八 置く場所
二〇〇二年の春、奉納から数か月が過ぎ、葵は販売用の赤馬の正式なパッケージを仕上げた。道の駅はその年の十一月に開業する予定だった。
赤馬を薄紙で包んで生成りの小箱に収め、その外側へ紙帯を回す。帯の表には細い朱の線と「赤馬」の二文字、その脇に小さく「倉淵塗」。箱の中に入れた二つ折りの説明紙には、匠が削った文章を葵が組み直し、「赤馬星」という名も残してある。
試作箱を持ち運んで確かめた時にも、赤馬の表面に擦れは出なかった。最初の紙帯のように硬い縁が漆へ直接触れるところはない。匠は赤馬を出し入れし、箱を閉じ、もう一度開いた。
「これなら、持って帰る時も大丈夫そうです」
「そこが最初の条件になりましたから」
葵は箱の角を指で押さえた。
「あとは、実際に売り場へ出してみないとわかりません」
匠は試作に使った漆の量を確かめ直し、椀や盆の注文を続けながら仕上げられる初回分を決めていた。木取りから仕上げまでの手順を揃え、かかった日数をもとに売価も定めた。次の分は漆の手当てがついてからとし、作業帳の空欄を埋めた。
大隅に帳面を見せると、相手は数字の入った欄を指で追った。
「売れた時に、次も同じ数が作れると思うなよ」
「わかっています。次の分は、漆の当てがついてからにします」
大隅は帳面を閉じ、何も言わずに返した。
その包装でまとまった数を客の前へ出したのは、青葉百貨店で開かれた倉淵村の催事だった。道の駅の開業に先立ち、村が産物をまとめて紹介する場で、朝採れの野菜、漬物、菓子、椀や盆が並び、その一角に赤馬も置かれた。
葵は生成りの箱を数個並べ、赤馬を一体だけ見本に出した。隣には倉淵塗の椀を置いた。
「椀も一緒に並べるんですね」
匠が言った。
「今日は赤馬の催事じゃないですから」
葵は農産物の棚を見た。
「倉淵の品物の中で、どう見えるかも見たいんです」
開店すると、最初によく動いたのは野菜だった。午前中のうちに籠が軽くなり、漬物や菓子にも人が集まった。匠は少し離れた場所からそれを見ていた。
赤馬の前にも、何人かが足を止めた。年配の女性が見本を掌に載せ、指先で背の丸みをなぞった。
「これも倉淵で作ってるの?」
「はい。倉淵塗です」
女性は隣の椀を見てから、もう一度赤馬へ目を戻した。箱の中の説明紙を読み、一つ買った。
午後には、若い夫婦が赤馬を手に取った。由来を読まず、形を気に入って買う人もいた。逆に、説明紙を最後まで読んでから箱を戻す人もいた。
農産物ほど売れたわけではない。それでも赤馬は、倉淵の品物の中に置かれても埋もれなかった。何人も手に取り、そのうち何人かは金を払って持ち帰った。
閉店が近づく頃には、朝採れの野菜はずいぶん減り、漬物や菓子にも空いた場所が目立っていた。赤馬の箱も、並べた時より少なくなっている。一方で、大隅たちの椀や盆の棚は朝と大きく変わらなかった。
夕方にも、一人の客が朱の椀を手に取った。裏を返し、値札を見て、しばらく迷ってから棚へ戻した。匠はその様子を見ていた。
百貨店の担当者が売上票を確認した。
「赤馬、よく見てもらえましたね」
葵は残った箱を数え、顔を上げた。
「はい。道の駅でも同じとは限りませんけど、反応は見えました」
匠も赤馬の残りを数えた。
片づけが始まると、匠は先ほど客が戻した朱椀を手に取り、ほかの椀と一緒に一つずつ薄紙で包んだ。包みながら、指先に椀の冷たさが残った。
片づけが終わると、二人は百貨店を出た。ガラス扉が閉まると、売り場の音楽が遠のいた。匠が倉淵へ戻るバスまでは少し時間があり、葵も停留所まで一緒に歩いてきた。
夕方の停留所には、買い物袋を持った人が何人か並んでいた。車が通るたび、道路から低い音が響いた。匠は伝票と残った見本の入った箱を足元へ置き、持ち手を握っていた指を開いた。葵がその箱を見た。
「売れたね」
「農産物の方が」
「そういう意味じゃなくて」
「わかってます」
匠が笑うと、葵も笑った。葵はもう一度、足元の箱へ目を向けた。
「最初の紙帯、失敗してよかったかもしれない」
「二体傷つけた、あれですか」
「まだ言うの?」
「忘れませんよ」
「職人って、しつこいね」
「石川さんもですよ」
「私はちゃんと直しました」
「俺も直しましたよ」
葵はそれ以上言い返さなかった。道路の向こうを車が続けて通り過ぎ、停留所に並ぶ人が一人増えた。二人の会話が途切れると、近くで待っている人たちの話し声が聞こえた。
「道の駅が開いたら」
葵が口を開いた。
「はい」
「見に行ってもいい?」
匠は葵を見た。
「仕事で?」
「その頃には、私の仕事はたぶん終わってる」
「じゃあ、何しに来るの」
