小4の冬 ― いじめ現場を見つけた人
◆ 小4の冬 ― いじめ現場を見つけた人
その日も、アキラは校門とは反対側の細い路地を歩いていた。
ランドセルは、片方の肩からずり落ちかけている。
背中には、黒いマジックで書かれた「キモい」「いらん子」の文字。
本人は見えないけれど、通り過ぎる同級生はみんな見ている。
見ているのに、誰も止めない。
電柱の陰に押しつけられ、
上履きで背中を蹴られ、
ノートをぐしゃぐしゃに丸められる。
「親もおらんくせに、えらそーにすんなや」
「泣けば? どうせ誰も助けてくれんし」
言葉は鈍器だ、と後にアキラは思うようになる。
この頃の彼は、ただ殴られるより、
こういう言葉の方がよっぽど効くことを、いやというほど知っていた。
その路地の角を、
買い物袋を下げた一人の女性が曲がってきた。
ふわっとしたベージュのコート。
小走りなのに、どこか落ち着いた雰囲気。
小倉美鈴だった。
「ちょっと、あんたたち。何しよると?」
その声は、怒鳴り声ではないのに、
不思議と空気を一気に変えた。
振り向いた子どもたちは、
大人の「あ、これは本気で怒っとるやつや」という目を見て、
わかりやすく青ざめる。
「べ、別に〜」
「遊んどっただけやし〜」
「ほぉん?
じゃあその“遊び”、自分らのお母さんの前でもできるね?」
一拍おいて、
バラバラに散っていく足音。
路地には、アキラと美鈴だけが残された。
◆ 「うち、遊びにおいで」
「大丈夫ね?」
美鈴は、
アキラの背中の文字には触れずに、
まずランドセルの位置を直してあげた。
「……はい」
小さな声。
無理に強がっているのが、すぐに分かる声。
「赤嶺章くんやろ? この前の個人面談で、名前見たよ」
「……はい」
「うちね、小倉美鈴って言うと。
あんたと同じ小学校に通っとる双子の子のお母さん。
…って言っても、あの子らまだ幼稚園前やけどね」
アキラはきょとんとした。
(双子? 幼稚園にも行ってないのに“小学校に通っとる”?
なんのことや)
美鈴は、ふっと表情をやわらげた。
「もしよかったらさ、今度うちに遊びにこんね?
宿題しに来てもいいし、うちの双子の相手しに来てもいい。
“ここに来たら、誰もいじめん”場所、
ひとつくらい持っとってよかけん」
その言葉は、
アキラにとって、あまりにも予想外だった。
助け舟なんて、
とっくに諦めていたはずなのに。
「……ほんとに、いいんですか」
「もちろん。
今日でもいいし、明日でもいいし。
お母さん――静子さんにも、ちゃんと電話しとくけん、
安心しんしゃい」
この瞬間、
アキラの中で「大人=信用ならない存在」という図式に
小さなヒビが入ることになる。
◆ 小倉家という「避難所」
数日後の放課後。
アキラは、少しだけ緊張しながら小倉家のインターホンを押した。
ガチャッ
「はーい……って、章くんやん!」
エプロン姿の美鈴が、
満面の笑みで出迎える。
玄関の奥から、
妙ににぎやかな声が近づいてきた。
「ねーねー、お客さん? お客さん??」
「おきゃくさんやろ? はやくはやく〜!」
ぴょこっと顔を出したのは、
髪をお団子にむすんだ女の子と、
ツインテールの女の子。
まだ幼稚園にも行っていない年齢。
ぱっちりした目が、好奇心でキラキラしている。
「紹介するね。
こっちが光子、こっちが優子。
二人合わせて“爆笑予備軍”です」
「なんねその紹介」
思わずツッコんでしまって、
自分でびっくりするアキラ。
双子は、そんなことお構いなしに、ずいっと近づいてきた。
「おにいちゃん、なまえなに?」
「……赤嶺章」
「しょうおにいちゃん?」
「“章”って読むとよ」と美鈴。
「じゃあ、“あきらおにいちゃん”やね!」
「おにいちゃん、おなかへっとる? いまプリンあるよ」
一気にまくし立てられて、
アキラは戸惑いながらも笑ってしまった。
(なんやこの家…うるさいけど、あったかい)
その日から、アキラは
ときどき小倉家に「避難」するようになる。
・光子と優子の意味不明ギャグに巻き込まれ
