ガオ、ありがとう
あんなにも会いたかった人が目の前にいる。私を見て涙を流して。
「この屋敷へはどうやって入ったの?」
門には見張りの兵士が常にいるはず。
「こっちから登ってきた」
雲嵐は背後の塀を見た。
「絶壁を?」
「見た目ほどじゃない。人が通れる幅はある。じゃないと、こんな風に塀を塗れないって。道はガオが教えてくれた」
今すぐ逃げたい。でも。
「雲嵐。すごく、来てくれて嬉しい。会えて……。だけど一緒に行けない。しなきゃならないことがあるの」
「しなきゃならないこと?」
「調印を見届けなきゃいけないの」
「調印……」
「央の国と西の国が、もう戦をしませんって約束するの」
「どうして香香が?」
「なんだか色々あって。そーゆーことになっちゃったの。絶対帰るから。絶対絶対」
調印が終わったら。
「香香。ぎゅってしていい?」
どきん
雲嵐は言い終わらないうちに私を抱きしめた。私を覆う西の国の黒い布に、頬と唇を押しつける。大切なものに触れるように布ごしに私の形を確認する。
好き。
檻の格子と網ごしに喋ったことがあるだけ。1、2週間に一度。
気持ちを確かめ合ったことなんてない。それでも来てくれた。
「雲嵐……雲嵐」
気持ちを伝えたいのに、名前を呼ぶことしかできなくて。
「じゃ、待ってる」
そのまま、雲嵐は軽々と塀を乗り越えて姿を消した。
ガオはまだいる。塀の前。私を待ってる。
ごめんね、ガオ。まだ一緒に行けない。
ありがとう、ガオ。こんなに遠くまで助けに来てくれて。雲嵐を連れて来てくれて。ガオって、私が今まで会った誰よりも頼りになるよ。
[香香?]
!
背後からキラの声。見られた!?
[あ、包帯、取り替え終わったの?]
[……うん]
ガオ、もう行って。見つかっちゃう。
アオーン アオーン
狼の遠吠えが聞こえてくる。塀の外、下の方から。その声に応えるように、ガオは塀の上に飛び乗った。月をバックに浮かび上がるシルエット。逆光の中、瞳が燃えるように私を呼ぶ。
キラは獣の姿に息を呑む。
ごめん、ガオ。
アオーン アオーン
再び遠吠えが聞こえると、ガオはいなくなった。きっと、遠吠えをマネていたのは雲嵐。
部屋に入って気づく。私が被っていた黒い布は毛だらけ。それを見たキラが眉を顰める。
[獣臭い]
[風で毛が飛んできたのかな]
しらばっくれた。
[人間の汗の匂いも混じってる]
言いながらキラは、私が被っていた毛だらけの黒い布を剥ぎ取った。掴んだ布の、顔辺りにあった部分に鼻を当てて深呼吸した。
ばさっ
キラは黒い布を投げ捨てると、私をベッドの上に押し倒す。
[っ]
[もう、みんなが第七皇女は偽物って知った]
[……]
キラは私を組み敷く。
[だから、堂々と手が出せる]
[……]
私の首筋に顔を埋める。
[こんな匂いつけやがって]
ちっと舌打ちすると、私の手首をいとも簡単に掴んで自由を奪う。裾の長い服でもとより脚の自由はほとんど効かない。キラは脚を包む布を更に膝で抑え付けた。コイツ、慣れてやがる。
昨日までの私なら、ここで流されていたかもしれない。今は違う。
ゴチン
頭突き。相手が怯んだ一瞬で、右腕をキラの手から引っこ抜き、短刀が刺さっただろう場所に親指を立てたまま拳を打ちつける。何度も。包帯に親指をめり込ませた。傷口の近くに当たるだけでいいと思ったら、ジャストミート。
[う”っ]
かなりの効き目。キラは半身を起こして、ふぅふぅと痛みを逃すように呼吸をしている。
[ごめん。こんなことしたくなかったんだけど]
一応謝った。反省してないけど。
[香香、……ひど]
キラの服に血が滲んできた。きっと、その下の包帯は血だらけ。
キラは再び包帯を取り替えに行く。そのとき初めて、部屋に外から鍵をかけた。その後は、戻って来なかった。




