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夜明けの渡渉

 元亀元年(一五七〇年)六月二十八日、夜明け。

 姉川の南岸に、織田・徳川連合軍の二万八千が展開した。


 朝靄が川面に漂っていた。

 水は青白く光り、向こう岸の輪郭がまだぼんやりとしている。その霞の向こうに、浅井・朝倉連合軍の旗がある。一万八千。数の上ではこちらが有利だが、精鋭の浅井軍と経験豊富な朝倉軍が相手では、油断は許されない。


 紘一は医療班の陣地で、最後の確認をしていた。

 担架の数、包帯の在庫、水桶の位置。吉田と清水、それから若い医師が二名。合わせて五人でこの医療班を回す。戦いが激しくなれば、五人では足りなくなる。それでも、できることをやるしかない。


 川の方向から、水流の音が聞こえてくる。

 昨日確認した渡渉地点は二箇所。光秀の進言で物見台も設けられた。あとは、渡るだけだ。


 信長の本陣から、使番が飛んできた。


「田邊殿、信長様より。渡渉の際、川の中で手間取る兵が出た場合の対応を頼みたいとのことです」


「わかった。渡渉地点の傍に医療班の先行組を置く」


 紘一は吉田を呼んだ。


「吉田、お前は清水と二人で、川岸の傍に待機してくれ。渡りながら倒れた者がいれば、すぐに引き上げる。私は後方の本陣医療所に残る」


「承知しました」吉田は頷いた。「気をつけて」


「お前もな」


 吉田と清水が、川岸へ向かっていく。その背中を見送りながら、紘一は空を仰いだ。

 朝靄が薄れ始めている。太陽が、東の山の向こうから少しずつ姿を見せていた。晴れる。今日は晴れる。川の水量は変わらない。渡渉には問題ない天気だ。


 陣太鼓が鳴った。

 先鋒が動き始めた。


 ***


 渡渉は、思ったよりも速かった。

 事前に紘一が確認した浅瀬に、先行の小隊が入り、水量と流れを再確認してから本体を誘導した。流れは速いが、膝下程度の水深だ。鎧姿の足軽でも、慎重に進めば渡れる。


 紘一が懐に用意していた「足場の石」の絵。

 渡渉地点に近づいたとき、誰も見ていない一瞬を使って、その絵を川岸の石の間に差し込んだ。エネルギーを流す。数個の大きな平石が、浅瀬の底にそっと現れた。滑りにくい、安定した踏み石だ。


 消耗は、小さかった。

 小さなものは、体への負担が少ない。これくらいなら、今日の本番に備えた体力を残せる。


「渡れるぞ、行け」


 次々と兵たちが川に入っていく。重い甲冑を着けながら、流れに足を取られないよう横歩きで進む。一人が転びそうになると、隣の者が腕を掴む。そういう助け合いの連鎖が自然に起きている。


 川の向こうで、浅井・朝倉軍が動き始めた旗が見えた。


 渡渉が完了し、織田・徳川軍が北岸に展開した。

 向かって右翼が徳川軍、左翼が織田軍。両軍が横一列に広がり、浅井・朝倉の陣に対峙する。


 静寂が、一瞬あった。

 互いに、相手を見ている。見て、はかって、備えている。その数秒が、やけに長く感じた。


 信長の旗本から、攻撃の合図の鐘が鳴った。


 両軍が、ぶつかった。


 紘一は後方の医療班陣地で、その瞬間を感じた。

 音が変わった。それまでの緊張した静寂から、一転して戦場の音が溢れ出す。喊声、金属音、馬の嘶き。それが波のように押し寄せてくる。


 川岸に配置した吉田たちは大丈夫か。

 少し前に確認したばかりだが、それでも気になる。戦場で一番危ないのは、前線の兵ではなく、援護なしに近い場所に出ている医療要員だということを、過去の経験で知っていた。


 だが動くわけにはいかない。

 後方医療所には、すでに前線から送られてきた負傷者の予備対応が必要だ。軽傷者の処置を担当する若い医師二人は、緊張した顔で準備を整えている。紘一が動けば、この陣地の司令塔がいなくなる。


「若いの、落ち着けよ」紘一は声をかけた。


「は、はい」


「手が震えているぞ」


「すみません……」


「謝らなくていい。震えていても、手が動けばいい。震えが止まるのは、後からだ」


 若い医師が、少し深呼吸した。


 戦場の音が、さらに大きくなった。


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