大切なリアル天女
翠蘭を初めて見たとき、天女だと思った。
兄が戦争から帰らず、一緒に暮らしていたわんこを亡くした。
亡骸を埋め、花を手向けていたとき、拐われた。
手足を縛られ、何日も馬車で運ばれながら泣いた。死にたい、早く殺してくれと願った。家族を失った悲しみの涙で体が溶けれてしまえばいいのにと思った。
運ばれた先は大きな屋敷で、最初に湯浴みをした。美しい天女が汚い体を洗ってくれた。天女は微笑みながら全てを無言で行い、私の髪を梳かし、農家の娘達が着ないような美しい服を私に着せた。そして、見たこともない高級な皿に載った、とんでもなく煌びやかで美味しい料理の数々を食べさせてくれた。
願いが叶って天国に来れたのだと、本当に思った。
『もう安心しなさい』
そこに、美しい神の使いがやってきた。今度は男。
私は神の使いにしかできないことをお願いした。
『会わせてください。兄貴とわんこに』
神の使いが首を傾げるとはらりと絹糸のような髪が頬を滑る。
『なんと』
『死にたいって願ったんです。叶いました』
『え?』
『天国に来れました。飯バリうま』
『バ、バリ?』
『兄貴とわんこ、どこですか?』
神の使いは下唇を噛み、目を閉じた。何かに耐えるように天井を見上げ、しばらくしてから私に告げた。
『ここは天国ではない。まず眠りなさい』
現実を告げられたとき、絶望と悲しさが襲ってきた。わんこの閉じた目、冷たく死後硬直した体。老いて痩せこけ、パサパサになった毛並み。息を引き取るときも引き取ってからもずっと撫でていた。大切で、大好きで、いてくれるだけで幸せだった。
男が部屋を出ていくと、天女は、床に蹲って嗚咽する私を抱きしめてくれた。せっかく着替えさせてくれた綺麗な服は涙と鼻水まみれになった。泣いているときに食べたものが逆流して床にぶちまけた。それでも涙は止まらなかった。
わんこが息を引き取ってから泣き続けている。泣かなかったのは、天国だと錯覚した束の間だけ。
目覚めたとき、ふかふかの布団の上だった。天女が、白い手で私の瞼にあった濡れた布を桶で濯ぎ、もう一度瞼の上に載せてくれた。
『おはよーございます』
挨拶をすると、天女は優しい目で頷いた。一晩中ついていてくれたよう。天女の布団が隣にある。
わずがに服についた吐瀉物は拭き取られていた。乾いていても、臭う。美しい天女をこの悪臭の中で過ごさせたことが申し訳ない。
『ごめんなさい。汚してしまって。床も服も』
私が謝ると、天女は、少し口角を上げ、首を横に振った。
屋敷に来て2日目。目覚め、着替え、粥を食べ、寝た。再び目覚めて泣き、点心を食べ、泣き、寝た。目覚めて粥を食べ、湯浴みをし、泣き疲れ、寝た。
3日目。目覚め、着替え、食事をし、寝た。再び目覚め、天女に手を引かれ庭に出た。部屋に戻ると、また泣いた。
天女はどうやら喋れないと分かった。
話しかけても、頷くか、頭を横に振るかで返事をする。あるいは表情で分かる。そんな天女に4日目、私から話しかけることが多くなった。
神の使いと思った見目麗しい男が誰なのかとか、どうしてこんなに立派な屋敷に住んでいるのかとか、なぜ私が拐われたとか。聞きたいことはあっても天女には答えられない。
『ねーねー、こっちのお菓子とこっちのと、どっちが好き?』
『犬、好き? 馬は? 山羊は?』
『結婚してるの?』
そんな風に話をした。
天女と過ごすうち、徐々に泣く時間が減っていった。
あのとき、私の心を救ってくれた天女は、翠蘭。
今も。私を救おうとしてくれる。
階段が終わると歩いて歩いて、永遠に歩き続けるのかなって思ったころ、上り階段。天国まで上ってるのかもってとき、やっと地上の兆し。行く手に、ぼんやりと柔らかな光があった。
最後は垂直に梯子を上る。クリア!
月すら眩しい。満天の星は光のシャワー。
そこは宮廷の近くにある、丘の麓の井戸だった。




