石山本願寺との戦い 新たな敵の宣戦
元亀元年(一五七〇年)八月。
姉川の勝利から、まだ二ヶ月も経っていなかった。
京都の空は、夏の熱気が残っていた。
残暑というには早く、まだ本格的な暑さが続いている。路地を歩けば汗が滲み、日陰に入ってもなかなか体が冷えない。こんな季節に、また新しい戦の気配が漂い始めていた。
田邊紘一は、岐阜と京都を行き来する日々を送っていた。
信長が京都に滞在していれば紘一もそこに留まり、岐阜に戻れば神崎屋敷に帰る。戦の合間の、比較的穏やかな時期のはずだった。だが穏やかさとは、次の嵐の前の静けさであることが多い。
石山本願寺からの書状が届いたのは、そんな八月のことだ。
紘一は、信長の本陣でその話を聞いた。
書状の内容は、要するに宣戦布告だった。「織田信長は仏法の敵である。門徒は信長を討て」という顕如の檄文が、全国に飛んでいるという。
信長は書状を読み終えると、無言で膝の上に置いた。
その沈黙が、怒りを含んでいることは、傍にいればわかる。だが信長の怒りは、感情的に爆発するより、静かに凝縮していく種類のものだ。
「顕如め」
短い一言だった。
「本願寺について、田邊殿はどう見る」
紘一に向かって問いかけてくる。信長はときどき、こういう問い方をする。感情を挟まず、純粋に分析を求める声だ。
紘一は少し考えてから答えた。
「本願寺は、宗教勢力です。軍事力だけで測れない相手です」
「続けろ」
「一般の大名の兵は、恩賞のために戦います。だが本願寺の門徒は、信仰のために戦う。死を恐れない、という点で、普通の軍勢よりも手ごわい。それに、本願寺の影響力は全国に及んでいます。近江、越前、加賀、越中。各地の門徒が一揆を起こせば、信長様は前後左右から火の手を上げられます」
信長は黙って聞いていた。
「それで?」
「力攻めだけでは、時間がかかります。本願寺の城砦は堅固で、海から補給が続く限り、落とすのは難しい。包囲と兵糧攻め、そして海上封鎖を組み合わせるのが現実的かと思います」
「海上封鎖か」信長は繰り返した。「確かに、あそこは海に面している」
摂津の、大阪湾を見下ろす場所に建つ石山本願寺。その立地が、守る側にとっての強みになっていた。陸からは包囲できても、海からの補給を断ち切れなければ長期持久が可能だ。
「九鬼水軍に当たれるかもしれません」紘一は続けた。「伊勢の九鬼嘉隆は、優秀な水軍を持っています。交渉次第では、協力を取り付けられるのでは」
「それは使える話だ」信長は頷いた。
評議は続いたが、この日の決定は「まず大坂に軍を進める」という方針だった。
***
部屋を辞してから、廊下で秀吉に呼び止められた。
「田邊様、少し」
「なんだ」
「本願寺の話ですが」秀吉は声を潜めた。「私は、あの相手が一番厄介だと思っています。姉川の浅井よりも、朝倉よりも」
「同感だ」
「理由は同じですか」秀吉は確かめるように言った。「信仰で動く人間は、論理で止められない」
紘一は頷いた。
「そうだ。浅井も朝倉も、追い詰めれば最終的には打算が働く。逃げる、降伏する、譲歩するという選択ができる。だが信仰のために死ぬことが救いだと信じている人間は、追い詰めれば追い詰めるほど激しくなる」
「難しい戦ですね」
「おそらく、長くなる」
秀吉はしばらく考えていた。
「田邊様、私は何か、人の心に働きかける方法がないかと思っています。信長様の軍が本願寺を包囲すれば、城内の人々は苦しむ。その苦しみの中で、少しでも和平の芽が育てられないか……まあ、理想論かもしれませんが」
「理想論でも、考え続けることは大事だ」
秀吉は、少し笑った。
「田邊様も、案外、理想主義者ですよね」
「五十七年生きていて、そう言われるか」
「褒め言葉です。この時代で理想を持ち続けられる人間は、少ない」
廊下の外から、蝉の声が聞こえた。
夏の終わりに向かって、蝉が鳴いている。その声が、やけに切なく聞こえた。
その夜、紘一は岐阜の神崎屋敷で広信と話をした。
出陣を前にして、屋敷での最後の夜だ。
「また行くのですね」広信は言った。
「本願寺包囲に向かう。長くなるかもしれない」
「三ヶ月、半年……それ以上ですか」
「場合によっては、一年以上になるかもしれない。今回だけでは終わらないだろう」
広信は黙って頷いた。それ以上は何も言わない。この男は、余計な言葉を言わないところが信頼できる。心配をわかっていながら、それを引き留める言葉に変えない。
「田邊さん、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「本願寺と和平はできないのですか。信長様が折れるか、顕如様が折れるか、どちらかが少し妥協すれば」
紘一は少し考えた。
「難しい。どちらも、立場があって引けない。信長様が仏法の守護者として振る舞えと言われても、信長様の性格上、それは受け入れられない。本願寺が信長様の政策に一切口を出さないと約束できるかというと、それも顕如様には難しい」
「だから、長くなる」
「そういうことだ」
広信は、庭の夜の暗闇を見た。
「どうか、生きて帰ってきてください」
「そのつもりだ」
「田邊さんは、いつもそのつもりと言う」広信は苦笑した。「そして、毎回ぎりぎりまでやって、疲れた顔で帰ってくる」
「そういう性分だ、もう」
「わかっています。だから心配するんです」
二人は、しばらく庭を眺めていた。
夏の夜の、濃い虫の声が、庭に満ちていた。




