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EP 2

前世は三ツ星シェフ、現世は無力な赤子。立ちはだかる『親バカ』と『生理現象』の壁

「あー、あー、うー(勘違いしないでいただきたい。ファンタジー小説の『赤ちゃん転生』というのは、決して甘いものではない)」

転生して数ヶ月。

俺、青田優也改め、リアン・クライン(生後約半年)は、ベビーベッドの上で天井の木目を見つめながら、深い絶望と戦っていた。

前世の記憶を持ったまま赤ん坊からやり直す。

言葉だけ聞けば、「周りの大人より賢くてチート無双の準備ができるボーナスタイム」だと思うかもしれない。俺も最初は少しだけそう思っていた。

だが、現実は違った。圧倒的に、物理的に、残酷なまでに『赤ん坊の身体』という檻に囚われているのだ。

まず、首が座るまで視界が固定される。寝返りを打とうにも、自分の頭が重すぎてボーリングの球を首の上に乗せているような感覚に陥る。

かゆいところがあっても腕が短すぎて届かない。

何より恐ろしいのは、25歳の成人男性としての強靭なメンタルや、三ツ星レストランの過酷な厨房を生き抜いた精神力があったとしても、『赤ん坊の生理現象』には一切逆らえないということだ。

眠気を我慢して夜の静寂の中で魔力循環のイメージトレーニングをしようとしても、脳が「はい、成長ホルモン出す時間でーす! 強制シャットダウン!」とばかりに意識を刈り取っていく。

起きたら起きたで、今度は胃袋が「空腹です! 緊急事態! 泣かないと死にます!」とサイレンを鳴らす。俺の25歳のプライドが「泣くな、みっともない」とブレーキをかけても、声帯が勝手に「オギャアアアア!」と泣き声を上げてしまうのだ。

「おお! リアンが泣いてるぞ! 俺の可愛い息子よ、どうした! パパが魔物でも倒してこようか!?」

ドタドタドタッ! と、家を揺らすような足音とともに、一人の大男が飛び込んできた。

俺の現世の父親、アークス・クライン(30歳)である。

ルナハン騎士団の騎士団長であり、元A級冒険者。身長は優に190センチを超え、丸太のように太い腕と、歴戦の猛者であることを証明する無数の傷が刻まれた逞しい肉体を持っている。

そのいかつい顔をデレデレに崩し、俺の顔を覗き込んでくる。

「あなた、声が大きすぎるわ。リアンがびっくりしちゃうじゃない」

続いて部屋に入ってきたのは、俺の母親であるマリア・クライン(30歳)だ。

元A級冒険者の『賢者』であり、今は引退して専業主婦をしている。亜麻色の髪をふわりと揺らし、慈愛に満ちた笑顔を浮かべるその姿は女神のようだ。いや、あのコタツ部屋で芋ジャージを着ていた本物のダメ女神ルチアナなんかより、よっぽど神々しい。

「おお、すまんすまん。だがマリア、見てくれ! この泣き顔! 肺活量が凄まじいぞ! 流石は俺たちの息子、将来は間違いなく俺を超える大剣豪になるな!」

「ふふっ、そうね。でも、この子は魔力の波長もすごく綺麗なのよ。きっと私以上の大魔法使いになるわ」

俺のベッドを挟んで、元A級冒険者の両親が恐ろしいレベルの親バカを炸裂させている。

……頼むからやめてくれ。俺の目標は『目立たず、美味しいご飯を作って平和なスローライフを送る』ことなんだ。大剣豪とか大魔法使いとか、そういう前線で血を流すようなブラックな職業はお断りである。前世で過労死した俺にとって、戦場などという究極のブラック労働環境に身を置く気は毛頭ない。

「よしよし、リアン。お腹が空いたのね。今日のご飯は特別よ」

マリアが優しく俺を抱き上げ、リビングへと移動する。

テーブルの上には、木製の小さな器が置かれていた。中に入っているのは、このアナスタシア世界特有の食材『太陽芋』と『ハニーかぼちゃ』を柔らかく煮てすりつぶした、手作りの離乳食だ。

俺の三ツ星シェフとしての分析回路が瞬時に起動する。

(見たところ、裏ごしの精度は悪くない。だが、ハニーかぼちゃの甘みが強すぎるせいで、太陽芋の素朴な大地の香りが殺されてしまっているな。ここはわずかに塩を加えるか、少量の動物性の出汁ブイヨンで伸ばして味に奥行きを持たせるべきだ。そもそも、素材の甘みだけに頼った構成は、食べ進めるうちに舌が疲れて……)

「はーい、あーん」

マリアが木のスプーンで、黄色いペーストを俺の口に運んでくる。

25歳の男が、母親に「あーん」をされる。しかも相手は自分よりたった5歳しか年上ではない30歳の女性だ。

羞恥心で顔から火が出そうになるが、抵抗する術はない。俺は渋々、口を開けた。

パクリ。

(……甘い。やはり塩気が足りない。食感も少しモッサリしている。プロの料理人として、この味付けには到底合格点は出せな――)

