十九(第二十六話)
奴隷商を出ると、ダランは布巾で鼻をかんだ。
「サルヴァは魔法の香水を使っておったな。
魅了の効果であろうか」
「私めの鼻がおかしくなってしまいましたよ」
ナユタナは鼻を赤くするダランを見て笑い、コルベとマーヤはぎょっとした。
「あんなに綺麗な人に、そんなの、必要あります……?」
釈然としない様子のマーヤに、三人は顔を寄せてひそひそと話す。
「サルヴァは美しいのか?」
「人族の女は、どれもあんな感じに見えますがね」
「魔力の靄が顔を覆っていて、私には不気味でした」
ナユタナは人族の美の基準がわからず、ダランにはどれも同じに見えた。
そしてコルベに至っては、サルヴァの顔そのものが見えていなかった。
「……あたし、仲間はずれにされてません?」
取り残されたマーヤは、荷台の上でさみしげにしていた。
それから一行は、小さなペリカ農園へ立ち寄る。
果樹畑で木を見てまわるナユタナは、虫を追いかけて帰ってこなくなり、笛の音を聞いたダランが迎えに行くと、暗土鼠の巣穴に嵌っていた。
ナユタナはペリカの果実と酒を、ダランに一箱ずつ買ってもらった。
帰路の途中でマーヤの望みどおり、農家から藁を貰った。
荷台に藁の山が出来ると、ナユタナはそれを登って遊び、屋敷に到着する頃には藁屑まみれになっていた。
朝から厠で転び、午後には暗土鼠の穴に落ち、今しがた藁屑まみれになったナユタナは、浴み小屋でマーヤとサーラに磨かれた。
夕餉までの間は、ダランの執務室で剣の稽古をした。
「どうした、ダランよ。チャリチャリが足りんのか?」
尻尾に弾かれたナユタナは棒切れを床に置き、ダランが数えている銅貨と銀貨を眺める。
「ナユタナ様のお召し物の釣り銭で、何とか回しておりましたが、そろそろ私めも金を集めに行かねばなりません」
「おお、冒険者の仕事をするのだな? ならば私もついて行くぞ」
「いえ、その……」
竜討伐でなければついて行けるだろうと、ナユタナはダランを見つめるが、ダランは言葉を濁した。
「そばで見ているだけだ。ダランの邪魔はせん。
必要なら手を貸すぞ?」
ダランはどうしたものかと目を閉じた。
男が金を集めに向かおうとしている先は、ギルドではなかった。
だがここは、ナユタナの話に合わせるのが無難である──
ダランが目を開くと、期待に満ちたナユタナの顔が、目の前にあった。
「私はけっこう役に立つぞ?」
「……今夜、ユトロ様に聞いてみましょう」
ギルドであれば、ユトロはきっと止めるだろう──ダランはそう考えていた。
しかしその日、ユトロは屋敷に戻らなかったのである。
△ ☽ △
夜食に備えて夕餉の量を減らしていたナユタナは、ユトロが来なかったために、夜中じゅう腹の虫を鳴らすことになった。
ダランに干し肉を差し出され、美味しくないそれを噛み続ける。
空腹を紛らわせようと魔石を作るが、余計に腹が減ってきたのでやめた。
ユトロの書き物机に上ったナユタナは、灯を置いて紙を広げ、これまでの見聞を綴ることにする。
まずは人族についてである。
盗賊、奴隷商人、奴隷と奴隷制度、領主や称号、貴族と領民、
町と石塀、競売、貨幣、店の仕組み、服屋の勘定、
冒険者とギルド、雇用、使用人、湯浴み、
厠と夜壺、月光の迷信、魔物の肉……そのほか、思い出した事柄。
そして、人族の魔素や魔法に対する知識。
それから竜族と人狼族、鍛冶族のことを少し。
動植物については、絵を添えて書き記した。
ナユタナはこうした記録が好きで、夢中になる。
森でも、彼女は自分の知り得たことを紙に綴り、日課としていた。
いつかまとめて本にしようと考えているのだが、周囲の者は無駄なことだと言って笑った。
森域にはウルラの遺した『残響の碑』がある。
知りたい事はそこから学べるのだ。
けれどナユタナは、残響の碑がすべてを教えてくれるとは考えておらず、自分の記録がいつか誰かの役に立つはずだと信じている。
そうして夜は更けた。
翌朝ナユタナはリーナの治療を行い、食事を済ませ、ダランのもとへ足早に向かった。
しかし執務室にダランの姿はなく、机には“コルベと炉を造るように”と、ナユタナへ宛てた書き置きが残されていた。
冒険を楽しみにしていたナユタナは肩を落としたが、マーヤを連れてコルベの作業小屋へ行くことにした。
屋敷の東側にある倉庫と繋がるその小屋には、作りかけの家具などがあり、木材が積まれている。
ナユタナの新しい椅子も完成していた。
机の下で毛布にくるまって寝ていたコルベは、ナユタナが声をかけると慌てて起きた。
持ってきた食事をマーヤが差し出すと、眠そうな顔でそれを食べる。
使用人は従者棟で食事をとるのだが、コルベだけは常にこの小屋に籠もって仕事をしており、誰かが食事を届けてやるのだった。
「設計図は描けたか? 目の下にくまができておる」
ナユタナが笑うとコルベは耳を赤くし、机の上の図案を彼女に見せた。
ドルガンの工房で見た鍛冶炉と、小屋の図案が三つ描かれていた。
「ダランはここに作れと言ったが、無理であろう」
屋敷に隣接したその小屋は半分が木造で、木材も多く置かれている。
井戸からも遠く、炉を置くには危険であった。
ドルガンの工房は耐熱に優れた石造りだ。
炉を造るのであれば、鍛冶族の工房のように、適した環境を整えねばならぬ。
コルベの案は、三つあった。
まず、この場所を石造りの小屋に造り変え、井戸を引く、という案。
もう一つは、浴み小屋の後ろに新しく造る、というものだ。
「浴み小屋のそばに造るのがいいと思うが、中庭の日当たりが悪くなってしまうな」
「あそこは洗濯物を干すのにちょうどいい広さです」
マーヤもそこに小屋を建てられては困ると感じた。
「コルベはドルガンの工房へ行くのではないのか?
