包囲の始まり
包囲が始まって最初の二週間は、大きな戦闘はなかった。
互いに様子を見ている。
本願寺側は、城砦の内側から時折矢を射かけてくるが、大規模な攻撃はない。守りを固めながら、援軍か補給が来るのを待っている。織田軍は、包囲網の穴をふさぎながら、陣地を少しずつ強固にしていく。
こういう膠着した時間こそ、紘一には仕事の余地がある。
まず、陣地の衛生環境を整えた。
長期包囲になれば、疫病が出る。井戸の位置、厠の設置場所、食料の保存方法。こういうことを最初に整えておかないと、戦で死ぬ兵より病で死ぬ兵の方が多くなる。それは歴史上、繰り返し起きてきたことだ。
「吉田、陣地を一回りしてきてくれ。汚れた水が溜まっている場所があれば、すぐに埋めるか流すかする。厠は決まった場所だけを使うように周知してほしい」
「承知しました。それと、田邊様、一つ報告があります」
「なんだ」
「昨日から、腹を壊している兵が出始めています。十名ほど」
紘一の表情が変わった。
「食中毒か疫病か、確認する。すぐに隔離してくれ。他の兵と飯を別にして、水も別の桶を使わせる」
走り出した吉田の背中を見送りながら、紘一は頭の中で段取りを組んだ。
原因を特定するまでは、最悪の可能性を想定して動く。食中毒なら、汚染された食材を特定して廃棄すれば広がりは止まる。疫病なら、隔離と徹底した衛生管理が必要だ。
幸い、この日の腹痛は食中毒だった。
共通して食べていた干し魚が傷んでいた。それを廃棄し、代わりの食材を手配する。翌日には新しい患者は出なくなった。
「早めに気づいてよかった」紘一は吉田に言った。
「田邊様が陣地の衛生を整えていたおかげで、広がりが少なかったと思います」
「まだ油断するな。包囲が長引けばまた出る。継続して気をつけてくれ」
***
一方、本願寺の周囲では、小さな戦闘が断続的に続いていた。
ある朝、本願寺の東門から約二百名の門徒が突撃してきた。
信長軍の包囲網の一角を破ろうとする、いわゆる「突出」だ。包囲された側がしばしば使う戦術で、一点突破して補給路を確保しようとしたり、援軍に連絡しようとしたりする。
この突出は、柴田勝家の部隊が受けた。
門徒の突撃は激しかった。彼らは「南無阿弥陀仏」と唱えながら、恐れることなく突っ込んでくる。その迫力は、普通の兵の突撃とは質が違う。死を受け入れた人間の目をしている。
勝家の部隊は、数で圧倒しながらも、手こずった。
双方に負傷者が出た。
紘一の医療班に、また傷ついた兵たちが運び込まれる。
矢傷、刀傷、鉄砲傷。鉄砲傷は、当たりどころが悪ければ即死だが、生きていれば処置は比較的シンプルだ。弾丸を取り出し、傷口を洗い、縫合する。
問題は、鉄砲傷の感染だった。
弾丸が体内に雑菌を持ち込む。適切に処置しないと、化膿して敗血症になる。
「この傷は、毎日洗浄する。絶対に怠るな」紘一は若い医師に繰り返し言った。「一日でも怠ると、一週間の治療が無駄になる」
若い医師は真剣な顔で頷いた。
その夜、紘一は鉄砲傷を負った兵の処置を一人でやり直した。
昼間に若い医師が縫合したものだが、深さの確認が甘かった。もう少し内側を確認しなければ、明日には腫れが出る。
「すまない、もう一度確認させてくれ」紘一は兵に言った。
「田邊様が直接……」兵は驚いた顔をした。
「問題があるわけではない。念のためだ」
縫合を一部ほどいて、内側の状態を確認する。やはり、奥に少し異物が残っていた。弾丸の欠片だ。小さいが、放置すれば化膿の原因になる。
丁寧に取り除き、洗浄して縫い直す。
「これで大丈夫だ」
兵はほっとした顔をした。
「田邊様は、夜中でも来てくれるんですね」
「気になったら確認する。それだけだ」
翌朝、若い医師を呼んで、昨夜の確認で何を見つけたかを説明した。責めるのではなく、次回どう見るべきかを教える形で。
「鉄砲傷は、外から見える以上に内側が複雑なことがある。縫合の前に、必ず指先で内側を確かめてくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
若い医師の顔に、悔しさと納得が混ざっていた。
この悔しさが、次への力になる。叱らなくても、自分で気づいた方が伸びる。
包囲の日々は、こうして積み重なっていく。
大きな戦いではなく、小さな戦いと、疾病との戦いと、疲労との戦いが続く。それが、長期包囲の本当の姿だった。




