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浅井への憤りと現実

 六月に入った頃、信長は再び軍を動かした。

 浅井・朝倉への反攻の準備が整いつつあった。同時に、遠江の徳川家康からも使者が届いた。


「信長殿、力を合わせて浅井・朝倉を討ちましょう」


 家康の申し出を、信長はすぐに受け入れた。

 織田軍と徳川軍の連合。合わせて約二万八千。対する浅井・朝倉連合軍は約一万八千。数の上では有利だ。


 岐阜城での評議に、紘一も呼ばれた。

 信長が地図を広げる。姉川の北側に、浅井・朝倉の軍が陣を構えている。南側から、織田・徳川軍が押し渡る。


「田邊殿、川の渡渉について、意見を聞かせろ」


 紘一は地図を確かめながら言った。


「姉川は浅いが流れが速い。増水していれば渡渉は難しくなります。晴天が続いているうちに動くのが良いと思います」


「それから、渡る場所を複数用意することを勧めます。一箇所だけでは詰まります。二、三箇所に分けて、同時に渡る」


「川の中での戦いは、どちらにとっても不利です。できれば渡りきってから戦列を整えた方がいい。徳川軍には先に渡ってもらい、こちらが後から続く形はどうでしょうか」


 信長は少し考えた。


「渡渉地点を複数用意する案は使える。徳川には北側から当たってもらう」


 評議が進む中、紘一は明智光秀と目が合った。

 光秀は、静かに頷いた。光秀は紘一の意見をよく聞いてくれる。この男も、戦略を感情ではなく冷静に考える人間だ。


 評議が終わり、廊下を歩いていると、光秀が声をかけてきた。


「田邊殿、少しよろしいか」


「何でしょう」


「先ほどの渡渉地点の件……もう少し詳しく聞かせてもらえますか。川幅と水深を、どのくらい想定されていますか」


 紘一は、自分が現地を下見していないことを改めて認識した。


「まだ現地に行けていません。来週、姉川まで行って確かめるつもりです」


「私も同行しましょう」光秀は言った。「地形の把握は、丁寧すぎることはありませんから」


 光秀との現地確認が、決まった。


 ***


 翌週、紘一と光秀は数名の供を連れて、姉川に向かった。

 近江の田園地帯を抜け、山裾に沿った道を進む。梅雨の合間の晴れで、川の水量は平常に近かった。


 姉川は、確かに浅かった。

 だが、流れは速い。素足で入ってみると、足元が砂利で、水流に引っ張られる感覚がある。重い鎧をつけた状態では、転倒のリスクがある。


「ここは難しいですね」光秀が言った。


「少し上流を見てみましょう」


 上流に向かうと、川幅が少し広がり、流れが緩やかになる場所があった。底も砂地で、足場が安定している。


「ここなら通れます」


 紘一は手帳に書き込んだ。場所の特徴、距離、対岸の地形。


 そして、もう一つ確認したことがあった。

 川の北岸、浅井・朝倉が陣を張るであろう場所。そこに近い場所に、低い丘がある。ここに物見台を設けることができれば、敵の動きが見えやすくなる。


 後で、この丘の絵を描いておこう。物見台の絵も描いておこう。あまり大きなものは難しいが、木の枝を組んだ小さな台なら、自然な範囲で実体化できるはずだ。


「光秀殿」紘一は言った。「あの丘、事前に物見台を設けることはできますか」


「敵の勢力圏に近いですね」光秀は丘を見た。「ですが、草木に紛れれば可能かもしれません。数名を先行させて、設置しておく」


「ぜひ、お願いします」


 光秀は頷いた。

 この男と話をしていると、物事が丁寧に進んでいく気がする。感情的にならず、相手の意図を正確に汲み取り、自分の意見も明確に述べる。信長の家臣の中で、最も紘一に近い感覚を持つ人間かもしれない。



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