の括約筋など、俺の意志でどうにかなるものではない。
つまり、俺は……盛大にお漏らし(オムツ内で)をしてしまったのだ。
「あー! うぁぁぁぁっ!」(やめろ! 俺の尊厳! 誰か、早く処理してくれ!)
不快感と羞恥心から、俺は本能的に泣き声を上げていた。赤ん坊の体は、感情と行動が直結しているらしい。我慢するという理性が全く働かない。
その泣き声を聞きつけて、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「どうしたの、リアン? あらあら、おむつが気持ち悪かったのね」
覗き込んできたのは、息を呑むほど美しい女性だった。
透き通るような銀糸の髪をふわりと揺らし、慈愛に満ちた瞳で俺を見つめている。年齢は30歳前後だろうか。前世で何度かお目にかかったハリウッド女優すら霞むほどの美貌だ。
彼女――マリア・クラインは、俺の今世の母親らしい。
マリアは手慣れた様子で俺を抱き上げると、ベビーベッドの上でオムツを外しにかかった。
(ちょ、待っ、ストォォォォップ!!)
俺の精神年齢は立派な成人男性だ。絶世の美女に下半身を丸出しにされ、あまつさえ綺麗に拭き取られるなど、羞恥プレイ以外の何物でもない。
「ふふっ、元気な証拠ね。ほーら、綺麗になったわよ」
「あー……うー……」(殺してくれ……)
完全に心が折れ、前世の尊厳という名の魂が口から抜けかけていたその時、部屋の頑丈なオーク材の扉がバンッと乱暴に開いた。
「マリア! リアンが泣いている声が聞こえたぞ! 腹でも空かせたか!?」
現れたのは、熊のように大柄で筋骨隆々な男だった。
精悍な顔つきに、歴戦の戦士を思わせる鋭い眼光。放たれる圧倒的な覇気(どうやら闘気というらしい)は只者ではない。だが、俺を見るその目は、完全にだらしなく垂れ下がっていた。
彼――アークス・クラインは、俺の今世の父親だ。
「もう、アークス。声が大きいわ。リアンがびっくりしちゃうでしょ? 今、おむつを替えてすっきりしたところなの」
「おお、そうかそうか! さすが俺の息子だ、立派なものを出しているな! ガッハッハ!」
(どこが立派なんだよ……アンタの息子、中身は精神崩壊寸前の25歳だぞ)
アークスは巨大な手で俺を抱き上げ、無精髭の生えた頬をすりすりとしてきた。痛い。ジョリジョリする。
だが、この両親から向けられる視線には、疑いようのない『絶対的な愛情』が満ち溢れていた。
俺の名前は、リアン・クライン。
どうやらそれが、この世界での俺の新しいアイデンティティらしい。
両親が去り、ベビーベッドに一人残された俺は、冷静に現状を分析することにした。
おむつを替えられた精神的ダメージは甚大だ。前世の同僚たちに見られたら、確実に腹を切って詫びるレベルの屈辱である。
だが、ここで俺の脳内に染み付いた『簿記1級』の思考回路が、カチャカチャと弾かれた。
料理人にとって、コスト管理は味と同じくらい重要だ。俺は厨房の裏で、常に店の売上と経費のバランス(損益分岐点)と睨み合ってきたのだ。
(待てよ……今の俺の状況を、財務諸表に落とし込んでみたらどうなる?)
脳内の黒板に、貸借対照表と損益計算書を描き出す。
まず、『売上(利益)』。
衣食住は完全無料。家賃ゼロ、光熱費ゼロ、食費(ミルク代)ゼロ。
さらには、何もしなくても無条件で注がれる両親からの絶対的な愛情と保護。この家がかなり裕福であることも、家具の設えから見て取れる。
次に、『経費』。
労働力……ゼロ。俺は寝て泣くだけだ。仕込みも発注もクレーム対応もない。
固定費……ゼロ。
人間関係のストレス……ゼロ。理不尽な料理長もいない。
では、先ほどの『おむつ替えの屈辱』は何に分類されるか?
(あれは……ただの『減価償却費』、あるいは『必要経費』に過ぎない!)
そう、前世のプライドや尊厳など、利益を生み出さない不良債権だ。
無償の愛と完全な保護という莫大なリターンを得るための、ごく僅かな手数料。
損益分岐点などとうの昔に突破している。これは『圧倒的な黒字(利益率100%)』だ!
「あーっ! ぶー!」(最高じゃないか!)
俺は歓喜の声を上げた。
前世で血を吐くようなブラック労働を強いられてきた俺にとって、この赤ん坊というポジションは、まさに神が与え賜うた究極の『スローライフ・プラットフォーム』である。
一生、親のすねをかじって生きていきたい。
ニート最高。ヒモ生活バンザイ。
あのふざけた芋ジャージの女神には腹が立つが、この優良物件(クライン家)に転生させてくれたことだけは素直に評価してやろう。
俺がベッドの上でガッツポーズ(傍から見れば手足をバタバタさせているだけ)をしていると、不意に脳内に無機質な声が響いた。
『ピロリン♪』
【システム:おむつ替えを大人しく受け入れました。善行として記録します。+5pt】
(……ん?)
視界の隅に、ホログラムのような半透明のウィンドウが浮かび上がった。
そこには【現在の善行ポイント:5pt】と表示されている。
(あ……そういえば、あの女神が言ってたな。『善行型ネット通販』スキルだって)
試しに脳内で『ショップを開く』と念じてみる。
すると、目の前に前世で見慣れた大手インターネットショッピングサイトに酷似した画面が現れた。
画面には、水、お菓子、日用品、さらには調味料まで、地球のアイテムがズラリと並んでいる。
価格を見ると、どうやら「1ポイント=1円」のレートらしい。5ポイントでは、小さな個包装のケチャップか、駄菓子の飴玉くらいしか買えない。
(……なるほど。赤ん坊にとっての『善行』ってのは、親の手を煩わせないことや、愛嬌を振りまくことってわけか)
俺はニヤリと笑った(赤ん坊の顔で)。
料理人時代、客の喜ぶ顔を引き出すための『ホスピタリティ』には自信がある。
両親を喜ばせる程度のムーブなど、三ツ星の接客術を応用すれば造作もないことだ。
この無敵の赤ちゃん環境で、良い子を演じて善行ポイントを荒稼ぎし、ネット通販で快適なグッズを取り寄せる。
そして、一切働かずに、悠々自適な究極のスローライフを完成させるのだ。
俺の華麗なる第二の人生は、お漏らしの屈辱という『初期投資』を乗り越え、最高の黒字スタートダッシュを切ったのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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