一 秋庭の娘
秋庭という姓には、説明がいらなかった。少なくとも、箱庭市の中では。
二〇一四年六月九日、月曜日。三枝翔太は始業前に企画政策課の自席に着いた。週末のあいだ閉め切られていた執務室には紙とトナーの匂いがこもり、まだ空気が動いていない。
鞄から書類を出し、三つの山に分けた。右端が未処理で、他課から回ってきた照会文書と、関係機関からの通知だ。中央が作業中。資料を添えて修正している途中の伺い書が重なっている。左端は決裁待ちで、係長と課長の机へ回す伺い書を挟んだバインダーが置いてある。紙の角を机に打ち当ててそろえ、机の縁と平行に並べ、消しゴムの屑を手のひらで払って屑籠へ落とした。就職祝いに親からもらった腕時計で、時刻を確かめる。
二十四歳。入庁三年目の主事で、課内ではまだ若手に入る。早ければ、翌春には最初の異動がある。
大きな仕事がしたいというほどの野心はなかった。ただ、面倒な案件を渡しても、期限までに見やすい形で返してくる。上司からそう思われる職員でいたかった。難しい仕事を、難しいまま返さない。それが評価される仕事だと考えていた。
湯呑みを持った隣の係の先輩が、通りかかって机の上を見た。
「相変わらず几帳面だな」
「始業前にやっておかないと、どこに何があるか分からなくなりますから」
翔太が端末の電源を入れたところで、窓際のテレビに市議会議場が映った。普段なら朝一番の電話や決裁文書に追われ、誰も気に留めない庁内中継を、その朝だけは何人もの職員が立ったまま見上げていた。新市長の所信表明が始まるところだった。
議場の扉が開き、議長に促されて、一人の女性が演壇へ歩いていく。秋庭信乃、三十四歳。飾りのない紺色のスーツ姿で、背筋を伸ばしている。旧箱宮市にある箱宮大学で地域政策に携わっていた研究者で、県議会議員・秋庭信彦の娘。当選を伝える記事は、どれも得票数より先に父親の名前を挙げていた。経歴も、選挙が始まってから何度も取り上げられている。テレビを見上げる職員たちの関心は、若さや経歴よりも、「秋庭」という姓に向いているようだった。
画面が引きになると、議員席の前列に、腕を組んだ初老の男が映った。黒川正治。
「黒川さん、黙ってないだろうな」
少し離れた席で、係長がつぶやいた。隣の年配の職員が、目だけを係長へ向けて答えた。
「朝からやめとけ」
それ以上の説明はなかった。翔太も聞き返さなかった。秋庭県議と黒川の間に古くからの政治的な因縁があるらしいことは知っていたが、市役所で働いていても、市内の政治をめぐる昔話まで詳しくなるわけではない。
議場が静まり、信乃が原稿へ目を落とした。
「合併から九年が経過しました」
庁内スピーカーから届いた声は、思っていたより低かった。力を込めているようには聞こえない。それでも、課内の電話が鳴らない数秒のあいだ、その声ははっきり届いた。
「旧箱宮市と周辺の八つの自治体は、一つの箱庭市となりました。しかし、制度の上で一つになったことと、人の暮らしや地域の記憶が、一つの市として結ばれたことは同じではありません」
合併後の地域間格差、人口減少、公共施設の老朽化、交通。聞き慣れた言葉が続いた。前市長も似た言葉を使っていた。大きな方針ほど、実務へ下りてくる頃には「関係部署と調整すること」という一文に変わる。それも、翔太が三年間で覚えたことだった。
信乃は、旧地域に残る生活拠点の話を始めた。そこで八つの道の駅が出てきた。農産物を売る場所。温泉街への案内口。港の市場。工芸を伝える工房。発酵文化の展示室。山間地域のバス待合い。海沿いの産業展示館。森の木工館。
正式名称は一つも挙げなかった。原稿にもほとんど目を落とさない。覚えている道順を辿り直しているように見えた。
「八つの駅は、地域が外へ向かうための窓口であると同時に、その地域の暮らしが表へ現れる場所でもあります。しかし現在、それぞれが一つの市の中で充分につながっているとは言えません」
