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三十一(第三十八話)



 遠征七日目の夜──黒竜が姿を現す前夜であった。


 バルグロスから聞いた今後の予定を思うと、ユトロは気が遠くなった。

 一人でやれば二、三日で済む討伐を、翼竜戦すら終えぬまま、すでに一週間も費やしているのだ。


 ナユタナの顔を見ることすら叶わぬ日が続く──そう思うだけで、ユトロの不満は刻々と募っていた。

 遠征など放り出してしまおうと、幾度となく考えては思い留まった。


 人族の地で平穏に暮らしてゆくためには、ギルドとの関係は良好でなくてはならない。

 参加した以上、任務は最後までやり遂げねばならぬだろう──男は奥歯を噛みしめた。


 ユトロは自分のいない屋敷で、ナユタナが退屈にしていると思っていたのだが、彼女は屋敷の者たちと、日々楽しげに過ごしているようだった。

 ナユタナの話しぶりから、その様子はよく伝わった。

 安心はしたが、ユトロにとってそれはどこかつまらぬ話でもあった。


 このままでは、良き夫どころか、良い男とすら思ってもらえぬのではないか……

 早くナユタナを、己の足で冒険へ連れて行ってやらねば──


 そうした焦りもあり、翼竜戦の準備を終えたユトロは黒竜を探すため、翼竜の旧巣である北の渓谷を訪れていた。

 もしそこに黒竜がいたならば、遠征隊の計画など顧みず、翼竜討伐の丘まで黒竜を誘い出そうと考えた。


 翼竜の群れに黒竜の巨体をぶつけ、一網打尽にするのである。

 黒竜の炎で翼竜を巣ごと焼き払えば、討伐はすぐに終わる。

 素材が燃えてしまうという難点はあるが、それがユトロの考え得る、最も早い策であった。


 手柄を独り占めさえしなければ、隊から不満が出ることもあるまい。

 人族の部隊は歩みが遅いが、肝は据わっており、足並みの揃った者たちとみている。

 予期せぬ黒竜の襲来があったとて、逃げ出さずに戦うとユトロは判断した。


 しかしユトロの目論みとは裏腹に、北の渓谷付近に黒竜の気配はなかった。

 翼竜が住処を南へ移した理由が、そこには確かに残されており、ユトロは舌打ちして引き返した。


 野営地へ戻る最中、次の策への懸念がユトロの頭を過った。

 翼竜を取りこぼさぬよう投擲用の石を用意したのだが、谷底の部隊の頭上に落下する恐れを失念していた。


 そこで野営地へ戻ったユトロは、フェノルに話を持ちかけた。

 また、サリネにも万が一に備えて声をかけた。


 人族にとって不可解なことが起きたとしても、報告書に「サリネが援護した」と一言記されれば問題なかろう──男はそのように考えた。


 最後の確認に、マルヴェナの意見も聞いた。

 遠征を早めても損害は出ぬ──彼女の答えは、ユトロの耳に都合よく響いた。


 そして遠征八日目を迎え、マルヴェナの指揮により、翼竜討伐は無事に終えた。

 ユトロは解体作業を手早く済ませ、最低限の武器を除いて荷運びを終わらせておいた。


 バルグロスやマルヴェナは、休みなく働き続ける男を案じていた。

 だが、満月期の三日間に入った今、半人狼であるユトロの体力と魔力は最も高まっていた。


 準備は整った──

 残るは一つ。黒竜を連れて帰るばかりである。



 ユトロは今、ダランが地図で示した北の山岳地に来ていた。

 聞いていた通り、その山はすぐにそれとわかった。

 禍々しい空気を帯び、周囲の山とは明らかに質を異にしていた。


 黒竜の生む黒い霧が、地に降りた闇魔素を日の光から守り、山全体を巨大な“魔素溜まり”へと変えているのだ。

 魔物も多く、魔素を濃く帯びた異様な個体さえ見られ、それらはすべて黒竜の糧となっていた。


 最も月が大きくなる二日目の明月を、“極月(きょくげつ)”と呼ぶ。

 今宵はその極月であった。


 長い年月を生き、豊富な魔素を魔力へと変えて蓄えた黒竜は、極月の下でその力を極める。

 今宵の黒い山は、いつにも増して闇を色濃く漂わせていた。


 巨大な月を背に、ユトロもまた、昂る血を抑えていた。

 筋の浮いた両腕は今にも袖を裂かんばかりに膨れ、遠吠えを上げたくなる衝動を、男はぐっと堪えた。


