三十(第三十七話)
月が大きく照りつけ、辺りは不自然なほど静まり返っていた。
風もなく、音もなく、ただ月光だけが大地を白く染めている。
その光の下で、野営地は息を潜めていた。
深夜になり、交代で見張りと火番に当たっている者以外は眠っていた。
冒険者は月光を恐れぬ屈強な精神を持つと言われているが、月の出る夜に番を好む者は少ない。
そのため、月夜の番は、いつもの顔ぶれとなった。
一つの目的を果たした安堵と疲労から、ほとんどの者が深い眠りへ落ちていた。
「あいつはどうしたのだろうか」
報告書をまとめるマルヴェナのそばで番に当たっていたバルグロスは、離れた岩の上から丘を見渡すモルバスへ視線を向けた。
「それを持って、話してくるといい」
マルヴェナはユトロが置いていった酒瓶を目で示した。
その酒の残りは、ほんの僅かだった。
酔って眠らぬよう大事に取っていたのだが、モルバスに譲ってやることにした。
モルバスのもとへやってきたバルグロスは、マルヴェナから預かった酒を差し出した。
「何か心配事でもあるのか?」
受け取った酒瓶の軽さに、モルバスは舌打ちした。
「たったこれだけか」
「まぁそう言わずに飲め。マルヴェナからの差し入れだ」
モルバスの座る岩に、バルグロスは寄りかかった。
崖の一件のあとから、モルバスは急におとなしくなった。
残りの駆除作業でも寡黙に徹し、マルヴェナの指示に従っていたため、仲間たちはその変化を測りかねて、どこか扱いづらそうにしていた。
「何だこの酒は……これで終わりか?」
あまりの美酒に、モルバスは陶瓶を睨んだ。
「私は薄めたものしか飲んでいないが、ペリカ酒というらしい。
皆で奪い合いになったが、マルヴェナが取り上げて隠していた」
「クソッ……あいつの酒かよ」
瓶を叩き割ろうと持ち上げたモルバスは、ふと黙り、力を抜いた。
ユトロが自分には渡そうとしなかった酒──それが、他人を経てようやく自分のところへ回ってきたのだ。
モルバスは瓶をバルグロスへ放って寄越した。
バルグロスは受け止めて、口の端を緩めた。
「巣穴から俺を突き飛ばした翼竜だが──」
モルバスがぽつりと呟いた。
「奴の死に際が、頭から離れねぇ……
谷底に落ちたのは、俺だったのかもな」
バルグロスには、その言葉の意味が分かる気がした。
モルバスの中で、何かが啓かれたのだろう。
「ならば、新しく生き直せばよかろう」
「……わかった風に言いやがる」
簡単に答えを出す男に、モルバスは顔をしかめた。
その瞬間──空気がどろりと重く沈んだ。
周囲の魔素が闇に引かれるように淀み、肌に冷たい圧がまとわりつく。
風は止んでいる。
だが、空気そのものが、底へ押し潰されるかのように重くなってゆく。
モルバスが立ち上がろうとしたその時、月明かりに照らされていた丘が、突如として闇に呑まれた。
「何だ……?」
「……来るぞ。空だ」
二人は即座に武器を構えた。
耳を劈くほどの爆発音と地響きが起こり、報告書を書いていたマルヴェナは驚いて顔を上げた。
大地に振動が走り、がたがたと鍋が揺れ、湯が溢れた。
林で眠っていた者たちが次々と飛び起きた。
続く爆風に目を細め、ばたばたと風に煽られる紙を、マルヴェナは掴んで鞄に押し込む。
弓を取り、剣を腰に下げた。
野営地の前方に巨大な結界が張られ、飛んでくる土埃を遮った。
フェノルが即座に反応していた。
そして杖を手にしたサリネが真っ先に立ち上がり、丘へ駆けだす。
「待てサリネ! 何が起きているのか──」
「こ……黒竜です!! わ、私は援護に向かいます!」
そう叫ぶと、サリネは土埃の中に消えた。
フェノルが前方で防御魔法を展開しているのを見て、マルヴェナは昨夜の出来事を思い出す。
サリネが向かった先には、ユトロがいる──そう直感した。
上空に青黒い炎が揺らめき、電光が散った。
敵を確信したマルヴェナは、声を張った。
「焚き火を消せッ! 黒竜戦に備えよッ!!
緑の徽章の者は林を下り、クナール村へ退避せよ!
青の徽章の者は武器を取り、バルグロスの指示に従えッ!」
速やかに焚き火が消され、真夜中の林に不安と緊張が走った。
マルヴェナは先行隊の弓使い二人を呼んだ。
「ミスティンと私はここに残る。
ヴァインは谷底の部隊に、この事を伝えてくれ。
トライオはノルクを連れてクナールへ向かい、緑の徽章の者が揃ったら、そこで待機せよ。
危険な状況になれば、いつもの合図を送る。
その時はクナールの人々を集め、スヴァンへ向かえ。
誰も報告に戻らなければ、さらにスカルデンまで行き、ギルドの指示を仰ぐのだ」
翼竜戦のときとは打って変わり、マルヴェナの声には僅かに動揺が混じる。
こんな形で黒竜討伐に移るとは予期しておらず、全滅の危機も視野に入れていた。
幸い、矢束はまだ残っている。
解体作業の後、ユトロはクナールへ次々と荷を運んでいた。
矢束はわざと残したのだろうか──そう考える一方で、そんな芸当ができるはずがないとも思えた。
目の前に、黒竜の屍でも転がっていれば──
今朝そう口にしたのは、確かに自分なのだが……