「見に行くだけじゃ駄目?」
通りの角からバスが姿を現した。停留所に並んでいた人たちが買い物袋を持ち直し、列が少し前へ詰まる。匠は足元の箱を持ち上げたが、まだ列には加わらず、葵の方を向いていた。
「駄目じゃない」
匠は言った。
「来る時、連絡して」
「うん」
バスが停まると、匠は列の後ろについた。葵は乗り口から少し離れたところへ下がり、匠が箱を抱え直すのを見ていた。順番が来て乗り込む前に匠が片手を上げると、葵も小さく手を振った。
車内の窓から見ると、葵はまだ停留所に立っていた。バスが動き出してもその場を離れず、角を曲がるまで姿が見えていた。
夏に入る頃、道の駅の建物が地面から形を現し始めた。屋根は上がっていたが、壁の入っていないところが残り、売り場には資材が積まれていた。完成すれば客が歩く通路を、今は作業服の職人が行き来している。
義一に実物を持ってこいと言われ、匠は販売用の赤馬を一体、箱に入れて持ってきた。借りたヘルメットの顎紐が、歩くたびに少し浮いた。
「棚の奥行きを見たい」
義一はそう言って、図面を丸めたまま建物へ入った。匠も後ろを歩く。
「ここが農産物。工芸は奥だ」
義一が壁際を示した。最初に工房で見た図面では、倉淵塗の棚は細い四角だった。今は柱が立ち、入口側へ四十センチ出すと決めた位置に仮の板が置かれている。
匠は箱から赤馬を出し、その板の上へ載せた。
「小さいな」
「商品だから」
「棚は入口から見える。だが、ここに置いた赤馬の形まではわからんな」
「そこまで見えなくてもいいよ。近くを通った人が、たまたま手に取ってくれれば」
義一は板の奥行きを確かめ、通路側へ一歩出た。駐車場側から、資材を運ぶ音が聞こえた。
「この幅なら、補充の邪魔にはならないな」
匠は板の上の赤馬を手に取った。
「置くだけじゃ売れないけどな」
「ああ」
義一が答えた。
「だから、おまえがいる」
匠は父を見た。義一はもう次の場所を見ていた。
二人は建物の中を歩いた。匠が棚の高さを言えば、義一は搬入の動線を答える。義一が壁を広く取れないと言えば、匠は置く数を減らすと言った。
建物の出口へ向かう頃には、現場の人影が減っていた。夕方の光がコンクリートの床を長く照らしている。
「父さん」
「何だ」
「高校辞めた時さ、俺が職人じゃ食っていけないと思ってた?」
「ああ」
匠は笑った。
「即答かよ」
「十六だったからな」
「じいちゃんの仕事が嫌だったわけじゃないんだろ」
義一が足を止めた。
「嫌なら、あの工房の図面を俺が何度直したと思ってる」
匠も止まった。
「じいちゃんの工房、父さんが?」
「増築した時も、乾燥室を直した時もだ」
「聞いてない」
「聞かれなかった」
二人の靴音が、コンクリートの床に並んだ。
「じゃあ、あれは」
「何だ」
「うちの子じゃないって言ったやつ」
義一の足が少しだけ遅くなった。
「あれは言った」
「覚えてるよ」
「俺も覚えてる」
義一はまた歩き出した。匠もその横へ並んだ。建物の外へ出る。国道の向こうに山が重なっていた。
「赤馬、青葉で売れたんだろ」
「まあね」
「道の駅でも売れるとは限らんぞ」
匠は義一を見た。
「わかってる」
「なら、好きにしろ」
義一は山の方を向いたままだった。
「ただし、半端なものを出すな」
匠は少し間を置いた。
「出さないよ」
義一が小さくうなずいた。
現場の音が一つずつ止んでいった。匠はもう一度、まだ完成していない建物へ戻った。義一もついてきた。壁のないところから、山の風が入る。
「まだ何もないな」
「あるよ」
「何が」
匠は掌の赤馬を見た。
「これから置く場所が」
義一が少し笑った。
「そうだな」
二人は並んで、建設途中の道の駅を見た。空の端から色が落ち、山の稜線が濃くなっていく。しばらくして、義一が空を見上げた。
「出てるな」
匠も顔を上げた。何の星かは言わなかった。
掌の赤馬を握り直す。
木の丸みが、指の中に残った。
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次のニュースです。県警は、県内外で寺や旧家などを狙って盗みを繰り返していた窃盗グループの押収品を調べました。その結果、倉淵村の天台寺から長年行方が分からなくなっていた赤漆の馬形木彫とみられる品が見つかったと発表しました。
警察では、寺や地元の職人のもとに残されていた写真や記録などと照合し、確認を進めています。なお、倉淵村ではこの秋、道の駅『赤馬の村くらぶち』の開業が予定されており、村ではこれを機会に訪れてくれる人が増えることを期待しています。
続いては、天気予報です。