・優馬のしょうもないボケにツッコミを入れさせられ
・美鈴のご飯に「うまっ」と素で言ってしまい
少しずつ、
固く凍りついていた表情が、ゆるんでいく。
◆ 美香がやってきた日
しばらくして。
小倉家に、もう一人、女の子が加わることになる。
虐待を受け、行き場を失っていた少女――美香。
最初にアキラが美香を見たのは、
小倉家のリビングだった。
光子と優子が、お気に入りのぬいぐるみを両手に持って、
緊張して固まっている女の子の前に差し出している。
「これ、あげる」
「こっちもあげる」
「そんな一気に渡したら困るやろ」と美鈴が笑う。
美香は、
何度も遠慮しかけて、
最後に小さな声で「ありがとう」と言って受け取った。
その横で、アキラは様子を見ていた。
(この子…)
アザこそ見えないけれど、
目の奥に、どこか覚えのある影があった。
“誰かに傷つけられたことがある人間の目”だと、
何となく分かってしまう。
あとになって、美鈴から聞いた。
「美香ちゃんね、事情があって、
しばらくうちで預かることになったと。
そのあと、縁があれば…って先生に言われとる」
「事情って……」
「そこは、大人の領域。
章は、自分の“事情”を勝手にペラペラしゃべられたらイヤやろ?」
「……はい」
「やけん、美香ちゃんの“事情”は、
本人が話したくなったら聞いてあげて。
今はただ、“味方”でおってあげてくれたら、それでいいけん」
◆ 「同じ目しとる」
ある日。
双子が昼寝していて、家の中がいつになく静かだった頃。
縁側に出ていたアキラの隣に、
そっと美香が座った。
「……ここ、落ち着くね」
「そうやね」
しばらく、二人とも黙って庭を眺める。
沈黙が気まずい、という感じではない。
ただ、言葉がなくても呼吸が合う感じ。
ふいに、美香がつぶやいた。
「章くんさ」
「ん?」
「最初に会ったときから思っとったけど…
うちと、同じ目しとる」
アキラは、横顔を見つめる。
「同じ目?」
「うん。
“誰かにひどいことされたことがある人の目”。
怖がりでもあるし、
でも、“それくらいじゃ折れん”って意地も混じっとる目」
図星を突かれて、
アキラは返す言葉を失う。
「……嫌やった?」
「ううん。
むしろ、ちょっと安心した。
“あ、ここには、
自分の傷ば分かってくれる人がおるかもしれん”って」
そう言って、美香は
初めて、
「守られたい人」じゃなくて
「一緒に立てるかもしれない人」として、
アキラのほうを見た。
その視線に、
アキラの胸が、ほんの少しだけ熱くなる。
(この子のこと、
ちゃんと守れるようになりたい)
その感情に、まだ名前はない。
けれど、確かに何かが始まっていた。
◆ 幼稚園入園式 ― 小さな疑問が初めて言葉になった日
桜がひらひら舞う、四月の朝。
園庭には真新しい制服を着た子どもたちと、その両脇には母親と父親。
手をつないで写真を撮ったり、鼻の下を伸ばしてビデオを回しているお父さんたち。
母親たちは、緊張気味の子どもの肩を直したり、髪を撫でている。
そんな中で――
赤嶺章は、両側の手を
安三郎じいちゃんと静子ばあちゃんに握られて歩いていた。
じいちゃんは、にこにこ顔で胸を張っていた。
ばあちゃんは、歌うみたいな優しい声で励ましてくれる。
「章、ほら、胸ば張って行こうね。
うちの男前が入園するとよ〜」
「ばあちゃん、まーた大げさ言うて…」
口ではそう言うけど、
アキラは二人の手をぎゅっと握り直した。
周りの子たちは、
「ママ〜」「パパ〜」と抱きついている。
目に入る光景のすべてが、
胸の奥をちくりと刺した。
◆ 式の途中で、心がざわつく
入園式の最中。
園長先生の話も、歌も、どこか上の空だった。
ふと隣を見ると、
同じクラスの男の子が、父親の腕に抱きついて笑っている。
女の子は、母親の膝にすわって、髪をとかしてもらっている。
章の胸の奥で、
小さな渦がぐるりと回り始めた。
(なんで、うちは“じいちゃんとばあちゃん”なんやろう)
(どうして俺の横には“お父さんとお母さん”がおらんと?)