 極月の夜に起こる人狼族の血の衝動は、抑えがたいものであった。

 眩い月光が地表の魔素を一気に闇化させ、その影響で勝手に体が変化してしまう。

 爪が伸び、目が爛々と光り、薄く開いた口から牙が覗く。

 竜を討つと思うだけで、血はさらに騒いだ。


 黒竜と半人狼──二人が相まみえるには、あまりに相応しい夜であった。



 気配を殺し、無薫魔石でにおいを断ったユトロは、黒い山の頂へ立つと深く息を吸い込んだ。

 そして──耳を劈く遠吠えを上げた。

 びりびりと山肌を伝い、麓へと広がってゆく。


 さらに胸を反らし、喉、肺、腹へ魔力を通わせ、夜空へ向かってもう一度放つ。

 今度は嵐のような突風がユトロの周りから放たれ、山頂から麓へと吹き下ろす。

 黒い霧は一瞬で吹き払われた。

 多くの魔物がその遠吠えに、頭を灼かれて崩れ落ちていた。


「……我の縄張りで、かように吠えるのは──お前か」


 大地を震わせる声に、ユトロは顔を上げた。


 満月が影に呑まれ、視界が暗くなった──その刹那、巨大な闇が翼を広げ、大気が震えた。

 夜より黒い鱗を纏うその竜には、覇者の風格とも呼ぶべき威が漂っていた。


「ほう、赤竜よりも隙のない面構えだ」


 ゆらりと身を揺らし、ユトロは瞬く間に黒竜の顔の横へ跳び、その顎を強く蹴り上げた。


「夜明けまでに済まさねばならん。

 これからお前を蹴り飛ばすが、よいな?」


 倒れかかる竜の鼻の上に乗ったユトロは、右目と左目のどちらを見るか迷い、間の眉間を見つめる。

 巨大なまなこが鼻先の男を見据える。


「先に蹴りを入れておいて、何を言う。無作法な生き物よ」


 仰け反った黒竜は勢いよく体を起こし、鼻先のユトロを振り飛ばす。

 空中で体勢を整えたユトロは、風の壁を作って踏みとどまり、激しい慣性を受け止める。

 やがて壁から身を離し、地へと跳び降りる。


 黒竜の巨体が僅かに浮き、影が地表へ伸びた。

 月光を呑む巨大な足が、ゆっくりと持ち上がる。


「我の“影踏(かげふ)み”の下にあれば、抗う間もなく潰えるのみよ」


 次の瞬間、その足が地を踏み砕く勢いで落ちてきた。

 立っていられぬほどの地面の揺れが、波打つように広がった。


 風で足場を作ったユトロは、すでに地を離れており、涼しい顔をしていた。

 竜の膝まで跳び上がると、ユトロは再び蹴りつける。

 しかし黒竜はびくともしない。


「俺はお前を“蹴り飛ばす”と言ったのだ」


 繰り返される影踏みを避けながら、ユトロは魔力を込めて腹を蹴った。

 竜は僅かによろめく。

 さらに風で勢いをつけ、強化した足で蹴り上げると、巨体は後ろに数歩退く。


「その程度で、我を倒せると思ったか」

「ふむ、お前の体はちと重すぎるようだな」


 今までの竜ならひと蹴りで吹き飛んだ。

 この調子では、丘へ連れて行くのに夜が明けてしまう。

 日の下で、今の自分の姿を隊の者に見られては困るのだ。


 ユトロは顎をさすり、黒竜に薄く笑みを向けた。


「俺を踏めたら、お前の勝ちにしてやろう」

「ほう……その減らず口ごと踏み潰してくれよう」


 どしん、どしんと巨体が歩む。

 黒竜の影踏みは繰り返され、土が跳ね、山全体が揺れ、いたる所で崩れが起こる。

 ユトロはそれを避けながら、この影踏みは厄介だと考えた。

 遠征隊のいる丘が崩れ、周囲の村にも影響が出てしまう。


「人の姿に化けてみたらどうだ?

 小さい体のほうが戦いやすいかもしれんぞ」

「戦いにくいのであれば、お前こそ身の丈を改めよ。

 ……なれるのであれば、だがな」


 だが次の影踏みも、小さな男を外して地を砕いた。

 小さく唸った黒竜は、周囲に青黒い光球を無数に浮かべ、雨のような細い光線で男を狙い直した。

 黒竜はそれを“影雨(えいう)”と呼ぶ。


 ユトロは素早く影雨をかわして走った。

 男の軌跡を描くように光線は次々と放たれ後を追った。

 黒竜を引き連れ、ユトロは山を下った。


「大きいだけの黒い竜よ、お前の一番大事な宝は何だ。

 お前を倒したら、俺が譲り受けてやろう」


 ユトロの言葉に、黒竜は夜闇を震わせ嘲笑う。


「我の宝、だと?

