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決戦前夜

 六月二十七日。

 織田・徳川連合軍は、姉川の南岸に陣を敷いた。

 夜営の篝火が、南岸一帯に並んでいた。遠くに見える北岸の丘には、浅井・朝倉の陣からも火の点が見える。互いに、明日の決戦を前に、静かに夜を過ごしていた。


 紘一は、陣地を巡回した。

 医療班の準備最終確認。薬草の在庫。包帯の数。担架の本数。使えそうな水場の位置。全部、頭に叩き込む。


 途中、神崎家の兵たちが集まっている焚き火に出くわした。

 顔見知りの連中だ。広信の領から来た兵たちで、紘一が名前を覚えている者もいる。


「田邊様」一人が声をかけてきた。「明日、うまくいきますか」


 紘一は焚き火の傍に座った。


「わからん」と正直に言った。


 兵たちが苦笑した。


「正直ですね、田邊様は」


「嘘をついても仕方がない。数の上ではこちらが有利だ。地形の把握もできている。だが、戦というのは、やってみなければわからないものが必ずある」


「怖いですか」若い兵が聞いた。


「怖い」紘一は言った。「五十七になっても、怖い」


 その正直な答えが、何かを和らげたのか、兵たちは少し笑った。


「田邊様でも怖いんですか」


「当たり前だ。怖くないやつは、危機感がないやつだ。怖いと思いながら動ける奴の方が、生き残る確率は高い」


 別の兵が言った。「田邊様は、いつも兵の命を大切にしてくれますね」


「そういう領主がいてくれると、安心して戦えます」


 紘一は少し間を置いた。

 领主、という言葉が、まだたまに引っかかる。自分は二〇二三年の日本から来た男だ。元々はただの画家で、現代人だ。四十一年かけてここに居場所を作ったが、「領主」という言葉の重さは、今でも慣れない。


「明日、無理をするな。命を大切にしろ。戦いが終わったら、全員で帰る」


 その言葉に、兵たちが静かに頷いた。


「はい」


 紘一は焚き火から離れ、また巡回を続けた。


 ***


 夜更け、紘一は天幕で一人、絵を描いていた。

 明日の戦いで使えるかもしれないものを、いくつか用意しておく。


 まず、土煙の絵。

 乾いた土が舞い上がれば、視界を遮ることができる。川の北岸、敵の陣の手前で使えれば、渡渉する味方の姿を一時的に隠せるかもしれない。ただし、体への消耗が大きい。本当に必要なときだけ使う。


 次に、足場の石。

 渡渉地点に、自然に見える大きめの石を置いておく。滑りにくくなり、渡る速度が上がる。これは小さいものだから、消耗は少ない。


 最後に、煙の絵。

 草木が燃えたときの煙を、絵として描いておく。敵に囲まれた際の目くらましに使える。ただ、これを使う状況になれば、かなり追い詰められているということだ。


 絵を巻いて、懐に仕舞う。


 準備は整った。

 あとは、夜明けを待つだけだ。


 紘一は天幕の入口から外を見た。

 姉川の向こうに、北岸の火が揺れている。明日、あそこへ渡る。敵と正面からぶつかる。どれだけの命が失われるか、今夜の時点ではまだわからない。


 でも、動くしかない。

 四十一年間、そうやって生きてきた。動き続けることしかできないのなら、動き続けるしかない。


 夜風が天幕を揺らした。

 川の音が、遠く聞こえた。


 夜明けまで、あと少し。


(第一章 浅井・朝倉の裏切り 完)


 ***


 夜明け前、まだ空が灰色のままの頃、紘一は目を覚ました。

 少し眠ったのか、眠れなかったのか、はっきりしない。体が重い。疲労が蓄積している証拠だ。


 天幕を出ると、陣地は静かに動き始めていた。

 兵たちが黙々と武具を整えている。炊き出しの煙が上がっている。指揮官たちが小声で最終確認をしている。夜明け前の独特の張り詰めた空気が、陣地全体を包んでいた。


 紘一は医療班の天幕に向かった。

 吉田はすでに起きていて、薬草を並べ直していた。


「眠れましたか」紘一は声をかけた。

「少し。田邊様は」

「同じくらい」


 二人は少し笑った。お互い、似たような夜を過ごしたのだろう。


 吉田が真剣な顔になった。


「田邊様、今日……どのくらい負傷者が出ると思いますか」


「わからん。だが、両軍合わせて二万八千と一万八千がぶつかる。多くはなるだろう」


「覚悟しておきます」


 吉田の顔に、揺るぎない何かがあった。医師として、自分の役割を引き受けた人間の顔だ。


 この男が育ってくれたことを、紘一は誇りに思う。

 お絹から受け継いだ医術を、吉田がしっかり継いでいる。そしてまた、吉田の弟子たちへと伝わっていくだろう。紘一がいなくなっても、医術は続く。それが、紘一のひそかな望みだった。


「吉田」


「はい」


「今日、無理をするな。負傷者を全員救おうとするな。目の前の一人を、確実に救え。それだけを考えろ」


 吉田はしばらく考えてから、頷いた。


「わかりました」


 東の空が、少しずつ白んでいた。

 姉川の水面が、その光を受けて、ぼんやりと輝き始める。


 陣太鼓が、遠くで鳴った。

 出陣の合図だった。


 紘一は懐の絵を確かめた。間違いなくある。備えは整った。


 今日という日が、また一つ、歴史の中に刻まれていく。

 それがどんな形で刻まれるかを、紘一は「知っている」。だが知っていることと、体でそれを生きることは、まるで違う。


 足音が、陣地に満ちてきた。

 兵たちが動いている。戦いが始まる。


 紘一も、歩き始めた。



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