秀吉の武功と代償
京都の本陣に落ち着いてから、三日が経った。
傷ついた兵たちの治療が続いている。医療班の天幕には、絶え間なく負傷者が運び込まれた。軽傷者から重傷者まで、百人を超えていた。吉田と清水が昼夜問わず動き回り、紘一も休みなく処置を続けた。
手を動かし続けることで、余計なことを考えずに済む。
だが、夜になると嫌でも頭が動き始める。山道に置いてきた重傷者たちは、どうなったか。後で戻ると言ったのに、戻れていない者もいた。あの者たちは、助かったのか。
答えは、おそらく出ない。
「田邊様」吉田が来た。「信長様が秀吉殿を呼ばれています。田邊様も同席してほしいとのことです」
「わかった」
信長の謁見室は、京都の宿所の広間だった。
信長は上座に座り、主だった家臣たちが居並んでいる。秀吉は下座に進み出て、深く頭を下げた。
「秀吉」信長は言った。「よくやった」
その一言に、広間が静まり返った。信長が家臣を褒めるときは、たいてい短い。だがその短さの中に、何か並々ならぬ感情が込められている気がした。
「殿軍を務め、本隊を守った。あの退却で、わしは生きてここにいる。それは秀吉、おまえのおかげだ」
秀吉は頭を上げなかった。
「恐れ入ります」
「領地を増やす。追って知らせる」
短い言葉だが、意味は大きい。信長の信頼と評価が、またひとつ秀吉に積み上がった。
だが、紘一が気になったのは、そのあとだった。
謁見が終わり、人々が散っていく中で、紘一は秀吉の顔をそっと見た。秀吉は表向き静かに笑っているが、その目の奥に何かが沈んでいた。
後でそっと声をかけると、秀吉は少し間を置いてから言った。
「千人近く、失いました」
その声には、感情の揺れがあった。
喜びでも悲しみでも怒りでもない、もっと複雑な何か。
「私が命令を出し、彼らは戦い、死にました。それが正しかったのか、間違っていたのか……今はまだ、わかりません」
紘一は、秀吉の横に並んで、外の庭を見た。
新緑が、午後の光の中で静かに揺れている。
「正しいか間違いかではなく、あなたは最善を尽くした」紘一は言った。「千人を失ったが、残りの二千を救った。その二千の命と、信長様の命と、本隊の兵たちの命が、あなたの判断で守られた」
「そう思えれば、楽になれるのですが」秀吉は静かに言った。
「楽になろうとするな」
秀吉が紘一を見た。
「楽になれば、次も同じことをする。楽にならずにいれば、次は一人でも少なく死なせようとする。その積み重ねが、本物の将を作る」
秀吉はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。「田邊様は、ずっとそうやって、生きてきたのですね」
「まあ、そういうことになるか」
紘一は苦笑した。
四十一年分の積み重ねが、今の自分を作っている。楽にならないまま、それでも前に進み続けた四十一年間だ。美しくはないが、それが自分の生き方だった。
***
翌日、信長は浅井への対応を議論する評議を開いた。
怒りは当然ある。信長の妹の夫が、同盟を破って背後を突いた。その事実は揺るぎない。
だが、信長は冷静だった。
「今すぐ浅井を攻めることはしない」信長は言った。「まず体勢を立て直す。それから、順番を決めて動く」
順番。その言葉が、紘一には引っかかった。
信長は、この包囲状態を、感情ではなく戦略として捉えている。怒りを道具として使いながら、頭の中では冷静に計算している。
それが信長の強さだった。
そして、時に紘一が怖いと感じる部分でもあった。
「田邊殿」
信長が直接声をかけてきた。
「姉川の近辺の地形を、描いてもらいたい。次の戦いはあの辺りになる」
「承知しました」
紘一は頷いた。姉川。次はそこで、浅井・朝倉の両軍と決戦することになる。
絵を描かなければならない。地形を把握し、使える場所と使えない場所を見極め、準備を整える。それが自分の仕事だ。
夜、紘一は蝋燭の明かりの中で地図を広げ、姉川の流れを確認した。川幅、流れの速さ、渡渉できる場所。地図だけではわからない部分も多い。実際に行って見なければならない。
頭の中で、すでに次の備えが動き始めていた。




