十八(第二十五話)
昨日の朝。
ユトロが僧侶フェノルにつけられていた黎明より少し後、屋敷の二階でナユタナは目を覚ました。
海のように広いユトロの寝台に、森人がぽつんと座っていた。
寝台から降りたナユタナはまず、魔石で部屋のにおいを消した。
それから露台へ出て魚の骨を拾い、そこでもにおいを消す。
マーヤに大食と思われぬよう、夜食の痕跡は、こまごまと片づけて回った。
ユトロが大きなガーネスと小さなマナスを一匹ずつ食べているとすれば、ナユタナはマナス二匹程度しか食べていない。
だが困ったことに、ユトロの不在を装うため、魚はすべてナユタナが食べたとされてしまう。
ダランが食べたとすれば済みそうだが、彼女はそれに気付いていなかった。
骨を詰めた袋を胸に抱え、ナユタナは部屋を出て忍び足で肥溜めに向かった。
無薫魔石のおかげで、家畜小屋から厠へ抜ける道のにおいは軽減されていた。
この魔石は、完全ににおいを断つものではない。
ユトロの言いつけにより、効果はあくまで軽減にとどめられていた。
またこの裏道には、ダランが施した光る魔石も点在し、夜間の道標となっていた。
それゆえナユタナはこの時、灯を部屋に置いてきていた。
肥溜めに魚の骨を捨て、厠へ立ち寄った。
暁の時刻のため辺りは薄暗く、厠に至っては真っ暗であった。
灯を持っていれば、そんなことは起こらなかっただろう。
ユトロが忠告したとおり──ナユタナはそこで、足を滑らせて転んだ。
「ぎゃ……ッ!」
穴には落ちなかったが、必死で立ち上がり、青い顔で用を済ませた。
外の水甕で、寝間着と体の汚れを洗い流した。
風の魔法が苦手なナユタナは、ずぶ濡れのまま部屋に戻った。
「ナユタナ様……」
「……何も言わんでくれ」
濡れた姿で戻ってきたナユタナに、マーヤは着替えを出し、身体を拭いてくれた。
「次からは行く前に、あたしを呼んでくださいね」
「……うむ」
それはできぬのだが、返事だけはしておいた。
それからナユタナは薬での治療をリーナに行い、ドロナに癒えの程を見守ってもらう。
朝餉はリーナたちと部屋で食べた。
その日はフォルトナの南区を見に行くことになっていた。
△ ☽ △
屋敷の外へ出たダランは、無薫魔石の効果を確認したいと、荷馬車を出しに向かった。
そして馬番のサモンに荷馬車を用意させたのだが、彼は今もナユタナに怯えており、御者を務めるのを渋った。
向かいの作業小屋からその様子を見ていたコルベが、代わりに自分が御者を務めると申し出た。
コルベが御者台で手綱を引き、ダランは馬の斜め後ろを歩く。
荷台にはマーヤとナユタナが乗っていた。
「帰りに家畜小屋に使う藁を集めてもよろしいでしょうか」
ナユタナの散歩という名目で荷馬車を出したため、マーヤがせっかくならと提案し、帰路に農場へ立ち寄ることが決まる。
馬は隣の竜に怯えることなく荷車を引き、ダランは気を良くしていた。
馬を連れ歩く竜の姿を、ナユタナは物珍しげに荷台から眺めていた。
竜族が半人狼のユトロに仕え、人族に紛れて屋敷で暮らしていること自体、ナユタナには奇妙に思えた。
そもそも生き物の頂点にいるはずの竜族が、半人狼のユトロより弱いということが、ナユタナには不思議だった。
竜が“最も強い種族”という考えは、森では当然の話であった。
だが、人狼族については“狼のような種族”という以外、何も知らない。
狼は群れで行動し、動物や家畜を襲う夜行性の獣だが、人狼族がそれと同じかは分からない。
