19話 揺蕩う衛星
「御神渡」について
御神渡とは、長野県・諏訪湖で見られる自然現象。
厳冬期に湖面が全面結氷し、昼夜の温度差による氷の膨張と収縮を繰り返すことで、轟音と共に氷が割れ、湖上に筋状の隆起が生まれる。古くから「神様が湖を渡った跡」と伝えられてきた。
19話 揺蕩う衛星
霧島side
高校生の冬、俺の心をざわつかせた少年は、立派な青年になって冬の地元に現れた。
凍った湖の内圧が溢れる。その姿はまるで〝神様の通った道のようになる〟そんな現象。その衝撃たるや計り知れはしないが、御神渡が湖を割る衝撃すら、あの頃の面影を残した彼と再会した胸の内には及ばない。
同窓会の誘いが来たのももう随分と昔のような気がしてしまう。それぐらい神渡との数ヶ月は楽しかったし、取りこぼした青春を必死で拾い集めた。まるで、高速な流星を目で追うような感覚。一瞬の奇跡を反芻しては、いつまでも囚われていた心地だった。
俺にとって、神渡真歩への興味は根深く、友人として当たり前を当たり前に過ごしていきたい、と思い込んでいたようだ。
体の内側で御神渡がミシミシと音を立てて立ち昇る。夢中で料理を頬張る姿。俺の職業を聞いて驚いたかと思えば自分のことのように笑ってくれた時の顔。――ふと、壁際で悲しんでいる顔を一瞬だけ見せたことも。
神渡真歩の全てが、冬のホームルームに置いてきた不誠実な執着を再燃させるには十分すぎた。
――だからだろうか、冬の終わりのこの時に、神渡と連絡が取れないのが苛立って仕方ない。
武灯冬和として、プラネタリウムへ資料集めに誘った以降、神渡からの連絡がそっけない。なにより、それから1ヶ月ほど経とうとしているが、定例として行われていたサシ飲みへの断りのLMINが届いたのが数日前。
「……」
俺はスマホの液晶を眺めては、内心ため息を漏らした。『ごめん、最近仕事忙しいんだ』たったそれだけの文字と共に送られてきた謝罪には、〝埋め合わせ〟や〝次回の約束〟を仄めかす気配は無く、次に神渡に会えるかもしれない希望の色は感じられない。
――避けられている、そう感じるのは必然なのかもしれない。
「武灯センセー。筆止まってやがりますよー」
ハッとさせられて真後ろを振り返った。自分の家の見慣れた家具の中に、見慣れた背中が、俺を一瞥する事もなく気の抜けた声を投げてくる。
「玖珂さん……」
「……なんだよ、キッショい声出して」
「俺の存在に忘れるぐらい没頭する何かよりも、原稿進めろください」一瞬昂ったかのような熱は鳴りを顰め、次手は淡々とした声でぶっきらぼうをぶつけてくるこの男。――紛れもなく俺の担当者である。
カタカタと自分の会社用PCを叩くその音は秒針を刻むように耳に馴染んでしまっていて、完璧に存在と目的を忘れていた。
落ちそうな原稿を見張るために玖珂さんが自身の仕事を持って来訪してから2時間と少し。渋々デスクに着いたと思っても、執筆に脂が乗ることは無く、あれも違うこれも違うと、同じ一節を永遠に書き直していた。
――最近では仕事と私生活、双方が充実していて原稿を落とす事も無くなっていたが、神渡との溝が武灯冬和の執筆を停滞させていた。〝満身創痍〟その言葉がそっくりそのまま己に当てはまって自虐的な笑みが張り付いてしまう。
「何笑ってやがる。こっちは武灯先生の原稿落とさせないために必死なんだぞ」
「……相変わらず、言葉きったねぇですね」
浅くかけていたデスクチェアの背もたれに体を預ける。ギジリと歪んだ音が、耳に新しい音のように思えた。
玖珂さんの声は、如何にも俺を饒舌にさせる節がある。俺より年上の立派な社会人が、気心知れた俺に対して砕けた言葉を使ってくるのがなんだか心地よく感じてしまっている。強敵のようで、戦友。――そして友人。その絶妙すぎる繋がりが、口の紐を緩くさせた。
「……最近、飲みの断りLMINが届いて」
「?」
「俺、避けられてんのかなぁ、って」
