なぜ喉を潰さない
翠蘭はくすくす笑って、一生懸命、話を聞いてくれた。それから私の頭を撫で、無音のまま口の形で『かわいい』と言った。最後に両手を自分の胸に当てる。
「そう、そう、それ」
私も翠蘭と同じように、両手を自分の胸に当てた。
楽しくてうきうきしてわくわくして。
あ、これだ。好きってやつ。
話には聞いてた。好きって感情があること。恋って呼ぶこと。本来ならばその先に男女の睦事があること。
そんな感情は自分には訪れないって思ってた。そんなのは、衣食住に困らない人のすること。それか、骨の髄までしゃぶられても男に貢ぐようなバカ女のすること。自分にとって性は、どこまでも商品で、恋って名の贅沢オプションの先に待ち受けてるものじゃなかった。
途端に、ぼろんぼろんと涙が溢れてきた。
目の前の翠蘭がオタオタする。
「なんか、なんか、ぜんぜん無理っぽい。私、下の下の下じゃん。檻の中にいるじゃん。こんな汚い生活してる最低女。さ…いぁ…く」
翠蘭は首を横に振りながら、自分の袖口で私の涙を拭いてくれる。
辞めよっかな。下の下の下。
褒美を貰えるはず。
まだ1年未満だけど、長いって言われてる。これだけの期間、心を病んでないのは初めてって。これまでは、死ぬか狂うか。そりゃそーだ。私は、今までの人とは違うビジネス下の下の下。このことは極秘。
!
前例がないことに気づいてしまった。
……殺される。
文字を覚えてしまった私は、喉を潰すだけでは秘密を守れない。
浅はか。下の下の下を承諾してしまったこと。字を覚えてしまったこと。
辞めるとしたら、こっそり逃げるしかない。褒美は諦めよう。
やっぱ恋なんて私には贅沢オプション。
逃げるのはまだ。外のことを調べて、準備しよう。
恋に浮かれていた心が檻の鉄のように固く冷えた。
あれ? 私って、なんで喉を潰されていないんだろ。秘密を守るには、私を喋れなくするのが1番有効なはず。
その前の女だって、李氏様の家で美味しいものを食べていい寝床で眠るってのは、下の下の下の者としてはあり得ないこと。口封じをされて然るべき。
姦通罪の囚人は裕福な者が多い。結婚が家同士の問題だから訴えられる。親戚になったことにより、仕事上の人脈や地位を築く。姦通は家名に泥を塗ることになり、親戚に多大な被害を与える。心情として罰せずにはいられない。そこで姦通罪として訴える。
つまり、姦通罪の囚人はある程度裕福で、読み書きできる者がいたはず。けれど、女達が指を切られたという話は聞かない。
字が書けない者を選んでいた?
考えると、自分も含め、下の下の下が伝達手段を持ったまま多くの人々の前に晒されていたことが不思議になってくる。
李氏様はなぜ、女達の喉を潰さない?
書物を読んだ。下の下の下や逃げることとは関係なく、単純に読みたかったから。
あまりに読むので、李氏様の書庫に出入り自由となった。
ガタガタと酷く揺れる。顔が凍える。寒っ。目覚めると馬車の荷台だった。
いつの間にか寝てた。
ぼんやりと思い出す。下の下の下の仕事場に行く馬車に乗ってうとうとしていたことを。最近、書物を読んで夜更かしするから常に眠い。
馬車はいつもの軍の荷馬車と同じ形。目の前にはむしろで覆われた荷物が積まれている。思い出した。朝、乗るときに「珍しい」って思ったんだった。行くときに荷物が積まれているのは初めてだったから。
流れる景色は山道。馬車を間違えたっぽい。
これって、逃げるチャンスじゃね?
周りはうっすらと雪景色。残念。これじゃ逃げても凍死する。
逃げるのはやめよう。馬車が止まったら、兵士に食べ物をもらおう。
とりあえず、寒いから荷物を覆ってあったむしろをかき集めて被った。二度寝。
再度目覚めたとき、馬車は止まっていた。荷物はなく、兵士もいない。被っていたむしろにはうっすらと雪が積もっている。




