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姉川の夏が終わる

 岐阜に戻ったのは、七月の初めだった。

 神崎家の屋敷に戻ると、広信が出迎えてくれた。


「田邊さん、お疲れ様でした」


「ただいま」


 広信の顔を見た瞬間、肩から力が抜けた。

 ここに帰ってきた、という感覚がある。故郷に戻る感覚に近い。この時代に来て四十一年、神崎の屋敷が確かに自分の場所になっている。


「怪我は」


「ない。疲れだけだ」


「それで十分です。上がってください。食事を用意しています」


 屋敷の奥から、広基の声が聞こえた。


「田邊様、お帰りなさい」


 九歳の広基が、小走りで来た。利発そうな目で、紘一を見上げている。


「おう、大きくなったな」


「三ヶ月ぶりじゃないですか」


「そうか、三ヶ月か」


 三ヶ月。金ヶ崎から姉川まで、たった三ヶ月の間にあれだけのことがあった。時間の感覚が、戦場では狂う。


 食事の席で、広基が聞いた。


「戦はどうでした」


「勝った」


「よかった。だけど、大変でしたか」


 子供らしくない問いだ、と思いながら、紘一は答えた。


「大変だった。多くの人が死んだ。だが、生き残れた人も多い」


「死んだ人は、かわいそうですね」


「そうだ。だからこそ、できるだけ死ぬ人を減らすために動く。医師が前線近くにいるのも、そのためだ」


 広基はしばらく考えていた。


「私が領主になったときも、そういうことをしなければいけませんか」


「なりたくないか、そういう仕事が」


「……なりたくないとは、言えません。広信お父様が、一生懸命やっているから」


 広基の言葉に、紘一は温かいものを感じた。

 父の背中を見て、自分の役割を引き受けようとしている。この子は、いい領主になるだろう。


 ***


 その夜、紘一は縁側に座って空を眺めた。

 夏の夜の、濃い青に、星が散っている。


 姉川の戦いは終わった。

 だが、浅井も朝倉も生きている。根絶やしにはなっていない。信長の怒りも、まだ収まっていない。これで終わりではない。


 次は何が来るか。

 石山本願寺。比叡山。武田信玄。信長包囲網。


 知っている。この先に何が起きるか、大まかには知っている。

 だが知っていることが、必ずしも楽にはしてくれない。「そうなると知っている」のと、「そこを生き抜く」のは、まったく別の話だ。


 虫の声が、庭に満ちていた。

 夏の虫が鳴いている。この虫たちは、戦があろうとなかろうと、季節が来れば鳴く。


 それが、なんとなく良かった。


 変わらないものがある。

 どれだけ世界が揺れても、季節は来て、虫は鳴いて、星は出る。そういう変わらないものが、背骨のように自分を支えていてくれる。


 紘一は目を閉じた。

 疲れた体が、少しずつほぐれていく感覚があった。


 明日からまた、絵を描く。

 次の備えを、少しずつ積み重ねていく。

 それが、自分の仕事だ。


 縁側の板の、少し冷たい感触が心地よかった。

 夏の夜が、静かに更けていく。


(第二章 姉川の戦い 完)


 翌朝、紘一は早起きして、屋敷の裏手にある小さな作業場に向かった。

 ここが、紘一の絵を描く場所だ。広信が用意してくれた、こぢんまりとした部屋。棚に紙と絵の具が並び、中央に大きな作業台がある。


 紘一は、まず昨日から頭にあった絵を描いた。

 姉川の川底に置いた踏み石の絵を、もう一度丁寧に描き直す。次の機会に使えるように、記憶が鮮明なうちに詳細を残しておく。大きさ、形、配置。自然な石の形と見分けがつかないように仕上げる。


 次に、医療道具の絵を描いた。

 今回の戦いで、縫合針が何本か折れた。包帯も消耗が激しかった。次の戦いに備えて、少しずつ補充しておく必要がある。一度に大量には創れない。今日は針を三本と、包帯を十束。それだけ創れれば十分だ。


 絵を描きながら、紘一は今回の戦いを振り返った。

 上手くいったこと、上手くいかなかったこと。渡渉地点への先行配置は正解だった。だが、戦闘中盤に負傷者の処置が追いつかない時間帯があった。人員の配分を、次は少し変えた方がいいかもしれない。


 医療班の編成。

 前進班と後方班の連携。それぞれが独立して動けるようにしながら、必要なときに後方から前進班を補強できる体制。次の戦いまでに、吉田と話し合っておこう。


 窓から、朝の光が射し込んでいた。

 庭の木が、夏の緑を輝かせている。


 この時代に来て四十一年。

 最初は、ただ生き延びることで精一杯だった。次第に、絵の能力を使いながら信長を支えることを覚えた。そして今は、医療という仕事を通じて、戦場で人の命を守ることが自分の役割になっている。


 変わってきたな、と思う。

 それが良い変化かどうかは、まだわからない。ただ、今の自分は、この時代の中で確かに生きている。それだけは、確かだ。


 針が三本、できた。

 包帯を十束。用意する。


 明日もまた、続けよう。


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