翔太は隣の主任を見た。主任もこちらを見て、何も言わなかった。翔太自身、八駅の姿を正確には思い浮かべられなかった。市内の道の駅で利用したことがあるのは、出かけた帰りに愛宕の足湯へ立ち寄ったくらいだった。それさえ、道の駅の設備なのか、温泉街のものなのか、考えたことはない。
「私は、既存の八つの駅を結び直すため、九つ目の駅の可能性を調査します」
課内の空気が動いた。誰かが小さく、九つ目、と繰り返した。翔太も手元の紙へ書いた。
九つ目の駅。
道の駅を八つも持つ市が、さらに一つ造る。そうとしか聞こえなかった。
「新しい建物を造ることだけを、目的とするものではありません。八つの地域と、そこに眠る記憶を、点のまま保存するのではなく、今の箱庭市を支える線として結び直す。そのために何が必要かを、まず調べたいと考えています」
言葉はきれいだった。だが、実務としての意味が分からない。記憶を結ぶことと、道の駅を増やすことが、どこでつながるのか。点や線という表現も、政策というより大学の講義に近く聞こえた。
画面の端で、黒川はまだ腕を組んでいた。周囲が拍手をしても、手は動かなかった。
所信表明が終わると、企画政策課の電話が一斉に鳴った。
「現時点で建設を決定したものではありません」
「候補地も未定です」
「担当部署については、現在調整中です」
調整中と答えながらも、受話器を持つ職員たちの視線は課長席へ集まっていた。課長の榊原康之が、テレビの電源を切った。四十四歳。話を大きくしない代わりに、小さくも見せない人だった。
「午後一時、打合せ。地域拠点調査は企画政策課が事務局を持つ」
主任の一人が、道の駅なら観光振興課ではないかと尋ねた。
「観光だけで収まるなら、そっちへ行っている」
同じ主任が食い下がった。
「新設なら道路管理でしょう」
「新設と決まっていない」
別の主任が、では企画政策課はどこまで持つのかと聞いた。
「資料を集めて、論点を並べて、どの課が何を持つかを整理する。直すのも建てるのも、決まったあとは所管課の仕事だ」
榊原は翔太を見た。
「三枝。八駅の基礎整理を頼む。所有者、運営主体、施設機能、利用実績、収支、市の負担、修繕状況。市長説明用に一枚へ並べろ」
一枚へ並べろ。
翔太は所信表明より、その言葉に反応した。記憶を結ぶとはどういうことか、九つ目に何を置くのか、そういう話は自分の手に余る。だが、項目と期限のある仕事なら扱える。同じ市の施設を比べるなら、まず同じ項目で見ればいい。駅ごとに違う数字を使えば、なぜそこだけ扱いが違うのかという話になる。資料を集め、欄をそろえ、分からないところだけ照会すればいい。中継を見ていたあいだの、足元が定まらないような感覚が引いていった。
「期限はいつですか」
「一週間。来週の月曜に部長へ上げる」
「分かりました。八駅の担当部署へ照会をかけて、横並びで比較できる形にします」
翔太は新しい表計算ファイルを開いた。見出しの行へ、施設名、所有者、運営主体と打ち込む。次は収支だが、八駅を一駅一行で見るなら売上の方が早い。売上、と入れた。利用実績も、利用者数に変えた。数えられる形にしなければ、八行を同じ列で比べられない。
施設機能の列で、手が止まった。ここへ入る言葉は、どれも数字にならない。翔太はその列を右端へ回し、市負担額と修繕状況を先に置いた。
見出しだけを薄い灰色で塗り、罫線を細く引き、列の幅をそろえた。八行分の枠ができると、まだ一つも数字が入っていないのに、仕事が半分終わったような気がした。
一行目に赤馬の里くらぶち。二行目に移ると、指が止まった。愛宕の施設が『あたご温泉御殿の湯』だったか、『御殿の湯あたご』だったか、自信がなかった。
翔太は箱庭市の職員だ。もちろん、八つの道の駅があることは知っている。だが、名前さえ正しく並べられない。一方、就任したばかりの信乃は、そこに残る暮らしや記憶について語った。
どうして、そこまで知っているんだろう。
翔太はその問いをどこにも書かず、二行目を空欄のまま残して、観光振興課の共有フォルダーを開いた。




