臨界
皇帝がしっしって感じで手を振ると、李氏様は近衛兵に捕えられた。その隣では、別の近衛兵が翠蘭をどこかへ運んでいく。
「香香があれほど美しい女とは。しかも、朕が手に入れられなかったただ1人の女と瓜二つ」
手に入れられなかったただ1人の女は、きっと翠蘭本人。
香香だと勘違いしたままじゃ、浅ましい征服欲が倍増する。そうはさせるか。
「私が本物の香香でございます」
「ほう。確かに女の声だな。女と言われれば、そう見えなくもない」
こンの、好色ジジイ。男装してたって可憐さは滲み出てるでしょ。レディなんだからね。
「……」
「そうだな。お前が香香だろう。内閣府長が、香香はただの偶像だと言った。本物は、誰もの親戚や、知り合いの娘にいるような人間だと。さっきの女ならば、そうは言わまい。あの李が取り乱すこともないだろう」
翠蘭が綺麗なのは分かってる。しっかし、私の平凡さ加減がハンパないわ。
そこへ近衛兵が入ってきた。
「暴徒化した民衆が、広場に続々と集まっております。香香を解放しろと松明を掲げています」
もう1人近衛兵が来た。
「外国船に乗っていた捕虜の残党がこちらに向かっている可能性がありますっ」
皇帝はどっしりと動じない。
「案ずるな。この城は2重の堀。塀は民衆や残党如きに壊されはせん。香香、愚かな民衆を見に行こう」
皇帝は老人とは思えないほどフットワークが軽かった。
すっと立ち上がり、輿を用意するという近衛兵を制してすたすたと歩いていく。私は、近衛兵に「立て」と言われ、付き従った。広大な宮廷の中を進む。皇帝から離れること5歩。
目の前には凡庸な背中。これが権力の全てを手にした男?
「香香、今となっては国賊だが、西の国との調印ではよく働いてくれた」
前を向いたままの皇帝が私を労った。
「勿体無いお言葉でございます」
「銅と銀が書き換えられていたとは。朕もみくびられたものだ。賠償額の破格の安さは、嫁いだ娘とこれからの国同士の関係を思ってのこと。香香、お前から朕は、さぞや間抜けな男に見えただろう」
「とんでもございません」
「昔、理想があった。周りの国々と友好的な関係を築いて争いのない世にするとな。共に語った友だと思っていた人間達は、次々と現実を突きつけてくるようになった。民衆は朕に不満があるようだがな、文句のあるやつに変わってもらいたいくらいだ」
「……」
皇帝が友だと思っていたのは、誰なんだろ。
宮廷内には門があった。門を過ぎても、まだ宮廷内。どんだけ広いん。川まである。そして、皇帝は高い高い塀の上への階段を登った。警備をしていた兵士は道を開け、頭を下げる。
「こんな階段ごときに息切れするとは歳を取った。ふう。みんなは若くていいな」
皇帝は見張りの兵士達に笑いかける。
階段を登る間、民衆の声が聞こえていた。
「「「「香香を返せ、香香を返せ、香香を返せ」」」」
皇帝は私を振り返る。「人気者だな。羨ましい」と。近衛兵が持つ提灯の灯りに浮かび上がった目は、笑っていなかった。
塀の上、広っ。歩けるし。
手すりのところで凡庸な背中が微動だにしない。私は5歩後ろでしばらく待った。景色が見えなくても、広場が騒がしいこと、明るいことは分かる。
「こっちへ」
皇帝の許しが出、やっと広場を見下ろす。
広場は人で埋め尽くされていた。道にも、点々と火が揺れる。その光は広場に向かって動いている。
中央には大きな焚き火があった。そこを人々が囲む。
馬車の上での演説は、まだ続いている。
ほぼ祭り。歌ってるし。もちろん、あの香香の怖い歌。最後はお約束のエンドレスリピート。
怒りと狂気じみた非日常。異様なエネルギーが人々を支配している。




