虹色の衝突、静かなる裁定
さらに五年。
マナが八歳を迎える頃には、彼女の「漆黒の瞳」に宿る知性は、もはやリュカの情熱的な暴走を物理的にも論理的にも封じ込めるほどに洗練されていた。
ある晴れた午後。リュカはいつものように、庭で読書をするまゆの周囲に、外界の羽虫一匹通さないほど高密度で美しい虹色の結界を張り巡らせていた。
「……お父様。またこの過剰な多層結界? お見苦しいわよ。今日は風が心地よいのに、これじゃお母様が季節の香りを感じられないわ」
芝生に座り、大人顔負けの難しい魔導書を広げていた八歳のマナが、顔を上げて冷ややかに言い放った。
「……マナ。お前にはまだ分からないだろうが、これは『守護』だ。不浄なものを、まゆの肌に触れさせてはならないんだ。……まゆ、窮屈じゃないだろ? 俺の魔力に包まれている方が、あんたにとっても一番の安寧のはずだ」
相変わず精悍な美貌を誇らしげに輝かせ、リュカは当然のようにまゆの腰を引き寄せた。
耳元の漆黒のピアスが、娘からの理知的な指摘に少しだけ動揺し、ドク、ドクと忙しなく虹色に脈動している。
「いいえ。お母様の魔力の波長が、わずかに乱れているわ。それはお父様の『守りたい』という名目の独占欲が、少しばかり重すぎるからよ。……お父様、それは愛ではなくて、自分を救ってくれたお母様を失いたくないという、単なる不安の押し付けだわ」
「……っ、マナ! 貴様……いや、お前! 八歳児の分際で、父親の愛を『不安の押し付け』だと断じるのか!?」
リュカは銀髪をかき上げ、オパールの瞳を驚愕と憤慨の虹色に染めた。
しかし、マナは動じることなく、小さな指先でまたリュカの結界の「繋ぎ目」を的確に突き、魔力を霧散させて新鮮な風を引き込んだ。
「……お母様。お父様がこれ以上わがままを仰るなら、今夜は私の部屋でお休みになる? お父様の重すぎる独占欲から、私が救い出してあげるわ」
「…………っ、……まゆを独り占めするつもりか!? マナ、お前……っ、俺からまゆを奪うのは、王宮の軍勢でも、死神でもなく、俺の娘だったっていうのか……っ!」
リュカはその場に膝をつき、娘の正論と「まゆを奪われる恐怖」に完敗したショックで、まゆの膝に顔を埋めた。
かつての孤独な「拾われた少年」は、今や、自分より遥かに冷静で、最愛の妻の生き写しである娘という、最強の天敵に翻弄される日々を噛み締めていた。
「……まゆ。あんた、何か言ってくれ。……この子、最近ますますあんたに似て、俺を追い詰めるのが上手くなって……。……あぁ、でも、……あんたが笑っているなら、俺の負けでいいよ……」
不敵な笑みはどこへやら、娘の正論に完敗してデレデレとまゆに甘えるリュカ。
まゆは、自分の膝に乗った銀髪を慈しむように撫で、
「……ふふっ、リュカ。貴方の負けじゃないわ。……貴方がマナを、あんなに真っ直ぐに、何不自由なく愛して育てた結果でしょう? ……あの娘の賢さは、貴方が与えた『自由』の形なのよ」
「……だから、そんなに悔しがらないで。……貴方がマナに譲るたび、私は貴方のことがもっと誇らしくなるの。……私の、大好きな魔王様」
「……っ、あぁ、……ずるいな、あんたは。……そんな風に言われたら、俺、一生あんたの掌の上から出られないじゃないか」
「……ええ。……ずっと、ここにいて。貴方の場所は、ここだもの」
まゆがリュカの額に、労うような、幸せを再確認するような接吻を落とす。
まゆは、騒がしくも愛おしい「光」と「愛」を、慈しむように抱きしめるのだった。
それからさらに四年後のこと。
森の邸宅の「箱庭」の平和を揺るがす、最大にして烈しい親子喧嘩が勃発した。
十二歳を迎えたマナが朝食の席で切り出した
「全寮制の王立魔法学院へ入学したい」
という爆弾発言。
それに、リュカの独占欲が最悪の形で爆発したのです。
「……ふざけるな! 寮だと? 一秒たりとも俺の目の届かない場所へ、お前を出すわけがないだろ! 王都の連中なんて、お前の魔力を利用しようとする不純な輩ばかりだ!」
精悍な美貌を怒りに震わせ、リュカが立ち上がった。
オパールの瞳が昏い虹色に燃え上がり、邸宅全体を覆う結界が、主の焦燥に呼応してギリギリと音を立てて引き絞られる。
「お父様、それは偏見だわ。私はより高度な術理を学び、お母様が守ってきたこの神凪の森を、理論的にも解明したいの。お父様の『独占欲』という名の古い魔法で、私をいつまで縛っておくつもり?」
