「0」
長い旅の間、ガオと雲嵐を何度も思い出した。
会いたいなぁ。
もう会えないのかな。
無事に生き延びたとしても、もう私は都へ行けない。殺されてしまうから。
宿場町で第七皇女御一行を追い越し、先に西の国境に到着。
逃亡の準備を開始した。
プラン:調印後、司令部に戻らず、私だけが馬で逃げる。逃げた先には御者が別の馬車で待っていて合流する。
連れているのは馬車を引く用の馬2頭。力と持久力に優れているタイプ。足の速い馬を1頭追加で用意した。荷馬車も。ついでに軽いダミーの積荷も用意。
国境を行き来していたとき、馬を使っていた。賢い馬で、私を寝ぐらに送り届けると、自分で馬主のところに帰って行った。とってもジェントルマン。
新しい馬もジェントルマン。濃い栗毛色が艶々してる。
「軍はまだ到着していない。よかった」
と燈実様。
もちろん、警備と、もしもの時のために軍が来る。
燈実様は、何人がどこに待機するかだけでなく、野営する場所、兵糧のルートなど詳細を熟知していた。地図を見ながら逃亡ルートを考える燈実様を見て、「科挙なんてどーでもよくね?」って思った。
「香香は昔の知り合いに会わないように。大丈夫?」
「大丈夫です。私が住んでいたのはもう少し北です」
「街に知り合いがいる可能性があるから、避けて通ったんだ」
「ありがとうございます」
抜かりない。地元の女友達は街に流れている可能性大。
調印当日は、乾いた風が吹いていた。
私は絹の衣装に身を包み、髪を結い上げ、高価な簪を差した。
できあがった姿を見た李氏様は、ばっと扇子を広げた。
「お見事。美丈夫の猟師に見せたいだろう」
その言葉は、忘れようとしている人を鮮烈に思い出させた。
調印を行う場所を挟んで、両国の軍は既に数時間前から警備についている。司令部の裏手には、万が一戦争が始まってしまった場合の軍隊が待機。一面に広がる黒々とした物々しい集団。馬に乗った武将は、大地が割れるような声で「合図があるまで絶対に発砲するな!」と叫んでいる。
燈実様に手を取られ、馬に跨る。
私の胸には、条約の紙が入った筒。
外交の大臣、李氏様、軍の司令部の数人、そして燈実様。馬に乗っているのは私だけ。
並んで歩き出す。
何もない場所。かつて戦場だった見晴らしのいい荒野。
前方50尺(約15m)ほどのところに調印するテーブルと椅子がぽつんと見えた。
遥か向こうから輿が近づいてくる。その輿は止まることなく進み、すぐに調印する場所に着いた。そして、頭から真っ黒な布をすっぽりと被った人が降り立った。
それを見た李氏様が私のふくらはぎを掴む。何ごと!?
「0」
それだけを小さな声で呟く。
異能。
男性経験が0。西の国の皇后には息子がいた。男性経験0な訳がない。偽物。
「分かりました」
李氏様にしか聞こえない声で答えた。
一気に緊張感が増した。本物だったら相手の目的は調印のみ。偽物を出してきた。相手の出方が分からなくなった。信用なんてしていないってこと。こちらの央の国も同じく。
途中からは、馬を引く燈実様と私だけが調印の場所に向かう。
そのときに知らせた。
「偽物です。李氏様が『0』とおっしゃいました」
「了解」
シャッ カチ
燈実様は手を腰の後ろにやり、前方からは見えないよう、剣を鞘に軽く納め直す。すぐ後、背後にいる央の国の軍が静かに動く気配がした。
調印のテーブルの前には、偽皇后が立っている。アイラインに縁取られた碧色の瞳。この人も私と同じような立場なんだろうか。殺されてもいい人間?
西の国の皇后の顔は知られていない。目以外を布で覆う民族衣装。偽物と証明する術はない。
問題は、偽物の場合、おとなしく調印だけをしてくれるとは限らないこと。
私は馬から降りると、挨拶をした。
[お会いできて光栄です]
[はい]
偽皇后は、もっとも短い単語を発した。それは恐らく、バレないように。