ダランはユトロが黒竜を倒すと確信しているようなのだが、なぜそんな風に思えるのだろう──
「わっ……!」
「ナユタナ様!」
荷車が大きく揺れ、放り出されそうになったナユタナは、マーヤに支えられた。
コルベとダランが振り返る。
「考え事をされていると危ないですよ。あたしたちも歩きますか?」
「おお、これはなかなか……」
マーヤの心配をよそに、ナユタナは荷台の揺れに合わせて飛び跳ね、遊び始めた。
盗賊に攫われた時も彼女は荷車に乗せられていたが、手足を縛られていたため、身体を打ちつけられて痛かった記憶しかない。
今や自由になった森人は、荷台からの景色を眺め、気になるものを皆に尋ね、荷台の揺れを好きなだけ楽しんだ。
昼は河原で休憩し、火を起こして食事の支度に移った。
川へ向かったダランは、水面を覗くやいなや魚を一度で掴み捕り、小石を投げて鳥を落とし、あっという間に獲物を抱えて戻った。
庭から採ってくるように魚と鳥が手早く用意され、焚き火に並ぶ。
「ダランは何でもできるのだな。
私は一日かけても、何も獲れない時もあるぞ」
「あたしは今目にしたものが、信じがたいです……」
ナユタナは喜び、マーヤは呆然と魚を眺め、コルベは静かに鳥をさばいていた。
食事を終えると、コルベはダランの前へ行って帽子を取り、魔法のことを教えて欲しいと願い出た。
コルベが今日ここへついて来たのも、ダランに話し出す機会をうかがっていたためであった。
彼はダランが魔法を使うことを確信していた。
面倒そうな顔をしたダランに、ナユタナがすかさず口を挟む。
「コルベが上手く魔法を使えたら、鍛冶が捗るであろう?
屋敷でも何か作ってくれるかもしれん」
「……ナユタナ様が此奴めの小屋に、鍛冶用の炉を造ってくださるのであれば、考えましょう」
ダランにそう言われ、ナユタナは工房で見た炉を思い浮かべる。
「土の部分は出来そうだが、コルベは設計図を描けるか?
金属の蓋やらは私は下手で造れぬから、その辺も造れるなら……」
ナユタナはきょろきょろと周囲を見回し、知らない者の姿がないことを確認すると、魔法で足もとの石を除ける。
土の上に片手を乗せ、小さな模型を瞬時に作った。
マーヤとコルベは森人の魔法に目を見張った。
コルベは炉の模型を見つめ、「造りたい」と呟く。
「コルベもドルガンの鎚のように、属性の付いた魔道具があれば、魔法も使いやすくなるのではなかろうか。
鍛冶族は、土と火属性が得意と聞いたぞ」
ナユタナがそう言うと、コルベは真剣に頷いた。
ダランは炉ができるのであればと、コルベに魔法の基礎を教えることにした。
ドルガンの工房で鎚を握って以来、コルベは新たな感覚に頭がついてゆけず、魔法について知る必要があると考えた。
そして基礎を知ることで、目に映り、肌に触れている“何か”が、魔素であるとわかり、僅かな間で川砂から金属を集められるようになった。
「鍛冶族の使う道具は、どれも魔法を補助するための魔道具だ。
鍛冶族はそれらの力を巧みに操ることで、金属を錬り、意のままに形を与える。
つまり魔力錬成や魔法の構築より、形成技術に秀でているのが鍛冶族と言えよう」
ダランは魔法を伴う形成技術については鍛冶族にしかわからぬと言い、そこで話を終えた。
ダランに礼を言うコルベは、悩みが晴れ、明るい表情であった。
「……皆さん魔法が使えて、羨ましいです」
