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浅井への怒りと悲しみ

 戦いから二日が経った。

 負傷者の治療が続く中、信長の怒りは収まるどころか、静かに熟成していた。


 浅井長政への怒りだ。


 義弟、という関係性が、怒りをより複雑にしていた。信長の妹・お市を嫁がせた男。血縁に近い同盟者。それが背後を突いた。金ヶ崎の退き口では、信長自身が死にかけた。


 信長は、その怒りを直接口にしない。

 だが、周囲の者には伝わっていた。本陣の空気が、じりじりと重くなっている。


 紘一は、その空気を感じながら、医療班の作業を続けていた。

 一人の兵の傷の縫合をしながら、耳だけを周囲に向けている。家臣たちの会話の断片が聞こえてくる。


「長政め……あの男は信長様の恩を忘れたのか」

「いや、朝倉との義理を取ったのだ。武士としては……」

「それでも、背後を突くことはないだろう」


 複雑な話だ、と紘一は思う。

 浅井長政は、織田と朝倉の板挟みになった。朝倉との古い同盟か、信長との新しい縁組みか。どちらかを裏切らなければならないとしたら、長政は朝倉への義理を選んだ。その判断が正しかったかどうかは別として、単純に「悪人」とは言い切れない部分がある。


 だが、信長にとっては、そういう話ではない。


 翌日、信長が紘一を呼んだ。


「お市が心配だ」信長は言った。


 その言葉に、紘一はわずかに驚いた。信長が家族への心情を素直に口にするのは、珍しいことだ。


「お市は浅井の居城にいます。小谷城に」


「ああ」信長の目が、どこか遠くを見た。「今すぐどうこうする話ではない。だが……あの子は、長政を好いているだろうからな」


 言葉が途切れた。


 信長にとって、お市はおそらく特別な妹だ。唯一の肉親に近い。それが、今や敵方の城にいる。その事実が、怒りとは別の何かを信長の中に生んでいる気がした。


「長政は、お市を大切にしていると聞いています」紘一は言った。


「……そうか」


 信長はそれ以上何も言わなかった。


 紘一も、それ以上は言わなかった。

 傷に触れすぎると、かえって逆効果になることがある。信長という人間は、一定以上踏み込まれることを嫌う。


 ***


 その夜、紘一は一人で戦場跡を歩いた。

 すでに死者の多くは収められていたが、まだ完全ではない。草むらの中に、忘れられた装備品や、折れた槍の柄などが散らばっている。


 歩きながら、昨日治療した浅井の兵・権助のことを思った。

 今日、権助は後送された。傷の具合は悪くない。帰れるだろう。


 だが権助が帰った先に、今後どんな運命が待っているか。

 浅井家は、今回の戦いで大きく消耗した。信長との戦いは、まだ続く。次があれば、権助はまた戦場に来るかもしれない。


 止められない流れがある。

 個人を救うことはできても、その個人を取り巻く歴史の流れを変えることは、紘一には難しい。


 夜風が吹いた。

 草が揺れ、川の音が遠く聞こえた。


 紘一は立ち止まり、空を見た。

 星が出ていた。無数の、静かな光。この星は、戦国の世にも現代にも、等しく降り注いでいる。時代が変わっても、空だけは変わらない。


 それが、なぜかいつも少し慰めになった。


 戦場跡を半刻ほど歩いて、陣地に戻ろうとしたとき、信長の姿が見えた。

 信長も一人で、戦場跡を歩いていた。護衛の一人を遠ざけて、静かに歩いている。


 珍しい、と思いながら近づいた。


「信長様」


 信長は振り返った。月明かりの下で、信長の顔が見えた。怒りでも悲しみでもない、何か複雑な表情をしていた。


「田邊殿か。何をしている」


「巡回していました。信長様こそ」


「……歩きたくなった」


 それだけ言って、信長はまた前を向いた。紘一は少し離れてついて行った。


 しばらく黙って歩いてから、信長が言った。


「長政は、馬鹿な男だ」


「……」


「朝倉との義理だとか、そういうことを言う者もいる。だが、裏切るならもっと早くすれば良かった。わしが越前に深く入る前に、はっきり敵だと言えばよかった。背後から突くというやり方が……」


 信長は続けなかった。


 紘一は少し考えてから言った。


「お市様のことが、頭にあったのかもしれません」


「何が言いたい」


「長政は信長様と戦いたかったわけではなく、朝倉を見捨てたくなかった。その矛盾の中で、結果として最悪のタイミングを選んだ。長政自身も、苦しんだのではないかと」


 信長は少し黙った。


「庇うのか」


「庇うのではありません。ただ……人というのは、たいていの場合、単純な悪意だけで動いているわけではない、ということです」


 信長はまた黙って歩いた。


「田邊殿は、長政を許せと言っているか」


「そうは言っていません。ただ、怒りだけで見ると、見えないものがある、と思います」


 信長は立ち止まり、夜空を見上げた。


「……よく言う」信長はそう言ったが、声に怒りはなかった。むしろ、どこか力が抜けたような声だった。「田邊殿は、いつもそういうことを言う。腹が立つが、間違ってもいない」


 それが信長なりの、「わかった」という言葉だと紘一は受け取った。


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