常識の境界線と、ショートする電子脳
「……というわけでな、姉さん。この子がベルン家の末っ子、ミラちゃんだ」
王立第一学園の豪華な理事長室。
王国騎士団副団長・ヴェルフェン(33歳)は、いつになく真剣な、どこか縋るような目で実の姉である理事長ヴェロニカを見つめていた。
その傍らには、大きめの魔導書を小脇に抱え、ちんまりとパイプ椅子に腰掛けている8歳のミラがいる。
「彼女の魔法の実力は……まぁ、姉さんも生徒たちから聞いて知っているだろう。控えめに言って、国がいくつあっても足りんレベルだ。だが――」
ヴェルフェンはそこで、本日一錠目となる強力胃薬を噛み砕いた。
「――それ以外がからっきしなんだ! 自分の放った一撃がどれほどの被害を出すかという『社会的常識』が、この子には致命的に欠けている! 姉さんのその高い知能で、どうかこの子に下界の真っ当な常識を叩き込んでやってくれ!」
「なるほどね」
ヴェロニカは銀縁メガネの位置をスッと直し、冷徹な瞳で8歳の少女を観察した。
先日、留学生たちの言葉から「計算不能のバケモノ」と弾き出された対象が、今まさに目の前にいる。
だが、見た目はただの大人しい、本が好きな可愛い幼女だ。
「いいわ、ヴェルフェン。我が校の最高峰の一般常識、および道徳のカリキュラムを彼女に授けましょう。……ミラちゃん、といったかしら。まずはあなたの『思考の基準』を知りたいわ。例えば、あなたがお腹が空いたけれど、お財布を忘れてお店のパンが買えない時、どうするかしら?」
ヴェロニカは優しく、しかし試すように尋ねた。一般的な道徳問題だ。
ミラは本から視線を上げ、不思議そうに首を傾げた。
「……お家に帰って、テオにお願いする。テオのご飯が一番おいしいから」
「お、素晴らしいわ! 満点の回答ね!」
ヴェロニカは内心、ホッと胸を撫でおろした。なんだ、ちゃんと普通の子供ではないか、と。
「じゃあ、次の質問よ。もし、あなたの大切な家族であるテオ君が、悪い人たちに囲まれて、今にも危害を加えられそうになっていたら、あなたはどうするかしら? 相手は言葉が通じない、武装した悪党よ」
これにはヴェルフェンも「ほう」と姉の質問に耳を傾ける。
ミラは少しだけ考え、淡々と答えた。
「……テオの周囲1メートルだけを『絶対安全結界』で固定して、それ以外の『王都全体の空間の分子運動』を一時的に完全停止【フリーズ】させる。そのあと、悪い人たちの首から上の空間だけをピンポイントで『異次元のゴミ箱』に転移させて、ポイする。これならテオの服も汚れないし、一番効率がいい」
「…………」
「ミラちゃん、あのな、それを世間では『臨戦な大虐殺』って言うんだ」
ヴェルフェンが頭を抱えてツッコミを入れるが、ミラは「だって、テオに傷一つつけずに解決する方法を計算したら、これが一番早かった」と大真面目だ。悪気は一切ない。純粋な効率の計算結果なのだ。
ヴェロニカの脳裏で、再び凄まじい速度の計算シミュレーションが走る。
(王都全体の空間フリーズ……。必要な魔力量、算出不可。個別の空間転移による肉体部位の切除……必要な精密性、シルヴィアの1万倍以上……計算終了。……この子、本当に『王都ごと世界を消せるリセットボタン』をポケットに入れたまま歩いているわね……?)
冷や汗がヴェロニカの美しい額を伝う。
だが、超・頭脳派のプライドが、ここで諦めることを許さなかった。
「……い、いいわ。戦闘以外の、技術的な常識に切り替えましょう。ミラちゃん、あなたは最近、お父さんの知識を元に『すまほ』や『てれび』というものを作ったそうね? それらの魔力回路の理論を、私に説明してもらえるかしら?」
これなら、純粋な学術の対話だ。ヴェロニカの最も得意とする領域である。
「うん。お父さんの世界には『でんき』っていうのがあったみたいだけど、こっちにはないから、大気中の『雷の微小魔力』を基盤に流して……」
ミラは自前の魔導スマホを取り出し、裏側のカバーを開けてヴェロニカに見せた。
そこにあったのは、肉眼では捉えきれないほど超微細に、大理石の板へ直接刻み込まれた、何億という多層式の魔力回路(半導体チップ)だった。
「基本の術式は、光の三原色の『屈折』と、精神感応の『同調』。それを、宇宙に打ち上げた私の人工衛星の『千里眼』と繋げて……」
ミラが数式を口にするたび、ヴェロニカの脳内プロセッサーに、見たこともない神代の複合魔術理論と、地球の電子工学の概念が、濁流のように流れ込んでいく。
(……待って。この魔力抵抗の値はなに? 1ミリの狂いもない並列回路……? 空間の次元を3層に折り畳んで密度を上げている……? 嘘でしょう、そんな術式、現代の魔術数学では証明すら――)
『――警告【エラー】。処理能力が許容量を超過しました――』
ヴェロニカの超頭脳が、ミラの「異常すぎる魔法精度」と「地球のオーバーテクノロジー」の融合を前に、完全にキャパシティオーバーを起こして真っ白にショートした。
メガネが少しズレ、ヴェロニカは完全に生気を失った目でピクリとも動かなくなった。
「……姉さん? 姉さん、しっかりしろ! 意識が飛んでるぞ!」
ヴェルフェンが慌てて姉の肩を揺さぶる。
ヴェロニカはロボットのようなぎこちない動きで、デスクの引き出しから弟と全く同じ銘柄の強力胃薬を取り出すと、今度は二錠同時に、ボリボリと虚無の表情で噛み砕いた。
「ヴェルフェン……」
「あ、ああ。大丈夫か姉さん」
「……この子に一般常識を教えるのは、無理よ。だってこの子の存在自体が、この世界の常識【システム】のバグ【脆弱性】なんですもの。教えるべきなのは彼女ではなく、彼女の気分を害さないように立ち回るべき、私たち『全人類の側』だわ……」
頭脳派の理事が、たった8歳の幼女のDIYスマホを前に、完全に敗北を認めた瞬間だった。
「……? お姉さん、急に頭の回転が遅くなった。知恵熱?」
ミラが首を傾げて本を閉じ、立ち上がる。
「ヴェルフェンのおじさん、お腹空いた。もうお家帰って、テオの作ったおやつ食べる」
「あ、ああ、そうだな……。付き合わせて悪かったな、ミラちゃん」
ヴェルフェンは、すっかり真っ白に燃え尽きて「明日から学園の道徳の教科書を全部書き換えるわ……」と呟いている姉の肩を優しく叩き、「……強く生きろよ、姉さん」と、同じ胃痛持ちの戦友として、静かに理事長室を後にするのだった。




