60話 近くて遠い
ある世界に、一人の少年がいた。
豊かな国の、一般的な家庭で、賢く優しい少年は、幸せに暮らしていた。
自分の人生にこの先何が起こるかなんて、わかるはずがない。
少年も、そのたった一秒前までは、いつもの日常の中にいた。
家の中で、ペットの小さな魚と一緒に。
彼の名は、星野 涼太。
日本という国の、高校生であった。
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「あ―――あれ...!?」
リョウタは何が起こったかわからず、辺りを見回した。
家の中で金魚水槽の水換え作業中に、目の前が突然光ったのだ。
そして身体から力が抜けるような感覚がして、気づいたのが、たった今。
見知らぬ空間。見知らぬ人物たち。
足元には、アニメで見るような光る魔法陣。
日本の男子高校生としての嗜みで、流行りのラノベは軽く履修済みであった彼は、迷うことなく言った。
先手必勝。
「悪逆非道を尽くす魔王だろうと、世界の滅亡を望む悪者だろうと、オレに倒す気はありません。
剣や魔法の修行はしませんし、勇者にもなりません。元の世界に戻してください」
あれらは、安全で快適な空間で娯楽として消費するから楽しいのだ。
彼の友人には「異世界に行きたい」などと夢を語る者もいたが、現実ならたまったものじゃないだろう、とリョウタは思っていた。
すらすらと喋った後に、自分が今話したのが知らない言語だと気付く。
思わず溜息をつくと、彼の台詞に固まっていた周囲の者達がやっと動き出した。
―――動き出したはいいが、何かを言いかけつつも言葉が出てこない様子だ。
...察するに、本当にそのような事を言うつもりだったのだろう。
(しまった。焦って喋り過ぎた。もっと愚かなフリをした方が良かったか...)
もう余計な事を言わないようにしよう、と心に決めつつ、リョウタは周りを観察する。
天井の高い、石造りの質素な空間。
そこに集うのは、人間に見えるがどことなく違う者たち。
彼は知らなかったが、魔族である。
そのうちの一人が前に出た。
「ようこそ、異界の者よ。歓迎する。
申し訳ないが、元の世界に戻すことは不可能だ」
(ふざけんじゃない!)
と口に出しそうになったが、我慢する。
相手が嘘をついている可能性もあるからだ。
「そうですか。残念です。
それでどうして、オレを呼び出したのですか?」
「...君の予想した通りだ。この世界の「神」を、倒してもらいたいのだよ」
やはり、そうだったか。
感情を表に出さず、彼は問う。
「詳しくお聞きしても?」
「もちろんだ」
そうして丁寧に説明されたのは、世界で起きている不穏な事態について。
曰く、「神」が管理するこの世界に、気候不順や魔力の狂いなど、異変が生じている。
神の様子がおかしく、もはや弑して止めるしかないという結論に至った。
しかし、いざ試みるも、肝心なところで手が動かない。それは、この世界の者だから、「神」というシステムに逆らえないよう組み込まれているからであろう、と予測を立てる。
だから、大変な労力をかけて準備して、別の世界から救世主となる者を召喚したのだと。
「―――という事だ。すまないね、無理矢理呼び寄せてしまって」
「謝られても困ります。もう、帰れないのでしょう?」
「...そうだ」
拳を握りしめて、リョウタは表情を変えることなく淡々と続ける。
「わかりました。最初はああ言いましたが...いいですよ。やります。
ここでそれを為せるのがオレだけしか居ないのならば、仕方ありません」
「―――礼を言う。有難い」
「君の名前を聞いてもいいかね」
「―――タロウ・ヤマダ です」
リョウタは少し戸惑ってみせた後、相手の目を真っ直ぐに見て名乗った。
「そうか。タロウ、もう一度礼を言わせてくれ。ありがとう」
「いえ……来てしまったものはもうどうしようもありませんし、自分に出来る分だけ、そこそこ頑張らせていただきますよ」