出発した荷馬車の荷台では、マーヤがむくれていた。
コルベの受ける指導を見ながら後ろで真似をしていたのだが、彼女の手には何も起こらなかった。
「マーヤさんも、使えるようになるのではないでしょうか」
「本当ですか?!」
コルベの言葉にマーヤはぱっと顔を上げ、御者台に身を乗り出した。
「コルベよ、適当なことを言ってはならんぞ」
「この娘が魔素を扱えるとは、私も思えん」
馬を止めたコルベは、訝しげな顔のナユタナとダランを見つめた。
「その……ダラン様、ナユタナ様。
お二人のお体には、魔素の通る道筋が見えるのですが……
これは私にしか、見えていないのでしょうか……?」
コルベは自分の目に映るものについて話した。
彼は昨日から目に映る不可思議なものが気になり、屋敷の者を見て回ったのだ。
ドルガンの鎚を握ったことで、コルベが得たものがあるとすれば、それは魔法だった。
ゆえに魔法に関する何かではないかと思い、そして先ほどそれが、魔素であることがわかった。
ナユタナとダランの体には明確な“魔素の道”があり、そしてマーヤの体にもまた、それが見える。
それゆえコルベはダランに魔法の指南を求め、マーヤにも適性があると考えたのだ。
だがそれは、ナユタナとダランには見えていないものであった。
「ほう……」
「コルベには特殊な目があるのだな。
マーヤが月光に強いのは、そのためだろうか」
「では私は……どなたに魔法を教わればいいのでしょう」
おずおずと尋ねたマーヤへ、ナユタナとダランは首を横に振った。
人族の魔法使いは体外の魔素を扱うため、マーヤにも呪文や杖が必要ではないかと思われた。
「人族の魔法使いは、どこにおるのだ?」
「弟子入りをするならば、ギルドに依頼が必要だが」
マーヤは肩を落とす。
依頼料や、魔法使いへ支払う金を用意できるはずもなかった。
そもそも使えるようになるかもわからない魔法に、金や時間を差し出す気にはなれなかった。
「あたしに魔法が使えても、冒険者とか怖くてできませんし、今のままでいいです……」
荷台で両足を抱えたマーヤは、遠くを見つめた。
人族の魔法使いは希少だが、この国では、冒険者以外の道を持たない。
若いうちは冒険者として稼ぎ、引退後に弟子を取って生計を立てる──
マーヤが胸に抱く“魔法使い”の姿は、そう惹かれるものではなかった。
“魔法”という力に憧れがないとは言わぬが、マーヤは女中という仕事が性に合っており、今はナユタナの専属として、望んで就いていた。
ひとしきり考えたマーヤは、魔法を使う必要はないと、心を定めた。
「見えてきたぞ、あの建物だな」
競売の日の朝に発って以来、二度と見ることはないと思っていたその店を、ナユタナは眺めた。
マーヤも顔を上げて懐かしむ。
「メルグリスさんは、お元気でしょうか」
彼女もメルグリスに恩があったため、一緒に来ていた。
屋敷の使用人の多くは、メルグリスの斡旋によって迎え入れられていた。
働き口を求めて屋敷を訪れた者は、まず奴隷商メルグリスのもとへ回され、その素質を見定められたのち、ダランの許しを得て勤めに就く仕組みである。
ユトロがむやみに人を雇うのを防ぐためだ。
こうして始まった人材の取り次ぎが、メルグリスの新たな商いとなったのである。
△ ☽ △
ナユタナが店に入ると、商卓にいた銀髪の女が微笑んだ。
ナユタナは彼女のもとへ足早に近づき、手にしていた包みを差し出す。
「サルヴァ、元気にしておったか?
