金ヶ崎の報せ
金ヶ崎城は、敦賀湾を見下ろす高台に建っていた。
城の規模はさほど大きくはないが、立地が絶妙だった。三方を急斜面に囲まれ、正面だけが比較的緩やかな登り道になっている。その道も、守る側から見れば格好の射撃地点だ。
織田軍は包囲網を敷き、攻撃の準備を整えていた。
紘一は後方の陣地にいた。医療班の天幕を設営し、薬草を並べ、包帯の束を確認する。戦いが始まれば、ここが戦場の一番忙しい場所になる。
「田邊様」
吉田が来た。元々は紘一の師匠筋にあたる医師・お絹の弟子だった男で、今では紘一の医療班の実質的な副隊長格だ。三十代半ばになり、腕は確かになった。
「準備は整っています」吉田は言った。「ただ、包帯が少し心もとないです」
「わかった。あとで補充する」
補充、の意味を吉田は知らない。今夜、紘一が一人で倉庫に入り、絵を使って創り出すということを。それは毎回、こっそりやることだ。
陣地の空気は張り詰めていた。
攻撃開始の太鼓が鳴れば、すぐに戦いが始まる。城の守備兵が何人いるか、正確にはわからない。だが、落とせないほどの兵力ではないはずだ。問題は時間だった。早く落とさなければならない理由が、ある。
浅井、だ。
紘一の頭から、その名前が離れなかった。
もし浅井が動くなら、今だ。信長が越前の奥深くに入り込んだとき、背後を突く。それが最も効果的なタイミングだ。歴史はそう動いた。そして今、まさにそのタイミングが近づいている。
信長に言うべきか。
何度もそう考えた。「浅井が裏切ります」と告げれば、被害を少なくできるかもしれない。だが、根拠のない予言を、信長が信じるだろうか。むしろ、どこでその情報を得たのかと問い詰められる。過去にも、何度か未来を「見越した」助言をしてきたが、毎回それなりの理由をつけて説明してきた。「浅井が裏切ります」などと言えば、何を根拠に、という話になる。
結局、紘一にできることは、来るべき事態に備えることだけだった。
退却路の確認。
医療物資の確保。
そして、殿軍を務める兵たちへの、できる限りの支援。
夜、紘一は一人で倉庫に入った。
灯明の小さな明かりの中で、絵を広げる。包帯の束。薬草の袋。清潔な布。一つ一つ、丁寧に描く。完成した絵に手を触れ、意識を集中させる。
エネルギーが体から流れ出る感覚は、いつになっても慣れない。
内側から何かを抜き取られるような感覚。大きなものを創ればそれだけ消耗する。今夜は小さいものを少しずつだから、まだましだ。だが、翌日には軽い疲労感が残る。年を重ねるほど、回復が遅くなっている気がした。
包帯が二十束。薬草が三袋。布が十枚。
それだけ創ったところで、紘一は手を止めた。
これ以上は今夜は無理だ。体が正直に言っている。
倉庫の扉を開けると、夜風が入ってきた。
敦賀湾の方から吹いてくる、潮の匂いのする風だった。遠くに、湾の暗い水面が見える。その向こうは日本海で、さらに向こうは大陸だ。
四十一年前の世界では、この海の向こうに何があるか、誰もが知っていた。
今の世界では、海の向こうは未知のまま広がっている。
紘一はしばらく、その暗い水面を眺めた。
明日、何かが起きる。そういう予感が、腹の底にある。
***
翌朝、金ヶ崎城への攻撃が始まった。
織田軍の先鋒が城門に攻めかかり、城の守備兵が矢と石を降らせる。怒号と金属音が入り混じった戦場の音が、山の谷間に響いた。
紘一の医療班には、すでに最初の負傷者が運ばれてきていた。矢を肩に受けた足軽。石が当たって頭から血を流している男。吉田と清水が次々と処置する。紘一も加わって、傷口を洗い、止血し、包帯を巻く。
手が血で染まる。
毎回のことだが、慣れない。慣れてたまるかという気持ちもある。
城の攻防が続く中、紘一のもとに一人の使番が来た。信長からの伝令だった。
「田邊殿、信長様がお呼びです」
紘一は吉田に医療班を任せ、本陣に向かった。
信長は馬上にいた。陣笠をつけ、甲冑姿で、城の方向を睨んでいる。傍らには、明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家らが控えていた。
「田邊殿、少し先へ行って地形を見てきてほしい」信長は言った。「北の山道を。撤退路として使えるか、確かめてほしい」
撤退路。その言葉が、紘一の胸に刺さった。
信長も、何かを感じているのか。あるいは、単純に退路を確保しておく用心深さか。
「承知しました」
紘一は馬を借り、北の山道へ向かった。
カクヨムにて
足軽転生記 ~現代知識で戦国を駆け上がれ~
という戦国物を4/10 20:08より10分間隔で六話投稿いたします。
ぜひお読みください。