「それ、神渡さんの事だよな?」
玖珂さんは、断片的情報から簡単に俺の思考を読み取ってしまったらしい。神渡という個人を出さないような言い方をしてみたが、あっさり特定されてしまった。
それに、あまりに重たいトーンで話してしまったのを少し後悔した。だが、隕石の濁流は止まることはない。一度ついてしまった速度はそう簡単に衰えることはなく、ツラツラと不満と不安は思考から音に変わっていった。
「『仕事が忙しい』って。前まで普通に会えてたのに、急にそうなって……。」
「それで今、筆が止まっている、と?」
私事を仕事へ持ち出すな、と怒られてしまうかと思えば、玖珂さんの声のトーンはあまりにもいつも通りで、それでいて俺を軽蔑するように鼻で笑ってみせた。
「恋愛小説家がこんな体たらく、ったぁ、な」
一瞬の間を置いても、思考は最適解を弾き出すことはなく、玖珂さんの言う意図が掴めなかった。しかし玖珂さんの表情から、蔑視されていることはなんとなく察した。武灯冬和としての俺をバカにされたのかとムッとする。
「なんだよ、小説家だからなんだよ?職業は関係ねぇ」
「関係大アリだろ?……お前の神渡さんに向ける感情、普通の友人じゃねぇだろ」
〝普通の友人ではない〟玖珂さんから告げられた意外な言葉に瞠目をしてしまう。拗れた思考が一瞬クリアになって、玖珂さんの言葉をそのまま飲み込んでみようと試みた。
玖珂さんは、俺の仕事仲間であると同時に友人の様な立ち位置である。如何しようもないことを話すには近すぎて、霧島家を相談するには少し遠いだけの友人の側面。――勿論、神渡も友人の……はずだ。
しかし、神渡の前では、玖珂さんの時とは違う俺でありたいと思ってしまう。余裕があって、神渡と肩を並べられるようになりたいと。しかし実際、神渡を前にしてしまうと余裕なんて体現できなくていつだってカッコつけたいと空回ってしまう。
〝失望されたく無い〟たったそれだけの事で、俺は神渡の前で大人の皮を演じ損なっている。
〝友人〟という言葉は便利で大変都合がいい。好意も尊敬も、執拗も全部同じ言葉で包んでしまえばそれで済む。必要以上に踏み込まれないし、踏み込む必要もなくなる。
楽だった。霧島の血を他者に語らないことが。俺の内側の燻った色を、必要以上に曝け出さないことが。
……しかし、神渡へはどうだ――?竹内書店を紹介した時も、風邪を引いた時ただ顔が見たくなったことも、俺の書いた小説を読むことを許したのも、――プラネタリウムで手を取ったことも。
全て〝友人〟として、で片付けられるとばっかり思っていたが、玖珂さんが言うには違うらしい……。
じゃあ、神渡へ抱えているこの感情は一体なんだって言うんだ!
霧島冬一としての輪郭が解けていくような感覚。気持ち悪くて怖くて仕方ないのに、神渡真歩にならと思えてしまった。
雪が解ける。春の色が少しだけ顔を出して存在を主張するように。
白一色の世界に、色彩が宿る。嗚呼、春の匂いがする。世界にも、俺の内側に、も――。
「ッ!……た、タバコッ!」
事実と空気から撤退する様に慌ててタバコとライターを掴んで外へ飛び出す。今、この場所にいる度胸なんて持ち合わせていない――!
「おう、行ってこい」
ドタドタと部屋を踏み荒らして玄関から外へ出た霧島の気配を察して、玖珂は自分の仕事へ向き直る。
「――甘酸っぱい、ねぇ……」
呟かれた言葉は当の大先生には届くことはない。刹那、玖珂の内側で一人の大男がフラッシュバックする。最近連絡をとっていなかったと、懐かしさが込み上げてくる。男は今、一体何をしてどこにいるのだろうか。
「熱に当てられたかね」

苦笑した玖珂の手元にあるスマホから、シュポンと小さい音を立ててメッセージを送る。既読がつくまでスマホを眺めているいじらしい性格なぞはしていないから、さっさと画面を閉じてしまう。パソコンへ手をかけた瞬間、メッセージを受け取る音が部屋に小さく響いた。