メルグリスに会いに来たのだが」
「こんにちは、小さなお嬢さん。
お元気そうですのね」
サルヴァと呼ばれる女は背が高く、褐色の肌を持つ。
妖麗な紫の瞳を持ち、大陸南部出身の人族だと言っていた。
メルグリスの妻である彼女は、ナユタナの世話をしてくれた者である。
メルグリスは新しい商売の準備で忙しく、店にはいなかった。
ナユタナはサルヴァに改めて名を名乗り、これまでの非礼を詫び、助けてくれたことへの感謝を伝えた。
「素敵なお名前でしたのね、ナユタナ様。
ユタの木に因むものでしょうか」
「うむ、ユタの木のてっぺんの葉と、もっとも深い根を意味している。
サルヴァはやはり、物知りなのだな」
「知らないことの方がたくさんありますのよ。
主人の方が物知りですわ」
サルヴァは夫を立てて話す。
「メルグリスの話は、ユトロやドロナから聞いたぞ。
人族のことをよく考えているのだな。
この地の長に、ふさわしいのではないか?」
ナユタナの言葉にサルヴァは、笑顔のまま静かに返す。
「人には得手不得手がございますのよ。
トストニフ子爵には、今後も領のお顔になって頂かねばなりません」
領主にふさわしいのは夫ではなく、トストニフだとサルヴァは言った。
地位も外見もちょうどよい方でしょう、と。
ナユタナはトストニフを見たことがないので首を傾げる。
「私の集落の長は背が低かった。
だが確かに、酒を飲む順番は四番目くらいだったな」
「身分の高いお方からではないのですね」
サルヴァの問いに、ナユタナは森人の宴のことを話す。
「森では、宴と宴のあいだでいちばん働いた者から酒を飲む決まりなのだ。
だが皆、早く飲みたいからな──
結局、だいたいいつも同じ者が選ばれる。
つまりそれは、早くたくさん飲む者だ。
最初の杯を受けた者が勢いよく飲むものだから、ほかの者もつられて好き勝手に飲み始める。
そうなると、もはや順番など曖昧になってゆく。
長老はゆっくりしか飲まぬので、いつも四番目あたりになっていたな」
「……たしかに、楽しく飲めるのがいちばんですわね」
サルヴァは話の意図を掴みかねたが、微笑みで受け流した。
これ以上の会話を避けるように、ナユタナの後ろのマーヤへ視線を移す。
「お久しぶりです、サルヴァさん。
メルグリスさんのお陰で、ユトロ様のお屋敷で、妹と無事に過ごしています」
「オルバンさんのところのマーヤさんでしたわね。
お元気で何よりです」
中央区でパン屋を営んでいたマーヤの家は三年前、火災に遭い、彼女は両親を失った。
行くあてもなく途方に暮れていた姉妹は、奴隷商に引き取られ、ダランのもとへ取り次いでもらったのだ。
女中として雇われたのはマーヤ一人であり、まだ幼かったリーナは、マーヤの家族として従者棟の一室に住まわせてもらっていた。
現在リーナは女中見習いとして働いているが、まだ給金はない。
「コルベさんもお元気そうですわね」
コルベは帽子を取って会釈をし、ダランの後ろに隠れた。
サルヴァはダランに微笑みを向けた。
「ダラン様、主人がユトロ様へお願いしたいことがあると申してますの」
「雇用の件であれば、私が引き受けている」
商卓から出てきたサルヴァは、一冊の本を手に取ってダランの上着へ差し込み、広げた扇子で口元を覆ったまま、耳元へそっと囁いた。
ダランは目を細める。
「新しいお店のお話しですの。
出資者としてお名を連ねていただければと思いまして。
奴隷商では、どうしても印象がよろしくありませんでしょう?
けれどユトロ様のお名が添えられれば、領内の商人たちも安心して取引してくださいますわ。
もちろんこれは、責任をお負わせするようなお話ではございませんのよ」
ダランは鼻をむずむずとさせ、耐えきれずくしゃみをした。
サルヴァは上品にそれをかわす。
「ふむ……私の主人に伝えよう。
ユトロ様が了承されたなら、署名の場には私も立ち会う。
今の話をきちんと書面に残すのだぞ?」
ダランの返事に、サルヴァは優雅に微笑んだ。