 ……白竜の竜核に決まっておろう。

 あれほどの敵は、他にいなかった」

「ほう、それはどこにある?」


 黒竜は答えず、見下ろすようにユトロを捉えたまま、攻撃の手を緩めなかった。


 討った竜の核を隠すなら、体内の魔素袋か、あるいは──

 ユトロは目を細めた。


「……姿を消したか」


 突如として男の気配が消え、黒竜は苛立たしげに辺りを見回した。

 後ろを向けば、住処の山が遠くに見え、いつの間にか移動していたことに気付く。


 翼を広げ、羽ばたかせると、周囲の木々が草のように折れて飛ばされる。

 地を蹴ると、山肌が震え、黒竜は巣穴へ向かった。


「そっちではない。俺はここだ」


 ユトロの声に振り返ると、先ほどの場所に男の姿があった。


「どこへ回った」

「黒竜よ、これを見ろ」


 ユトロの手には白銀の巨大な魔石があった。

 男が両手で抱えるほどの大きさである。


 黒竜はそれを見るなり、青黒い炎を吐いた。

 ばちばちと雷光が奔る。


「……それを、どこで手に入れた。

 それは──我が手にあるべきものだ!」


 ユトロは竜核を抱えて走った。

 黒竜は怒りに震え、飛んで追ったが、どれだけ魔力で早めても追いつけない。

 ユトロは後ろを向き、竜との距離を見ては、わざと速度を落として煽った。


 黒竜は怒りに任せて黒炎の球を放つが、ユトロは軽やかにかわす。


「お前の攻撃が俺に当たらぬのは、なぜかわかるか?」

「逃げ回っているだけであろう!」


 黒竜は眼の色を真っ赤にした。


「その通りだ。──よく見ている」


 ユトロは笑う。


 ──竜族は、八つの種族の中にあって、比肩するものなき力を有するとされる。


 数百、数千の時を生き、山の如く巨大に育ち、扱う魔力は海の如し。

 体内の魔素袋に魔力を宿し、息とともに放てば、骨をも溶かす灼きが走る。

 鋼の鱗に包まれた屈強な肉体は、尾の一振りで軍を薙ぎ払い、城壁をも崩す──


 攻防に優れた、まさしく要塞のごとき生き物である。

 ゆえに、竜族を相手にできるのは竜族のみと考えられている。


「お前は“人狼”という種族を知らぬのだな」

「我に知らぬものなどない」


 尾で弾かれた大地が砕け、吹き飛ぶ。

 同時に黒い霧が吹き付けるが、ユトロは風で払った。


「だが、見たことはないのだろう」


 これまで戦ったどの竜も、人狼族を見たことがないと言った。


 竜族は群れず、他の種族と交わることもない。

 ゆえに、人狼族のことを知らぬまま出会い、倒されている──


 人里近くの山で育ったユトロが知る人狼は母ひとり。

 竜を前に血が騒ぐ理由を教えられぬまま、男はただ本能に従っている。


 どれほど強大な攻撃であれ、当たらねば意味を成さぬ。

 そしてユトロの攻撃は、竜を相手にすると驚くほど深く通った。

 人狼族の力は、竜に対してのみ際立つ──ユトロはそう理解していた。


 翼竜戦の跡地へ向かう最中、黒竜は幾度も黒炎の息を吐き、闇霧(あんむ)を吹き、影雨を降らせた。

 ユトロはそれらをすべてかわし、魔力を乗せた爪や足で小刻みな攻撃を繰り返した。

 時に足を止めて手数を増やし、黒竜から体力と魔力を削り取った。

 そうして気付かぬうちに、黒竜の体は一回り縮んでいた。


 目的地を目前に、魔力を込めて強く蹴り上げる。

 竜の巨体が大きく宙へ浮いた。

 翼を開いて勢いを止めた黒竜は、空中で体勢を整え、胸の魔素袋を開く。


 丘の上空で青黒い光を宿すその口を、ユトロは蹴り塞ぎ、頭を駆け上がってそのまま巨体を叩き落とした。


 爆音が轟き、眠っていた遠征隊は目を覚ます──



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