そこそこなんてものじゃない。
頼れるのは自分だけ。帰り道を見つけるなり、この世界で平穏に暮らす方法を探るなり、全力で頑張るしかない。
と、内心では涙を流している彼である。
「それにあたり、この魔法陣は君に力を与えるものだ。具体的には、身体能力の向上や魔力の付与、その他便利な魔法の数々。
お詫びと言っちゃなんだが、乗って受け取ってくれないか」
男が指し示した地面には、光を放つもう一つの魔法陣がある。
当然、リョウタは警戒する。
安易に乗ったら、傀儡になる術式とか埋め込まれるヤツかもしれない、と。
従順に従ってやりたいところだが、さすがにこれを譲ったら不味いだろう。
その場から動こうとしない彼を見て、後ろの方にいた女が苦笑する。
「本当に、大丈夫なんだがな...。本人が乗らぬというなら、勿体無いが仕方がない。
とりあえず今は、解除しろ」
「はっ」
どうやらその女は地位が高かったらしい。
彼女の命令を受け、周りの数人が即座に動いて魔法陣の発光を止めた。
「ここに長居するのもなんだ。着いてきてくれ、もっとマシな場所に移動する」
「...わかりました」
大きな広間を出て案内されながら、ほんの少しだけ心の余裕を取り戻してきたリョウタは考える。
こちらに召喚される直前。
自分は、網に入ったベニッピーを手に持っていた。そして、ここに来た時には居なかった。
網から手を離したつもりはないのだが...あの子は、床に落ちてしまっただろうか。
申し訳ない。家族の誰かが、すぐに見つけて救ってくれるといいが...。
と。
◆
リョウタが去った石造りの空間では、真剣に会話がなされていた。
「確かに「優れた者」が召喚されてきたが――ここまで悟られるとは思わなかったぞ」
「まだ若いのに、物分かりが良いのも恐ろしいな」
「能力付与の魔法陣を拒否したのも想定外だった」
「まあ、そのうち機会もあるだろう。最低、あのままでもいけるはずだ。神を縛る鎖の本数を増やさねばならぬかもしれないが...」
「こちらに異世界の者が現れたということは、カウラの召喚師長はちゃんと仕事をしたのだな」
「それは当然だろう。なにせ、家族を人質に取られたも同然なのだから」
「しかし、本当に優秀だな。周りの召喚師の誰にも気付かれず、最後の最後に一人でこっそりと、こちらの魔法陣に対象者を転送する術式を加えるなどという離れ業をやってのけたのだから―――」
「今頃、カウラの者たちはさぞやがっかりしていることだろうな。召喚に失敗して。
召喚師長の仕業だと、気付かれてしまうんじゃないか? 哀れだな...」
部屋に残っていた女が、凭れていた壁から背を離して部屋の出口に向かう。
「私は次の仕事に向かう。後は、指示した通りにお前たちでやれ。
それから、あの少年には気をつけろ。想像以上に賢いぞ」
「と、言うと...?」
「先程名乗ったのは偽名だ。本名は、「リョウタ・ホシノ」。
忘れないように、どこかに書き留めておけ」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。
女の正体は、悪魔。名前は「ネビロス」。
オライの上司サーガタナスの同僚であり、読心系の能力者でもあった。
◆
リョウタは、意外と好待遇を受けていた。
快適な自室が与えられ、特に不便や息苦しさは感じない。
彼がいるのは、「魔大陸」の「ラフキン領」の北にある離れ島「マスタニア島」だという。主な住民は「魔族」。
神を倒しに向かう事は了承したが、強くなる修行はしないと言ったしする気も無いので、文字の読み書きやこの世界の常識などを習っていた。
世界地図っぽいものも与えられ、地理を学んだ時には驚いた。
かなりアバウトな地図だったが、地球の世界地図と非常に似ていたのだ。南北が逆転した姿で。
(やっぱり、最初の魔法陣に乗っておけばよかったかな...いや、うーん...)