彼は、その疑問に
ずっと蓋をしてきた。
でも――
華やかな親子の並びを、
幼い目が一生懸命見つめれば見つめるほど、
その蓋がずれていく。
式が終わり、教室へ移動する廊下で、
アキラはとうとう立ち止まった。
静子が気づく。
「章? どうしたと?」
小さな肩が震えていた。
「……ばあちゃん」
「うん?」
「なんで……
うちには……
お父さんとお母さん、おらんと?」
安三郎も、静子も、
その瞬間ほんのわずかだけ目を伏せた。
でもすぐに、
二人はアキラの前にしゃがんで、
視線をしっかりと合わせる。
◆ 「あんたは、見捨てられた子やなかよ」
静子は、アキラの頬を両手で包んだ。
「章、よぉ聞き。
あんたはね、“お父さんとお母さんがいなかった子”やなかとよ」
アキラの目が揺れる。
「……でも、みんなの横には…おるやん」
「おるね。
でも、章にも“おった”とよ」
静子は言葉をゆっくり選ぶ。
「章がまだ小さか頃にね……
お父さんとお母さんは事故に遭ってしもうた。
あんたば置いて、勝手に消えたんやない。
あんたを、心の底から愛しとったふたりやった」
安三郎も、
鼻をすすりながら言葉を継ぐ。
「章。
お前のお父さんはな、
お前が生まれた時、
“こいつを絶対守る男になる!”って泣きよったんぞ」
「……ほんと?」
「ほんとたい。
お母さんも、“章は世界一かわいい”って、
毎日写真ば撮りよった」
アキラの唇が震える。
「じゃあ……
どうして、いまおらんと?」
静子は、そっとアキラの手を握った。
「それはね、
あの人たちのせいやなか。
悪いのは事故であって…
章を愛しとう気持ちだけは、
今でもずーーっと残っとる」
アキラは黙って聞いた。
涙がぽたりと落ちる。
その涙を、静子が指先で拭う。
「章。
お父さんとお母さんに“いない人”と思われとうなら、
あんたの心の中から追い出してもいい」
「……」
「でもね。
“いたんだよ”“愛してたんだよ”って思いたい日が来たら、
その時は、いつでもその気持ちでよか。
どちらを選んでも、章の自由たい」
安三郎は、アキラの肩を抱き寄せた。
「そんかわり…
いま章の横におるのは、
じいちゃんとばあちゃんやけんね」
静子も、アキラをしっかり抱きしめる。
「うちはあんたの家族よ。
章が生きとる限り、ずっと家族よ。
お父さんとお母さんに負けんくらい、
あんたを愛しとう」
アキラは、
声にならない嗚咽をあげて二人にしがみついた。
◆ 言葉にできた分だけ、強くなる
その日の帰り道。
アキラは二人の手を握りながら、涙を乾かした顔で言った。
「……ぼく、じいちゃんとばあちゃんが好き」
静子は笑った。
「うちも章が大好きよ」
安三郎は頭をぐしゃっと撫でた。
「おれも大好きや!
章が誰に何言われても、
おまえはうちらの孫ばい。
一生涯な!」
アキラは、じいちゃんの手を強く握り返す。
「……ぼくね。
もし、お父さんとお母さんがおったら…って思う日もあるけど…
でも、じいちゃんとばあちゃんがおるから……
ぼく、大丈夫と思う」
静子は涙をこらえきれず、目元を押さえた。
安三郎は泣き笑いで言う。
「章、お前は強か子たい」
アキラは小さくうなずく。
(ぼくには“いま”の家族がいる。
それで、精いっぱいやっていく)
この幼稚園の入園式の帰り道の決心が、
のちのアキラの“生き方”の核になっていく。
そして――
このあと、小倉家と出会い、
光子・優子、美香と出会い、
人生は少しずつ、明るい方向へ歯車が回り始める。
◆ 無邪気な質問ほど、痛いものはない
入園してしばらく経ったころ。
アキラも、幼稚園の生活に少しずつ慣れてきていた。
朝はみんなで体操をして、
お絵かきの時間にはクレヨンを握りしめて、
お弁当の時間には「きょうこれ入っとる!」と見せ合う。
その輪の中に、アキラもちゃんと入っていた。
ある日の自由遊びの時間。
積み木を高く積み上げていたとき、
隣で一緒に遊んでいた男の子が、ふと首をかしげて聞いてきた。
「ねぇ、アキラくんのおとうさん、
どんなおしごとしてると?」
悪気なんて、もちろん一ミリもない。
