二十八(第三十五話)
連射を得意とする特級冒険者の弓使いミスティンは、谷の対岸へ逃れようとする翼竜に狙いを定め、仕留めようとした。
だが射程をわずかに超えており、次の標的へ移ろうとしたその瞬間──逃げた翼竜が見えない壁にぶつかり、頭を弾かれて谷底へ落ちていった。
同じ光景が、先ほどから何度も繰り返されていた。
ミスティンは弓を構え、空を仰ぐ。
見えない壁は、フェノルという僧侶が展開している魔法の結界だと耳にした。
それは、谷から丘にかけて気配を感じさせないほど薄く張られており、翼竜が触れると光の障壁となって弾き返した。
一人の僧侶がこれほどの広域結界を維持しているなど、にわかには信じ難い話であった。
また、結界に弾かれた翼竜は、次の瞬間には頭を砕かれて谷底へ落ちてゆく。
谷の下にいる部隊は弓の射程外、結界より外側に退避しているため、問題はないはずだった。
──そこまで、算段してのことなのか……?
ミスティンの額に汗が滲む。
「マルヴェナ、誰が石を投げているのか分かるか?」
矢を補充していたマルヴェナに、ミスティンが声をかけた。
どの投擲を指しているのかは、言われずとも分かる。
「おそらくユトロだ。昨晩、一人で石を集めていたからな。
しかもあいつは林から投げている」
「……は? 林から?!」
ミスティンは思わず声を上げ、後方を見た。
百マール後ろの林から放たれた石が、丘を越え、谷の対岸にいる翼竜の頭を弾いているという。
「翼竜に襲われた者を援護しようと弓を構えると、もう石が飛んでくる。
大きな怪我人がまだ出ていないのは、それのせいかもな」
「……そのユトロという男が、林から投擲で援護していると言いたいのか?」
ミスティンはマルヴェナの話を信じきれずにいた。
乱戦の中を林から投擲で援護するなど、弓使いとしては理解に苦しむ話だった。
「ユトロの投げる石は、一回り大きい。
それに、翼竜の頭を砕き、吹き飛ばすほどの威力だ。
それができそうな特級戦士たちは皆、今は剣で応戦している。
投擲をしているのは、上級の者たちだ」
マルヴェナは苦笑してそう言った。
投げているのはユトロであるとしか、考えられぬのだ。
「信じられん……」
「私も信じられないよ。
それをあいつは隠れてやっているんだから、報告書にも書けやしない」
林を見やると、そこにあるのは医療班の陣地だけだった。
マルヴェナはため息をつき、ミスティンは乾いた笑いを漏らした。
マルヴェナは、朝の食事時にサリネへ探りを入れていた。
明け方前の困惑した様子とは違い、彼女はすっきりした顔で「何も問題ない」と答えた。
それ以上は聞き出せずにいたが──
今こうしてフェノルが結界を張り、逃げ場を失った翼竜をユトロが石で仕留めているのを見ると、フェノルの参戦はユトロの指示によるものだと分かる。
この巨大な防御結界も、ユトロの投擲可能な範囲を意識したものなのだろう。
サリネは丘を駆け回り、弓使いたちに矢束を回していた。
フェノルの働きがあまりに広く的確なため、サリネと同様に、ほかの魔法使いたちも投擲用の石や矢の補給役に回っていた。
ユトロとフェノル、たった二人の連携が、戦力配置そのものを塗り替えていた。
ユトロが前線で戦っていたならば……マルヴェナは頭を振り、弓に集中した。
昼を過ぎた頃、空を行き交う翼竜の姿はすっかり消え、丘には無数の死骸が転がっていた。
冒険者の遠征隊は、襲来した翼竜をすべて討ち果たした。
マルヴェナは、戦闘の終了を告げた。
休憩の後、山のように積まれた死骸の処理が始まった。
ときおり、遠方から巣へ戻ろうとする翼竜の影が現れたが、弓使いたちが射落とし、大事には至らなかった。
丘の上の死骸はその場で解体され、崖近くのものは谷へ落とされた。
谷底の部隊も、そこで解体を行っていた。
渓谷にはまだ翼竜の鳴き声が響いていたが、それは巣に残る臆病な個体か、若い雛のものだ。
後ほど崖を降り、巣ごと焼き払うことになっている。
翼竜は繁殖力が高く、放置すればすぐに増えるため、情けをかける余地はない。
「お前は解体も早いのだな……」
疲労困憊の者が多い中で、ユトロは淡々と翼竜の解体を続けていた。
マルヴェナは呆れ半分にそれを見守る。
「碧晶の剣ですよね、それ。いいなぁ」
ユトロの手元の短剣を、カイルスは羨ましげに見つめた。
サリネは焚き火で湯を沸かし、器によそって周囲に配っていた。
解体の時間としているが、疲れが癒えるまでは休息も兼ねていた。
マルヴェナとカイルスも、サリネから湯を受け取った。
「ユトロ、お前はどこに隠れていたんだ」
「さてな」
マルヴェナの問いを軽く受け流し、ユトロは首を落とした翼竜の血を抜き、手際よく脚・翼膜・胴に分けてゆく。
腹を開いて内臓を取り出し、心臓と肝臓は革袋に収めた。
脚は束ね、翼膜は広げて重ね、胴はまとめて縄で縛る。
