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神渡真歩には夢がない  作者: 武灯冬和


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18/20

18話 喪服にブローチ

 覚束ない足取りでどうにか自宅アパートの扉を開けた時。寒さを凌ぐ分厚いコートも、社会人たらしめる出社用カバンも何もかも鬱陶しく感じているのに、脱ぐことも放り出すことも出来ずに土間で膝を抱えていた。

 聞いたこともない音を立てて心が崩れていく音が、頭の遠くで聞こえた。――おれは霧島にとってなんだろう……。答えがもらえない問答は、ネガティブの沼に着実に沈んで行く。視界がぼぅとぼやけたかと思えば、体温を感じない雫が双眸から落ちて行った。頬を伝うこともせず、堰き止められない土砂降りは真歩の革靴と玄関を濡らした。

 途方もない思い上がり由来の絶望感、そして何より心の内側に入れてもいいと思っていた相手が段々と離れて行く喪失感が、真歩の柔い恋心を切り裂いて血を滲ませてゆく。

 告げてもいない〝失恋の痛み〟は今の真歩にとって、不要な劇薬になってしまった。


 真歩が気付かなかったうちに、霧島は遠すぎる存在になってしまっていたらしい。武灯への取材記事が動かぬ証拠となって、真歩をさらに苦しめた。高校時代から刻まなかった2人の時間は着実に溝を作っていたようだ。非情で、痛くて、後悔が募って行く。

 ――どうやったらこの痛みから逃げられるんだろう……。積まれた不安と疑問は、真歩の流す涙で清算されはしない程に、大切な存在となってしまっていた。

 風邪を引いた時に内側を許してくれたことも、カフェでの視線も、プラネタリウムの体温も、全てが真歩の理想的観測だったかと思うと、驕っていた自分が恥ずかしくなる。霧島の隣にはもう決まった女性がいて、自分は同性の友人でしかない。

 ――昂っていたのは真歩だけにすぎなかった。


 ピロンッ――。上着のポケットの中にしまっていたスマホが通知を告げる。

 鉛の様な重たい手捌きで、スマホを取り出し画面を見つめる。LMINの緑がひとつの通知を告げている。差出人は今脳内を占める人物で、真歩を心配する温かい言葉の羅列にぽたりとまた涙が落ちる。


『仕事落ち着いたらまた飲みに行こ。良い店探しとくから』


 真歩の内情など知る由もない霧島は、いつも通りの当たり前の気遣いを伝えてくれた。どこまでも優しいこの男に嗚咽が迫り上がる。たった今、霧島のために身を引こうとした友人に――片思いの相手にここまで気を配れる男がどこに居るだろうか。

 

 霧島を好きになれてよかった。こんなにも綺麗な一等星は、きっと〝思い他人(びと)〟の女性を幸せにしてくれるだろう。決定事項と願いが混じり合って、顔も知らない女性の内側(宇宙)を照らしてくれていれば、と心にもないことを思う。


「(良き友人、……そのぐらいは居座っても良いだろう?)」


 真歩は液晶の上で指を滑らせて霧島へ返信する。涙の跡が薄く伸びてスマホの上でプリズムを作る。文字を打っては、勇気が出ずにすぐ消してしまう。腹に決めた内容を伝えればいいだけなのに、霧島にバレないようにと念を込めては違和感のない言い回しを探し続けている。


「最近仕事忙しくて。また今度」


 ダイアログに打ち込んだ言葉を送っただけで、体全体から力が抜ける。

 人は嘘を吐く時、饒舌になってしまうらしい。科白を隠すために短い文で偽りをでっち上げる。仕事なんて前々から忙しかった。それでも霧島に会いたかったから調整を重ねて逢瀬をしていたというのに……今はそれすら億劫で仕方ない。


 これは霧島と、真歩の為だ。出せなかった勇気に理由をつけてスマホを電源ごと落とす。手持ち無沙汰と心の蟠りをいっぺんに手に入れてしまった真歩の双眸から再び雫が落ちる。震えている両手で顔を覆い泣きながら笑ってみせた。


「大丈夫……大丈夫」


 頭の中を反芻する言葉で、己を鼓舞する様に上書きを繰り返す。おれも、霧島も、もう大丈夫。依存することでしか立っていられなかった真歩の宇宙は、再度終焉を迎えた。

 

 ――前に戻っただけじゃないか。進展も進化も何もなかった頃に。おれと霧島は、ただのたまに会う友人。泣いたって悔やんだってそれ以上でも以下にもなれない。なんせ霧島には未来を続けていきたい女性がいるから。

 友人として、喜ばしいことだ。大好きな人に大好きな人がいる、それだけで酷く美しく思えてしまう。喜ばしい、そうでなきゃいけない――。


 ふと、土間の横にあるシュークローゼットの上に置かれた半券が目に入る。

 木造りのありふれたクローゼットの上面には、鍵やら小物やらが少しだけある。その中にあるプラネタリウムの残り香。

 ――霧島との思い出。捥がれて半分ほどの大きさになってしまった紙っぺらも、思い出を匂わせるには充分すぎたのに、今では心を裂く凶器にしか見えない。

 いっそ忘れてしまいたい柔い心根を一心不乱に引っ掴む。グシャリと潰してゴミ箱に放るだけなのに、力を込めることも投擲することも出来そうにない。

 半券を指でなぞるたびに、心臓がギュッと締め付けられた。ドクンと大きく血液を送り出したかと思えば、頭が重たく歪む。痺れる手指があの日の暗闇を思い出させる。節だった温かい体温を伝えてくれたあの日を、宝物の様に1人で抱えているに過ぎないのだろうか。

 シワをつけたくない、燃やしてしまいたくない、――無かったことにしたくない。答えを自覚して仕舞えば、嫌な音を立て続ける心臓も大人しくなるかと思えば、そんな事はなく相変わらず体の限界を訴え続ける。


「はは……。おれの方が大好きじゃん……」


 「顔も名前も霧島との関係も知らない女性なんかより」芽を生やした嫉妬は想像よりも汚い声色になって耳まで届いた。

 件の女性にも、おれにした様な事をしているのだろうか。内側を許してくれる様な陽だまりに真歩しかいないと思っていたが、案外その陽だまりは彼女のために作られていたのかもしれない。

 

 どうして、どうしたら。そんなことを問答しても答えなど降って湧いてくるはずもなく、浅ましい自分だけがそこに残ってしまう。こんな汚い感情が自分にあったのか、と己のことながら、ひと時の俯瞰に至る。

 こんな姿、霧島には見せられない。一度瞳を閉じて思考を遮断した。次、目を開いたら〝霧島の隣に相応しい〟おれになる様に。

 潤んだ視界の先は相変わらず自分の家で、奇跡的に何か状況が好転した訳でもない。なのに、霧島の存在が真歩の暴風を少し凪ぎさせる。

 

 気怠い気持ちを今捨てることはできなくても、いつか「あんなこともあった」と笑って2人を送り出せる様に成れないと。

 ――今の真歩には、霧島の影を捨てることはできなかった。いつかの未来に、ぽいと捨てても心が軋まない様になるまで……。真歩の汚泥の様な宇宙には、何億光年も離れた一等星の残光が付き纏う。

 その光を放っている一等星は、今も真歩の宇宙(その場)で輝いてくれているだろうか。はたまた、すでに消滅した星の〝過去の光〟を望んでいるだけなのかもしれない。


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