今から屋敷に立派な炉を造る必要もなかろう」
コルベが鍛冶師を目指すのなら、能力の生きる鍛冶族の技術を学ぶべきであり、悩むまでもなくドルガンの工房へ行くはずだと、ナユタナは思っていた。
「通えるのであれば、週に数日工房へ行き、今後もここで働きたいのです」
コルベはここでの仕事も気に入っており、技術を習得した後には屋敷の専属鍛冶師になりたいと考えた。
「コルベさん、三つ目の案は、どのようなものです?」
マーヤに聞かれ、コルベは頷いた。
「このお屋敷は“別荘”とは名ばかりで、もとは前の領主様の本邸であったそうです」
コルベは案を切り出す前に、屋敷について二人に説明を始めた。
「あたしもそう聞きました。
前の領主様は、魔物に襲われて命を落としたって」
そこでナユタナは、ドロナの話を思い出す。
貧民を救った英雄の話の中で、この屋敷について少し触れていた。
コルベはさらに詳しく話す──
この別荘は領内で、魔物の森にもっとも近い位置にある。
トストニフが領主となってから、ここは雇った冒険者の宿に使われていたらしい。
今のトストニフの領主邸は、安全な王都寄りの北区に建てられている。
こうした事情は、コルベが屋敷に来てから、人づてに耳にしたものだった。
マーヤも知っている話もあり、頷いていた。
「それで、三つ目の案なのですが──」
旧領主邸について話したコルベは、最後の図案を二人に見せた。
林の中を進むと、石造りの小屋が見えてくる。
コルベはナユタナとマーヤをそこに案内した。
「この建物を、工房にできないでしょうか」
コルベは壊れた戸をそっと開いて二人に中を見せた。
「こんなところに建物があったんですね」
「壁や天井は造り直す必要がありそうだが、土台は使えそうだな」
「井戸もあるのです」
汚れた窓から、ぼろぼろの木蓋の乗った井戸を、コルベは指差す。
「馬小屋の水は、ここから汲むほうが早そうですね」
マーヤは屋敷の西側の井戸と、道を挟んだこちら側の井戸を比べ、どこまでが便利な範囲かを考える。
そこは屋敷の向かいの林の中にあり、前の領主が冒険者や兵を寝泊まりさせていた場所ではないかと、コルベは考えていた。
前領主は貴族の武人であったと聞く。
さらに奥には平屋の大きな建物があり、そこに兵士たちが暮らしていたのではないか。
コルベにとって、その謎めいた廃屋は、そんなふうに思えるのであった。
「道を挟んだこちら側も、屋敷の敷地と聞いています。
ここなら誰にも見られず、ナユタナ様も魔法が使えるかと」
「うむ、土も十分にある。コルベも土魔法の練習ができそうだな」
コルベの描いた三つ目の図案は、この建物を工房へ造り変えるものだった。
△ ☽ △
昼前に屋敷に戻ったダランは、金貨の入った袋を手にしていた。
ナユタナはそれを見て口を尖らせる。
「冒険者の仕事は終わってしまったのか……」
「ギルドには行っておりません。
不要なものを集めて、古道具屋へ売ってきたのです」
ダランは上機嫌であった。
不要な品が良い値で売れたのだ。
サルヴァからの小さな依頼も、ついでに済ませていた。
早朝、ダランはかつて住んでいた山の巣穴に戻った。
そして、そこにある竜の屍から適当な部位をもぎ取り、サムルカ領で売ったのである。
巣穴のいちばん奥、氷の魔法で作られた隠し部屋には、複数の竜の屍が保存されていた。
「古道具屋? 私も行ってみたかった」
ナユタナはなおも不貞腐れるが、コルベの工房を思い出して、ダランに林の小屋のことを話した。
ダランは部屋の奥の金庫室から区画図を取り出して広げ、南側の林の奥まで領主の私有地であることを確認する。
ナユタナは開いた金庫室を楽しげに眺めていた。
書類の詰まった棚に国の地図を見つけると、ダランに言ってそれを借りた。
地図の写しを作り、見聞録へ綴じようと思ったのだ。
ダランはコルベを呼んで話を聞き、彼が屋敷専属の鍛冶師になることを認め、ドルガンのもとへ弟子入りすることも許可した。