あの時は、本当に安全な、能力値?を向上させるだけの魔法陣だったかもしれない。
その後も何度か「魔法陣に乗らないか」と誘われたのだが、いつも断っていた。
本当に今度こそ、危ないものになっているかもしれないからだ。
彼がそう思うのには根拠があった。
いつだったか図書館に居た時に、魔族たちが自分のことについて話しているのを聞いてしまったのだ。
普段はリョウタのことを「タロウ」と呼ぶ彼らだが、その時は「リョウタホシノ」と言っていた。
驚いて、本棚の陰に隠れながらも手に持っていた本を取り落としそうになったものだ。
名乗っていない本名が、知られている。
それはつまり、彼らの中に、心を読める者がいるということ。
ということは恐らく、彼が滅茶苦茶警戒している事もバレている。
...ならばもう、対抗できる術は一つ。
魔族たちと接触する機会を減らし、話す際にはできるだけ思考を空っぽにし、話題以外の余計な事を考えないようにすること。
だが、言うは易く行うは難し。
最初はかなり苦労したが、必死に頑張った甲斐もあり、最近は慣れた。
―――だから、彼らが「ジャスパー」なるものに言及してきた時にも、平常心とポーカーフェイスを保つことができた。
「君をこの世界に呼んだ時に、実は同時刻、他の場所でも同じ召喚術式を発動させていたんだ。
そしてそこには、小さな赤い魚が出現したという。タロウ、心当たりは無いかい?」
そう言ったのは、最初にリョウタを案内した男。魔族の中でもリーダー格のようだった。
――この時までにはリョウタは、目の前の男が心を読める能力者ではないと、予想をつけていた。
ゆえに、少しだけ気を抜きつつも、慎重に答える。
「実はこちらに召喚される寸前まで、元の世界では川で魚を獲っていたんですよ。
確かに、赤っぽい魚を手で捕らえた気がします。恐らくそいつでしょうね」
なんとも言えない、渦巻く感情を抑えながら。
「そうか。どうやらそいつは、君が乗らなかった能力付与の魔法陣に乗ったようでね。
高い能力を獲得した後、逃げ出したそうなんだ。魚にあるまじき知能のようで、その場所に居た者たちが必死に探しているようだが、まだ発見されていないらしい」
「それは面白い話ですね。でもオレは乗りませんからね、魔法陣」
「ははっ、もう知っているよ」
男にあわせて、リョウタも笑う。
この時ばかりは、心から微笑んでいた。
(そうか...ベニッピーが...こちらで、生きていた。それも、彼らを翻弄しながら)
また表情を真顔に戻したリョウタに、男は続ける。
いつもより饒舌だ。向こうの者達は、ライバルか何かなのだろうか。
「ジャスパー、と仮の名で呼んで、触れ回って探しているらしい。魚に名前を付けるとは、変な連中だ」
「ジャスパー……碧玉ですか。でもあの石って、青緑色じゃありませんでした? 赤い魚なのでしょう?」
「君の世界ではそうだったんだね。緑っぽいのもあるが、こちらでは深紅のイメージの方が強いな。覚えておくといい」
礼を言って、部屋を去っていく男を見送りながら、彼は思わずガッツポーズをしていた。
異国よりも遠い地で、思わぬ便り。
ペットの魚とはいえ、家族。
もう死んでしまったかも、とは欠片も考えなかった。
あの子が実はとても賢いのを知っていたから。
嬉しい。心強い。
―――本当に、嬉しい。
誰も居なくなった部屋で窓の外を眺めながら、冗談を交えつつ、リョウタは独りごちる。
「そうだ。折角、こちらで素敵な名前を貰ったんだから、つけてあげよう。ご主人の義務だ。
オレにちゃんと与えてもらわないと、本当の名前にはならないだろ?
...ははっ、魚に名字までつける奴は、どれくらい居るんだろうな」
今日は風が強い日のようだ。夕焼けの空に、みるみる流れさってゆく朱色の雲が見える。
それを背景に、遠くへと羽ばたく一羽の鳥。
向かい風の中、ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。
「君の主人として、遠く離れた場所からだけど、新しく名前をあげる」
微笑みながら、口に出して、しっかりと。
「『ベニッピー・ジャスパー』。
頑張れ。この世界に、負けるな。
―――いつか、会えるといいな」




