父の陥落、新しい季節の始まり
真夜中の濃密な語らいを経た翌日。
邸宅の食堂には、昨夜の嵐が嘘のような、けれどどこか張り詰めた空気が漂っていた。
「……マナ。座れ」
精悍な美貌を、これ以上なく不機嫌そうに、けれどどこか「諦め」を含んだ複雑な色に染めて、リュカが切り出した。
十二歳のマナは、父の凄絶な魔圧に臆することなく、背筋を伸ばして向かいの席に座った。
その漆黒の瞳は、母であるまゆと、そして自分に立ち向かう「一人の魔術師」としての父を、静かに見据えている。
リュカは、隣に座るまゆの腰をこれ見よがしに引き寄せ、彼女の肩に顔を埋めるようにして言葉を繋いだ。
「……昨夜、まゆにたっぷり説得された。……あんたに、広い世界で幸せを掴む力を手に入れてほしい、だとな。……まゆがそこまで言うなら、俺に拒む権利なんてない。……、学院への入学を認める」
「……っ、本当にお父様!? ありがとうございます!」
マナの瞳が、歓喜に虹色の火花を散らした。
しかし、リュカはすぐに指を立て、冷徹な魔導師の顔に戻って付け加える。
「……いいか、マナ。まゆのためにも、一度だけチャンスをやる。だが、これから俺が言う条件を一つでも破ってみろ。その瞬間にお前をこの森へ引きずり戻し、二度と結界の外へは出さないからな」
リュカはオパールの瞳を峻烈に光らせ、愛娘の瞳の奥を射抜くようにして、三つの条件を突きつけた。
「……一、王都の軟弱な警護など、俺は一ミリも信じていない。お前の影の中に、俺の分身である『虹色の魔力塊』を潜ませる。こいつはお前に危険が迫った瞬間、周囲の空間ごと敵を消滅させる自律兵器だ。これを引き剥がそうとしたり、隠そうとしたりすることは一切禁ずる」
「二、……王都の有象無象……特に、くだらない男どもに、お前のその髪一房、指先一つ触れさせるな。神凪の血を引くお前の身体は、この世で最も尊い『聖域の欠片』だ。もし、嫌がるお前に無作法に触れようとする不届き者が現れたら――迷わず俺が仕込んだ自動反撃の結界を即座に発動させること」
「三、……もし、お前がお母様のことを忘れて外の空気に毒されるようなら、俺がその王都ごと、消滅させてやる。……いいな?」
「……お父様、最後のはただの脅しだわ。でも、分かったわ。全部守る」
マナは苦笑しながら、どこか呆れたように微笑んで父の「重すぎる譲歩」を受け入れた。
リュカは忌々しそうに鼻を鳴らし、まゆの腰を強く抱き寄せる。
「……まゆ。あんたが甘やかすから、この子はどんどん俺の手から離れていく。……あぁ、気が変わらないうちに、早く行ってしまえ、マナ。……ただし、泣いて助けを呼ぶ時は、真っ先に俺の名前を呼ぶんだぞ」
まゆは、リュカの銀髪を優しく撫でた。
「……ふふ。大丈夫よ、リュカ。マナは貴方の娘だもの。……どんなに遠くにいても、この子の心は、私たちのこの『森の邸宅』に繋がっているわ」
リュカは、娘が自分の支配から半分抜け出した事実に、奥歯を噛み締めてオパールの瞳を悔しそうに揺らめかせた。
耳元の漆黒のピアスが、娘への寂しさと、まゆへの独占欲の間で揺れる主を宥めるように、深く、艶やかな闇を放っている。
「……ふん。マナ、勘違いするなよ。俺はお前を認めたんじゃない。……まゆが、俺一人いれば十分だと言ってくれたから、お前を外に放り出す余裕ができただけだ」
リュカはそう言い捨てると、たまらずまゆの首筋に鼻先を寄せ、深々とその香りを吸い込んだ。娘の前で堂々と「独占」を誇示するその姿は、かつての孤独な拾い子ではなく、愛に満たされ、守るべき家族を持つ「一人の父親」そのものだった。
娘を送り出す一抹の寂しさを隠しきれないリュカ。
まゆは、その不器用な親心を知り、騒がしくも愛おしい二人のやり取りを見つめながら、そっとリュカの大きな手を握り返した。
邸宅を包む虹色の結界は、今日、初めて外界に向かってその扉を緩やかに開いたのだ。
愛娘を外の世界へ放つという、リュカにとって身を切るような決断。
オパールの瞳にはまだ不満の色が濃く滲んでいたが、隣で微笑むまゆの穏やかな視線に抗う術を、彼は持っていなかった。
「…………。まゆ、俺は少し頭を冷やしてくる。結界の外周を、……いや、王都までの道中を、邪魔な魔物がいないか今のうちに根こそぎ掃除してくる」
リュカは忌々しそうに銀髪をかき上げると、逃げるようにリビングから飛び出していった。
愛娘への過保護な執着と、それを許してしまった自分への苛立ちを、魔物狩りで発散するつもりなのだろう。
虹色の光柱が森の奥へと消えていくのを見送ると、張り詰めていたリビングの空気が凪いだ。
「……ふふ。お父様ったら、あんなに格好つけて。本当は寂しくて仕方がないのにね」
リュカの姿が完全に見えなくなったのを確認して、マナがいたずらっぽく笑いながら、まゆの元へ駆け寄りました。彼女は母の細い肩に顔を寄せ、内緒話をするように声を潜める。
「お母様、ありがとう。お父様を説得してくれて。 私が何を言っても『絶対だめだ』の一点張りだったのに」
まゆは、自分とそっくりの、娘の漆黒の髪を愛おしそうに撫でた。
「……いいのよ、マナ。お父様は不器用なだけ。貴女の成長を誰よりも誇らしく思いながら、同時に、貴女が自分たちの『檻』の外で傷つくのを、何よりも恐れているの」
「分かっているわ。……だから、お父様がつけてくれたあの『物騒な条件』も、私なりに大事にするつもり。……でもね、お母様」
マナはまゆの手をぎゅっと握りしめ、その瞳に強い光を宿した。
「私、王都でたくさん学んで、いつかお父様のこの重すぎる結界を、内側から支えられるくらい強くなって帰ってくるわ。……そうすれば、お母様ももう少し、楽になれるでしょう?」
まゆは驚いたように目を見開き、それから、自分たちの愛の結晶がいつの間にかこれほどまでに優しく、逞しく育っていたことに気づき、目元を熱くした。
「……ええ。待っているわね、マナ。貴方が見つける新しい世界のお話を、楽しみにしているわ」
柔らかな光が差し込むリビングで、漆黒の髪を持つ二人の女性は、静かに、けれど固い絆で結ばれた微笑みを交わした。
それは、暴君のような、けれど愛おしい愛の魔王の目を盗んで交わされた、神凪の女たちだけの、秘密の約束。
遠く森の奥で、リュカが放つ虹色の爆音と魔物の悲鳴が響き渡る中、邸宅には春の予感に満ちた、穏やかな時間が流れていくのだった。
「……さあ、マナ。準備を始めましょう。……貴方の新しい物語が始まるわ」
まゆの穏やかな声が、邸宅に満ちる魔力のさざなみを優しく鎮めていった。