ただ、“みんな聞いてるから、君にも聞くね”というだけのノリ。
アキラの手が、
積み木を持ったまま、ぴたりと止まる。
(おとうさん……)
とっさに、頭の中が白くなる。
続けて、別の女の子も首を傾げる。
「アキラくんのおかあさん、
やさしい? おべんとう、つくってくれる?」
追い打ちのように、
当たり前のように飛んでくる「お母さん前提」の質問。
胸の奥が、ちくり、と刺さる。
(ぼくには……)
(ぼくには、“今”は、おとうさんもおかあさんもおらん)
それをそのまま言う勇気は、
幼いアキラにはまだなかった。
◆ 「……いまは、じいちゃんとばあちゃん」
アキラは、少しだけうつむいて、
積み木をそっと置く。
「……ぼくのごはんはね、
ばあちゃんがつくってくれる」
「えー、じゃあアキラくんのおかあさん、なにしとると?」
質問は止まらない。
悪気はまったくないからこそ、鋭い。
言葉を探して、探して、
やっと絞り出す。
「……いまはね、
おとうさんもおかあさんも、おらんと」
「おでかけしとると?」
「ううん。
……もう、天国におると」
言って、しまった。
口から出た自分の言葉に、
アキラ自身が一番、胸を刺された。
「あ……」
隣の子たちは、一瞬だけ黙り込む。
「そっか……」
「てんごく……」
“死”という概念がまだよく分からない年頃。
それ以上、深掘りする子もいれば、
何となく空気を感じ取って話題を変える子もいる。
「じゃあさ、アキラくんのばあちゃん、
おりょうりじょうずなん?」
「うん。
カレーも、たまごやきも、
おいしい」
「いいなー! こんど、たべたい!」
「それはむりやろ〜」と別の子が笑う。
その笑いに救われるように、
アキラも小さく笑った。
でも、
さっき刺さった痛みは、
どこか奥のほうでまだじんじんしている。
◆ 先生は気づいていた
遠くから、その会話を見ていた先生は、
何となく様子を察していた。
お迎えの時間。
園庭で待つアキラのもとに、
安三郎と静子が現れる。
「アキラ〜、今日も元気やったか〜?」
「うん」
先生は二人に近づいて、
少しだけ声を落として言う。
「今日、お友だちから“お父さんとお母さん”のこと聞かれてました。
悪気はなかったんですけど、
アキラくん、ちょっと困ってました」
安三郎と静子は、一瞬だけ息をのむ。
それでも、すぐに小さく頭を下げて礼を言った。
帰り道。
二人はあえて「お父さん」「お母さん」の話題を出さなかった。
代わりに、安三郎が、
いつもより少しだけ大げさな声で言う。
「なぁアキラ。
じいちゃんの今日の仕事、知っとるか?」
「しらん」
「“世界一の、アキラのじいちゃん”をする仕事や!」
「なんそれ」
「ばあちゃんは、“世界一のアキラのばあちゃん”やけんね」と静子。
二人のテンションが高くて、
思わず吹き出してしまう。
「そんな仕事、あると?」
「あるある! 超・重要任務たい!」
「じゃあ、ぼくのしごとは?」
「“世界一、アキラとして生きること”やね」と静子が即答する。
その会話は、
痛みを消してくれる魔法ではない。
でも、
“痛いまんまでも生きてていいんだ”と思わせてくれる
小さな包帯みたいなものだった。
◆ 後から分かる、“あのチクっとした感じ”の意味
この頃のアキラは、
言葉にできないながらもこう感じていた。
みんなの質問は、嫌がらせじゃない
でも、聞かれるたびに胸がちくっとする
それをどう説明したらいいか分からない
この「説明できない痛み」を経験したことが、
のちにアキラが、
家庭環境のことで悩む子
親をなくした子
養子や里子として生きる子
に対して、
不用意に「お父さんは?」「お母さんは?」と
聞かない大人になる、
大きな理由になっていく。
そして、
同じように「事情」を抱えて小倉家にやって来る美香を見た時、
アキラがすぐに気づく。
(あ、この人も“あのチクっとする質問”を
いっぱい受けてきた目をしとる)
だからこそ、
美香には最初から
“聞かれたくないことを聞かない距離の保ち方”が、
自然とできた。
それが、
二人の信頼の始まりにもなっていく。




