表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

209/238

朝倉討伐の出陣

 元亀元年(一五七〇年)、四月。

 岐阜の空は、まだ春の色をしていた。

 山の向こうに残る淡い雪と、ふもとに芽吹いた若草が奇妙に混ざり合って、どこか落ち着かない景色を作っている。こういう季節の変わり目というのは、いつだって何かが起きる気がする。気のせいかもしれない。だが、五十七年生きてきた身に染みついた勘というのは、たいてい外れない。


 田邊紘一は、神崎屋敷の縁側に腰を下ろし、手元の紙に筆を走らせていた。

 描いているのは、山道だった。険しい山の斜面に刻まれた道。その両脇に生える低木。岩場のある急傾斜。細部まで丁寧に描き込んでいくうちに、自分でも不思議なくらい集中してしまう。絵を描いているときだけは、余計なことを考えずに済む。


「田邊さん、召集がかかりました」


 声がした。振り返ると、広信が立っていた。

 もう五十二歳になる。紘一がこの時代に来た頃、まだ少年だった広信が、今や白いものが混じった顎鬚を蓄えた中年の武士になっている。時間の流れというのは、本当に残酷なくらい正直だ。


「朝倉討伐か」

「はい。信長様から直々に」


 広信は書状を差し出した。紘一は受け取り、内容を確認した。

 足利義昭——今の室町幕府の将軍——が、信長に越前の朝倉義景を討つよう要請した。朝倉は、かつて義昭が流浪していたころ、援助を断った男だ。義昭にとっては、恨みの相手である。信長は義昭の要請を受け入れ、総勢三万の大軍を編成した。


「広信は、残るのか」

「はい。年齢的に、もう長い行軍は無理です」広信は苦笑した。「田邊さんに謝るのも情けない話ですが、神崎家からは兵二百を出します。指揮は副将に任せます」

「構わない。むしろ、領地を頼む」


 紘一は書状を膝に置き、庭の若草を見た。

 四十一年。この時代に来てから、もうそれだけの歳月が流れた。最初の頃は毎日が戸惑いと驚きの連続だったが、今はすっかりここが自分の場所になっている。帰る場所などとっくに考えなくなった。

 それでも、戦というものにだけは、慣れない。慣れたくもない。


「田邊さん」広信が、少し改まった顔で言った。「無理はしないでください。あなたは、我らの……いや、この領の要ですから」


 その言葉が、どこかくすぐったかった。

 要、か。そんなつもりはないのだが、人からそう言われると否定もしにくい。


「わかった。気をつける」


 紘一は立ち上がり、絵を丁寧に巻いた。

 この山道の絵は、後で使えるかもしれない。越前の山地に入るなら、足場になる地形の絵を描いておいて損はない。


 ***


 出陣は、四月二十日だった。

 岐阜城下に集まった兵の数は圧巻だった。尾張、美濃、近江の一部から集めた兵が、城下の街道を埋めつくしている。旗が林のようにひしめき、馬の嘶きと足軽たちの声が混ざり合って、独特の喧騒を作っていた。


 紘一は、その喧騒の中を歩きながら、胸の奥に引っかかるものを感じていた。

 違和感、とでも言えばいいのか。何かがうまく噛み合っていない感覚。


 浅井だ、と思った。

 浅井長政。近江北部の大名で、信長の妹・お市の夫。信長の義弟にあたる男。その浅井家と朝倉家は、古い同盟関係にある。もし信長が朝倉を攻めるなら、浅井は動かないのか。動けないのか。あるいは……裏切るのか。


 歴史の知識として、答えは知っている。

 だが、その「知っている」という感覚は、現実の前ではひどく頼りなくなる。教科書の文字と、目の前に広がる三万の兵の命は、まったく別の重さを持っている。


 秀吉が傍らに来た。

「田邊様、顔色が悪いですよ」

「そうか」

「不安ですか」

「少し、な」


 秀吉は、軽く笑った。笑い方が、相変わらずうまい。不安を和らげるでもなく、否定するでもなく、ただ場の空気を少し軽くする。この男の特技だ。


「私も不安ですよ」秀吉は言った。「ですが、不安なまま、行くしかありません」

「そういうものだな」

「そういうものです」


 織田軍は、北へ向けて動き始めた。

 越前へ。朝倉の本拠地へ。


 ***


 行軍は、順調だった。

 湖北を抜け、敦賀へ。越前の入口にあたる金ヶ崎城を目指す。朝倉の兵は、当初は抵抗したが、その勢いは思いのほか弱かった。城を落とし、街道を進む。兵たちの士気は高く、先行きは明るく見えた。


 紘一は、行軍の合間に絵を描き続けた。

 山道の足場になりそうな岩の配置。川の浅瀬。崩れかけた土手を補強するような土壁。どれも派手なものではないが、いざというときに使える「自然に見える」ものたちだ。大きな何かを創造すれば体力を大きく消耗する。だから、小さく、地味に、しかし確実に備えを積み重ねていく。それが紘一の流儀だった。


 金ヶ崎城に近づいたのは、四月二十八日のことだった。


 行軍の途中、紘一はふと、兵たちの顔を眺めた。

 若い者が多い。十代後半から二十代の男たちが、重い荷を背負って黙々と歩いている。彼らのほとんどは農村出身で、平時は田を耕し、畑を守り、家族と暮らしている。それが招集されると、こうして見知らぬ土地を歩く。当たり前のことなのだが、改めて見ると胸に重いものがある。


 行軍の三日目、休憩の合間に一人の若い兵が紘一に声をかけてきた。


「田邊様、少し聞いてもいいですか」


「なんだ」


「私は、この戦いで手柄を立てれば、村に戻ったとき、少し格が上がりますか」


 純粋な問いだった。武功を求めているというより、家族に何かを持ち帰りたい、という気持ちが見えた。


「手柄より、まず帰ることを考えろ」紘一は言った。「生きて帰ることが、家族への一番の手柄だ」


 兵はきょとんとした顔をしてから、少し笑った。


「そうですね。そうします」


 単純なやり取りだが、こういう会話が積み重なって、紘一と兵たちの間に何かができていく。信頼というほど大げさなものではないが、距離が縮まる感覚。それが、いざというときに動く力になることを、紘一は知っていた。


 越前の国境を越えると、空気が変わった。

 山が険しくなり、道が細くなる。朝倉の斥候が近くにいる気配もある。兵たちの表情が引き締まった。笑い声が消え、足音が揃い始める。


 戦が近い。体が、それを感じ取っていた。






カクヨムにて


足軽転生記 ~現代知識で戦国を駆け上がれ~


という戦国物を4/10 20:08より10分間隔で六話投稿いたします。

ぜひお読みください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