『あまくておいしゅい!! もっとくだしゃい!!』

俺の脳内のシェフがダメ出しをしている真っ最中だというのに、赤ん坊の味覚と胃袋が、凄まじい勢いでそのペーストを歓迎してしまった。

ハニーかぼちゃの強烈な甘味が、未発達な脳の報酬系をバチバチと刺激する。

「ばぶっ、あーっ!」と、俺の手が勝手に動き、もっと寄越せとスプーンをバンバン叩く。

「あらあら、美味しいのね。いっぱい食べて大きくなるのよ」

「がっはっは! 良い食いっぷりだ! 肉も食えるようになったら、極上のロックバイソンのステーキを食わせてやるからな!」

(ち、違う! 俺はこんな単調な味で満足するような三流の舌じゃないんだ! 俺は……俺は洋食系三ツ星レストランの副料理長、青田優也だぞ! こんな、ただマッシュしただけの芋とかぼちゃに屈するわけには……っ!)

パクリ。

(……う、美味い。悔しいけど、赤ちゃんの身体にはこの甘さが最高に染み渡る……っ!)

プライドと本能の狭間で、俺はポロポロと涙を流しながら離乳食を完食した。

両親は「美味しすぎて泣いてるのね」と微笑ましく見守っていたが、違う。これは敗北の涙だ。料理人としての尊厳が、赤子の本能に完全敗北した屈辱の涙なのだ。

だが、真の地獄はここからだった。

食事が終わり、満腹感に包まれてウトウトし始めた頃。

俺の下腹部で、不穏な活動が始まった。

(……来た。胃結腸反射だ)

食べ物が胃に入ったことで、腸が活発に動き出し、内容物を外へ押し出そうとする人体の自然なメカニズム。

大人であれば、なんてことはない。トイレに行けば済む話だ。

だが、今の俺は生後半年。

前世で簿記1級の資格を持ち、原価計算から在庫管理まで完璧にこなしていた俺の優秀な頭脳をもってしても、『括約筋かつやくきん』という絶対的な物理的ゲートをコントロールすることができないのだ。

(くそっ……耐えろ! 耐えるんだ俺! せめて、せめてトイレ(おまる)に連れて行ってもらうまで、第一防衛線を死守しろ!)

俺は顔を真っ赤にし、全身の筋肉(といっても大した筋肉はないが)を総動員して、迫り来る自然の摂理に抗った。

脳内で警報が鳴り響く。

『敵軍(便意)、最終防衛ラインに到達! 括約筋の耐久値、残り10パーセント!』

『司令官! これ以上はもちません! ゲートが決壊します!』

(ふざけるな! 俺は25歳の成人男性だぞ! 布のおむつの中に粗相をするなど、人間としての尊厳が完全に失われる! まだだ、まだ終わらんよ!)

俺は呼吸を止め、必死に耐えた。

だが、その異変にいち早く気づいたのは、元A級賢者である母マリアだった。

「あれ? リアン、お顔が真っ赤よ。うーんって踏ん張って……あ、もしかしてウンチかな?」

「おお! 出るか!? 良いぞリアン、思いっきり出せ! 快食快便は強い戦士の基本だからな!」

(やめろおおおお! 応援するな! 実況するな! 恥ずかしさで括約筋の力みが抜け……あっ)

プスッ。

無情にも、小さな破裂音とともに、第一防衛線はあっけなく陥落した。

じわぁ、と広がる温かい感覚と、漂い始める乳児特有の酸っぱい匂い。

終わった。

俺の人間としての尊厳、25歳の成人男性としてのプライド、その全てが、ルナハンの長閑な午後の中で完全に崩れ去った瞬間だった。

「はい、出たわねー。えらいえらい」

マリアが手際よく俺をおむつ交換台に乗せ、布おむつを解いていく。

女神のように美しい女性に、自分の排泄物を処理される。しかも「良い色ね、健康な証拠だわ」と笑顔で褒められる。

(殺してくれ……。いっそ、もう一度あの芋ジャージ女神に顔面を蹴り飛ばされて、別の世界に再転生させてくれ……っ)

「がっはっは! 見ろマリア、立派なブツだ! これは将来、大物になるぞ!」

「あなた、ご飯の後に汚いこと言わないの。でも、本当に健康で良かったわ」

俺の排泄物を見て喜ぶ両親の姿に、俺はただただ無力感に苛まれながら、虚無の瞳で天井を見つめることしかできなかった。

(……決めた。絶対に、一日でも早く自分の足で歩いて、自力でトイレに行けるようになってやる。そのためには、這いずり回ってでも身体を鍛えるしかない)

『スローライフ』などと言っている場合ではない。

俺の真の敵は、魔王でもモンスターでもなく、自分自身の『赤ん坊の生理現象』だったのだ。

俺は小さく拳を握りしめ、おむつを替えられながら、心の中で固く誓った。

早く成長して、人間としての尊厳を取り戻す。

そしていつか、両親に俺の作った本当の『三ツ星の絶品メシ』を食わせて、あの芋のペースト以上の感動を与えてやる、と。

読んでいただきありがとうございます。

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