山積みだった死骸が、次々と整然とした素材の山に変わってゆく。
解体作業は、余力のある者たちが進めていた。
素材に詳しい魔導師ザヤンが、皆に助言を与えた。
ザヤンは翼膜を一枚広げて湯をかけ、血や脂を拭き取りながら部位ごとに山を作り、それを見本とした。
「予定の倍は仕留めたはずだが……
解体は今日中に終わるかもしれんな」
「いやぁ、助かるぜ先生」
休憩していたジルヴァンがやって来て、肩に剣を掛けながら楽しそうに作業を眺めた。
「見てないでお前も手伝ったらどうだ、ジルヴァン」
「それはお前ぇもだろ、マルヴェナさんよぉ」
二人はまだ休むつもりだったが、思いのほか解体が早く進むため、つい見に来てしまったのだ。
「こ、こっちが膀胱の山ですね……
ルーベンさんに、まとめて洗ってもらいます。
臭いが出ますから、か、風下に持って行きますね」
サリネも作業に加わり、ザヤンの指導のもとで卵巣や精巣、睾丸などを塩水で洗い、茹でた膀胱に小分けして詰めていった。
「おい、何をやっている?!」
バルグロスの声が上がり、マルヴェナたちは崖の方を見た。
崖の縁に戦士たちが集まり、腰の縄を命綱にして身を乗り出している。
バルグロスは彼らを止めるべく、そこへ向かっていた。
「あいつら……!」
マルヴェナは慌てて駆け出した。
確認を取ろうと振り向いたバルグロスに、マルヴェナは彼らを止めてくれと合図する。
「全員、直ちに戻れ!」
モルバスら五人の戦士が、巣の駆逐に取りかかろうとしていた。
翼竜の巣は断崖にいくつもあり、一つずつ確認が必要だ。
バルグロスは指示を待つよう止めにかかるが、マルヴェナの危惧はそんな些細なことではなかった。
バルグロスが先に駆け寄るが、すでに彼らは崖を下り始めていた。
マルヴェナは青ざめる。
そこは戦闘で地盤が崩れかけており、杭を打ち直す予定の危険な場所だった。
「バルグロス! その杭は抜いてあるッ!!」
叫びが届くより早く、束ねていた縄がするすると解けていった。
バルグロスは慌てて手を伸ばしたが、縄の端を掠めただけだった。
崖下を覗くと、戦士たちはどうにか無事で、一人が細い足場に張り付きながら震えていた。
抜けた杭の縄を腰に結んでいるのは、グルズという戦士だ。
「大丈夫か?! 全員、そこで待機していろ!」
「悪いなバルグロス、グルズだけ引き上げてくれ。
巣掃除なんざさっさと終わらせてやる。本番は黒竜戦だ」
モルバスはそう言い、グルズの縄を手繰り寄せようとする。
だが縄はぴんと張ったまま動かず、下方の巣穴へと引き込まれていた。
「小賢しい真似をしやがる……」
「早くしてくれよモルバス!」
「この体勢のままじゃもたねぇ。
さっさと縄を投げて、巣穴に入ろうぜ!」
グルズを挟んだ向こう側のザーノクが急かす。
モルバスは舌打ちし、縄を伝って下へ降り始めた。
しかし支えの杭がぐらつき、地面に亀裂が走る。
「モルバス、そこを動くな! お前の杭も抜けそうだ!」
バルグロスの叫びも虚しく、モルバスは己の命綱を剣で断ち切り、岩を掴んで下の巣穴へ潜り込んだ。
グルズの縄を引く相手を、直接断つつもりなのだ。
狭い巣穴の奥に、眼光が浮かぶ。
モルバスは剣を抜き、張り詰めた縄を一刀で断つ。
丘まで届くぎりぎりの長さだったが、グルズが引きずり落とされるのを防ぐ。
「……子を育ててやがったか」
一体の翼竜が、卵と雛の前で身を屈め、モルバスを睨んでいる。
「全滅を前に、一人でも道連れにするつもりか?」
モルバスは警戒しつつ、気を纏う。
全身に力を巡らせ、剣身にも気を込めた。
刃が淡く光る。
地を蹴り──翼竜の頭を剣で貫く。
死角に潜んでいたもう一体が飛び出し、モルバスはそれを、気を込めた拳で岩壁に叩きつける。
だが、その奥に潜んでいた三体目に反応が遅れ──
「なッ──?!」
体当たりを受け、モルバスは外へ弾き飛ばされる。
男は間一髪で岩にしがみつき、剣を突き立てて体勢を立て直すが、翼竜の追撃が続く。
「待っていろ!」
バルグロスの声とともに、ギュッと風を裂く音が走った。
三本の矢が翼竜の両翼と頭を正確に貫き、怪鳥はゆっくりと谷底へ墜ちていった。
モルバスはその姿を黙って見つめた。
岩に突き立てた剣に体を預け、息を荒げながらも、落ちてゆく影から目を離せずにいた。
命を賭けて牙を剥き、最後まで抗い、やがて地に落ちる──
その死に際はどこか自分に重なり、胸の奥で何かがわずかにきしんだ。
ただの怪鳥の最期に、なぜか息を呑んでいた。
谷底に消える影が、遠くで己を見返した。
差し出された手をモルバスが掴む。
新しい杭を打ち、縄を伝って降りてきたバルグロスが、彼を引き上げる。
丘にはすでに四人の戦士の姿があり、マルヴェナが腰に手を当てて立っていた。
彼女の顔には、怒りよりも、安堵の色が滲んでいた。




