森の始まり――母の逆鱗と、降り積もる日常
14年前。
エレナにとって、双子のリーゼとロッテは世界の何よりも代えがたい宝物だった。
まだ2歳になったばかりの彼女たちは、歩くたびにコロンと転び、すぐに泣き出し、そしてすぐにお腹を空かせて笑う。そんな彼女たちの無邪気な笑顔を守ることが、当時のエレナの生きる目的だった。
その日、エレナは用事で立ち寄った王都の広場で、不快な光景を目にした。
「おい、このガキ。その服、安っぽいな。俺の家が持ってる犬小屋の方がよっぽど豪華だぜ?」
取り巻きを引き連れた、5歳ほどの少年。この辺りで名を馳せる貴族の嫡男だった。
彼は「遊び」のつもりだったのだろう。リーゼの持っていた古びたぬいぐるみをわざと泥水の中に投げ捨て、ロッテがそれを拾いに行こうとすると、杖でその小さな手を叩いたのだ。
「あうっ……うう、えぐっ……」
ロッテが小さな声を上げてうずくまる。リーゼが懸命に妹を庇おうと、拙い足取りで前に出た。
「、やめて!」
「なんだその目は! 下民の分際で!」
少年がさらに激しくリーゼを突き飛ばそうとした――その時。
カッ、と。
広場の空気が、一瞬にして氷点下まで冷え込んだ。
「……誰に、触れたの?」
背後に立ったエレナの声は、驚くほど静かで、そして死ぬほど恐ろしかった。
彼女の瞳から、Sランク冒険者特有の、獲物を追い詰める冷酷な殺気が溢れ出す。その殺気だけで、少年の取り巻きたちは腰を抜かし、泥の中に崩れ落ちた。
「ひっ……ひぃぃぃっ!」
エレナは少年の前で膝を突き、その細い首を片手で軽く掴んだ。指先一つ動かせば、この子供の首など容易く折れる。彼女の纏う魔力は、広場の石畳をひび割らせるほどに膨れ上がっていた。
「……私の可愛い天使たちを、ゴミ扱いしたわね」
エレナの怒りは、自分に向けられた暴言の比ではなかった。娘たちに向けられた悪意に対し、彼女の理性が崩壊寸前だった。
結局、その場に駆けつけた騎士団が青ざめた顔でエレナを止め、少年の家が平謝りをして事態は収束した。だが、エレナの心はもう決まっていた。
――この世界は、あまりにも彼女たちにとって危険すぎる。
――こんな人々の渦中に、二人の天使を置いておくなんて、絶対に無理。
その夜、夫のベルンにエレナは告げた。
「冒険者を、辞めるわ」
「……そうか。エレナが決めたことなら、俺はどこまでもついていくよ」
ベルンは、当時の彼はまだ少し頼りない行商人だったかもしれないが、エレナの目を見て即答した。
そして二人は、人里離れた深い森の中へ入った。
二度と双子たちが汚い悪意に晒されないように。自分たち家族の城を築き、どんな貴族も、どんな怪物も寄せ付けない強固で幸せな場所を作るために。
――そして、現在。
「……というわけだから、もし今度誰かが変な因縁をつけてきたら、お母さんの昔の剣を持って行っていいわよ」
リーゼとロッテに昔話を語り聞かせながら、エレナの遺影が飾られた祭壇の前で、俺は苦笑した。
「……お前たち、お母さんはああ言ってるけど、やりすぎちゃダメだぞ?」
「わかってるよお父さん!」
「そうだよ。まずは転移陣で相手の家の庭に、お父さんの集めたガラクタのゴミ屋敷を出現させるだけだから!」
「……それはそれで、やりすぎだ」
14年前、森に逃げ込んだはずの家族は、今や空に浮かぶ浮遊島に住み、空間魔法で街を繋ぐという「規格外」に成長してしまった。
空を見上げれば、そこには愛する家族たちが笑い合っている。エレナが命をかけて守りたかった「日常」は、今もこの浮遊島で、賑やかに続いていた。