技術を屋敷が買い取るかたちで、ドルガンに交渉するという。
「では、ダランは焼きを担当してくれるか?」
「……はい?」
話がまとまると、ナユタナはコルベの図案を机に広げ、ダランに笑顔を向ける。
「炉を造れと簡単に言うが、私とコルベだけではな……
ダランの強い炎があれば、ドルガンより良い工房がきっと造れると思うのだが」
ナユタナは、竜族の魔法を見る機会を密かに望んでいた。
ついでに、背の高いダランがいれば、何かと便利だとも思った。
質の良い工房が造れると言われてしまえば、ダランも頷くしかない。
コルベに魔法の基礎を教えるという話から、工房を造る手伝いをすることになり、ダランは小さく唸った。
△ ☽ △
午後になるとナユタナはダランを連れ、コルベとともに林の廃墟まで来た。
マーヤは自分が足手まといになると思い、女中の仕事をするため屋敷に残った。
「ダランはこの場所を知っていたのではないのか?」
「ええ。屋敷に貧民が押し寄せた事があり、この辺一帯で寝泊まりをさせ、炊き出しを行ったりもしましたので」
これほど適した建物を、ダランは知っていたのである。
ナユタナは、その顔を見上げた。
「炉を造るには、熱や煙を逃がすことや、水のことも考えねばならぬ。
私がコルベの作業小屋に、手早く炉を用意すると思っていたのか?」
「……ええ、まあ」
ダランはナユタナが土で模型を作ったように、魔法で瞬時に炉を造れると思っていた。
そして炉さえあれば、鍛冶はできるものと考えていた。
壊すことを専門としている竜族には、ものづくりの手間が見えていないようであった。
「井戸は使えるでしょうか」
コルベの問いに、ダランは竜の目を地中へ向ける。
「ふむ……水脈は生きているな」
「ならば、土台の直しから始めよう」
ナユタナはまず井戸へ行き、腐りかけた木蓋を外し、魔法で苔と泥を汲み上げて捨てた。
それから落ち葉を二人に集めさせ、井戸の中へ落とし入れる。
菓子を食べて一息つくと、ナユタナは井戸の中から濡れた葉を一枚ずつ浮かび上がらせ、小屋へと歩かせた。
コルベとダランは休みながら、その奇妙な光景を眺める。
井戸から出てきた落ち葉は、ペタペタと音を立てて小屋の壁に貼り付いていった。
「可愛いであろう?」
「少々……不気味ですね」
自慢げなナユタナに、ダランは言いよどむ。
水魔法で葉を操っているのだが、二人は目を細めていた。
「では、ダランよ。やってくれ」
ダランはナユタナの指示で小屋に入り、内側から弱い魔力で圧を放った。
周囲の鳥が飛び立つ。
小屋を密閉していた葉が散り、屋根と壁が崩れて埃が舞った。
ナユタナとコルベが中へ入ると、埃まみれのダランが不愉快そうな顔をしていた。
「残った部分だけ補強して使える、ということですね」
コルベは嬉しそうにナユタナを見る。
ナユタナはダランの視線に怯えながら、小さく頷いた。
部屋の四隅に杭を打ち、図案をもとにコルベが炉の位置を木材で囲う。
ナユタナは砂の魔法で小屋の中を磨き上げ、コルベは壁に沿って木枠を作った。
再び井戸へ行ったナユタナは、水を室内に這わせて流し込む。
石壁はところどころ崩れているが、小屋を器と見立てて床に薄く水を張った。
コルベが中に入り、木枠の高さを水面に合わせて調整する。
水を流し出すと、床の枠組みが完成した。
「膠灰は晴れの日の午前にしましょう」
「私めの熱い息で乾かしましょうか?」
「それはならん。急に熱して冷やすと、割れやすくなる。
風魔法ならいいのだが」
床すら仕上がらなかったことに、ダランはため息をつく。
ナユタナは、今後の作業を手短に説明した。
だがその地道な工程を聞き、ダランは思わず言葉を失った。
いつか工房ができる日を思い、コルベは意気込んでいる。
「私めは、この先も手伝うのですか?」
「言い出しっぺであろう」
鍛冶族がいるなら、鍛冶用の炉が欲しい。
男はただ、そう思って口にしただけだった。