「……古い魔法だと!? 俺の愛を、そんな言葉で片付けるな! ……いいか、マナ。お前はまゆの生き写しなんだ。外の世界の男どもが、放っておくはずがない。……絶対に認めない。俺がこの邸宅を、物理的に封鎖してでも止めてやる……っ!」
「……やってみればいいわ。お父様の結界の綻びなんて、今の私なら三秒で解いてみせるから!」
一歩も引かない父と娘。リュカの虹色の魔力と、マナの漆黒に混じる鋭い光が火花を散らし、食堂の空気がパチパチと震える。
リュカ耳元の漆黒のピアスが、激しい動揺を鎮めようとトクトクと脈動するが、それ以上に主の「娘を失う恐怖」が勝っていた。
その時、ずっと静観していたまゆが、ゆっくりと、ふたりの間に割って入った。
「……ふたりとも、そこまでになさい」
凛とした、けれどどこか慈しみに満ちたその声に、猛獣のようなリュカも、反抗期のマナも、一瞬で動きを止めた。
「マナ、今日はもう寝なさい。明日またお話しましょう? ……貴方の決意はよく分かったわ」
「……お母様。……分かったわ、おやすみなさい」
マナは父を一瞥し、背筋を伸ばして部屋を去った。
静まり返った食堂。
リュカは肩で荒い息をつきながら、今にも泣き出しそうな、けれど烈しい独占欲を瞳に宿したまま立ち尽くしている。
まゆは、そんな「大きな子供」の元へ歩み寄り、その美しくも峻烈な頬を、あの日雪の中で拾った時と同じ優しさで撫でた。
「……リュカ。……リュカは、私とここでお話しようね」
「……まゆ。……俺、俺は……っ」
まゆの掌の温もりに触れた瞬間、リュカの魔力が霧散し、オパールの瞳に脆い虹色の光が戻る。リュカは吸い寄せられるようにまゆの腰にしがみつき、その胸元に顔を埋めた。
「……嫌だ。まゆ、あいつを行かせたくない……。あいつはあんたの欠片だ。外の世界に奪われたら、俺……あんたを半分失うのと同じくらい怖いんだよ……っ」
まゆは、震える銀髪を優しく撫でながら、一晩かけてこの「愛の魔王」を説得する覚悟を決めた。
それは、娘の自立という名の新しい季節を、二人が一人の「親」として受け入れるための、長くて甘美な夜の始まりだった。
食堂からマナが去り、重苦しい沈黙が降りた深夜。
まゆは、自分の腰にしがみつき、子供のように震えるリュカの銀髪を、慈しむように何度も何度も撫でた。
窓の外では、主の動揺を映した虹色の結界が、嵐の前触れのように激しく明滅している。
リュカのオパールの瞳は、絶望的な虹色に濡れていた。変わらず二十代半ばに見える精悍な身体を持ちながら、失うことを恐れているその心は、雪の中でまゆに拾われたあの日の、孤独な少年のままのようだった。
リュカはまゆの胸に顔を埋め、縋り付くようにその熱を求めていた。
まゆは、リュカの峻烈な頬を両手で包み込み、視線を逸らさず、静かに、けれど逃げ場のない愛を込めて紡いだ。
「……リュカ。よく聞いて。私はマナを愛してる。……でもね、私が一生を懸けて幸せにしたい相手は、世界中でリュカ、貴方だけよ」
「…………っ」
その言葉に、リュカの肩が大きく跳ねる。
耳元の漆黒のピアスが、まゆの断固たる「愛の優先順位」に触れて、トクトクと誇らしげな闇を放つ。
「……マナには、この神凪の邸宅だけじゃなくて、もっと広い世界で、自分で幸せを掴む力を手に入れて欲しいの。……それが、私たちがこの子に贈れる最高のプレゼントだと思わない?」
まゆは、不安に揺れるリュカの瞳を覗き込み、少しだけ困ったように、けれど最高に甘く、彼を追い詰めるように囁いた。
「……リュカ。……貴方は、……私だけじゃ、足りない……?」
「………………。……ずるいだろ、……そんなの、……足りないわけ、ないじゃないか」
リュカは降伏したように溜息をつき、まゆの首筋に深く顔を埋めた。
自分を幸せにするのはまゆだけでいい。そしてまゆが幸せにしたいのは自分だけ。
その圧倒的な「特別(独占)」を再確認させられた瞬間、彼の猛々しい拒絶は、一瞬で跡形もなく溶け落ちていった。
「……あぁ、もう。分かったよ、まゆ。あんたがそこまで言うなら、俺、……もう何も言えないな。……あいつを、信じてやるよ。……その代わり、あいつがいない間、あんたの時間は一分一秒たりとも逃さず、俺が全部買い取るからな」
不敵に、けれど最高に幸せそうに微笑むリュカ。
まゆの言葉という「最強の呪縛」によって、独占欲の魔王は、今宵もついに娘の自立を認める「一人の父親」へと陥落した。




