とびっきりの笑顔
春から始まった下の下の下の生活。夏に李氏様殺人未遂、夏の終わりにガオに助けられた。ひたすら読み書きを覚えているうちに秋が過ぎ、季節は冬になろうとしていた。
「ガオ!」
思わず叫ぶ。
ガオが足を止めた。ガオは隣にいた雲嵐の顔を見てから、檻のところへととととっとやってきた。
「ガオ。覚えてる? だいぶ前だけどさ、ありがと。助かったよ。今日もかっこいいね」
私は檻と網の間から指を出して、ガオの顎をなでなで。
気づいた兵士が、離れたところにいる雲嵐のところへ行って、お菓子を渡してくれた。
すると、雲嵐が檻に向かって歩いてくる。その堂々とした振る舞いに驚く。ほとんどの人は遠くからしか眺めない。離れた場所から罵声を飛ばし、石を投げる。なのに。雲嵐は檻の真ん前にしゃがみ込む。
「ありがとう」
その声は優しく響いた。目の前の黒目がちな瞳に吸い込まれそう。日焼けした肌で微笑む雲嵐。しゃがんでガオを撫でていた私と同じ高さに顔がある。
「私こそです。お礼が言いたかったんです。すごく前、蛇の悪戯されたとき。ガオが助けてくれたこと。あ、この子、ガオですよね? あのとき、そう呼んでるのが聞こえたから」
あ、なんか、自分、いつもよりもテンパってる。
「うん。ガオ。これ、食っていい?」
「はい。食べてください」
雲嵐は胡桃のお菓子を1つ、口に入れた。それから掌に載せてガオに食べさせる。
添えてあった手紙に気づいた雲嵐は、それを広げた。
「あのさ、オレ、字、読めない」
「あ、そっか。そーだよね」
読み書きするのは貴族と役人と商人。
「オレ、雲嵐。なんて名前?」
「香香。この手紙ね、ガオにお礼言いたくて、字、覚えたの」
「そっか。なんて書いてある?」
「ありがとう。ガオと食べてくださいって」
「香香も1こ」
雲嵐は言いながら、胡桃のお菓子を1つ、私の口に入れてくれた。
とくん
はい? なにこれ。心臓が。
「ありがと」
「はは。お礼なんて。香香がくれたものじゃん。甘くて美味し」
くしゃっと笑った顔が輝く。ま、眩しっ。
そのとき気づく。自分は下の下の下だと。
「あ、あの。もう離れた方が」
思わず、檻の奥へ後退りする。私と喋っていたら、雲嵐が変な目で見られてしまうから。
「え、なんで?」
雲嵐は目をぱちくりさせた。
「私、下の下の下だから」
「そーゆーの、変」
「え?」
「同じ人間じゃん」
とくん
「そんなことゆー人初めて。ブスとか死ねとか臭いしか言われたことない」
そう答えると、雲嵐は悲しそうな顔をした。
あ。なんで言ってしまったんだろ。後悔。明るくて元気な自分を見せたい。雲嵐にこんな顔をさせたくない。今すぐ湯浴みをして綺麗な服を着て、髪を整えて、雲嵐に会いたい。とびきりの笑顔を見せたい。
それができないんだ。下の下の下には。
どくん
心の中が墨で塗り潰されていく。
「香香、そんなこと言わないヤツの方が多いだろ?」
「うん」
「じゃ、また。これ、ありがと」
雲嵐は立ち上がってガオと去った。細長いシルエットとその隣でふわんふわん揺れる大きな尻尾。それは、人垣の中に消えても、瞼の裏に残像のように残った。
檻の中央にあった切り株にもたれる。しばらく、ぼーっとした。頭の中で何度も雲嵐との会話を再現。
屋敷に帰ると、書物を読むよりも先に翠蘭に喋りに行った。
「翠蘭、ガオと雲嵐に会った。やっと。私のこと、蛇の悪戯から助けてくれた灰色狼。ガオ、すっごくかっこよくて。ガオを連れてる雲嵐って、いい人で。私、こんなに汚いのに、傍まで来てくれて」
なんだか、すごく翠蘭に話したかった。ガオがどんな風にかっこいいか、雲嵐と何を話したのか、どんな表情だったのか。




