最終章 それでも、アイドルになりたい
「最近、変わったね」
スタッフにそう言われてから、数日が経った。
こはる自身にも、少しだけ分かっていた。
歌が急に上手くなったわけじゃない。
ダンスが一番になったわけでもない。
相変わらず間違える。
相変わらず噛む。
相変わらず、緊張すると胃が痛い。
それでも。
以前とは、一つだけ違う。
行きたい場所ができた。
――センター。
蒼井真姫が立つ、ゼロ番。
まだ遠い。
笑われるかもしれない。
それでも。
あそこに立ちたい。
初めて、自分の夢を自分で決めた。
◇
そんなある日。
「次の選抜、そろそろ決まるらしいよ」
その一言で、レッスンルームの空気が変わった。
選抜。
以前なら、その言葉を聞くだけで怖かった。
どうせ私じゃない。
そう思うことで、自分を守っていた。
でも今は違う。
入りたい。
こはるは、そう思った。
ちゃんと。
欲しいと思った。
◇
数日後。
レッスン後、スタッフに呼び止められた。
「こはる」
「はい?」
「今回、あるかもね」
「……何がですか?」
「選抜」
一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
「最近、良くなってるよ」
スタッフはそれだけ言って去っていく。
こはるは、その場から動けなかった。
選抜。
自分が。
今までなら、
「頑張って」
だった。
でも今日は違う。
――あるかもしれない。
初めて、手の届く場所に見えた。
「……ほんとに?」
胸の奥で、期待が膨らんだ。
怖いくらいに。
◇
そこからのこはるは、さらに練習した。
朝。
レッスン前。
レッスン後。
家でも。
動画を何度も見る。
「もう一回」
間違える。
「もう一回」
少し良くなる。
「もう一回!」
「何回やるの?」
横から声が飛ぶ。
「できるまで」
「今日できなかったら?」
以前なら、焦っていたかもしれない。
でも。
こはるは笑った。
「明日またやる」
できない自分を、少しずつ責めなくなった。
できないなら、やるしかない。
不器用なら、人より時間をかければいい。
それしかできない。
でも。
それなら、できる。
◇
最終評価の日。
目を覚ました瞬間から、胃が痛かった。
「……なんで今日なの」
お腹を押さえる。
薬を飲む。
朝食はほとんど入らなかった。
でも。
行かないという選択肢はなかった。
レッスン場へ着く。
「顔、白くない?」
「緊張してるだけ」
「大丈夫?」
反射的に答えかける。
「大丈――」
止まる。
前の時のことを思い出した。
「……じゃない」
「え?」
「ちょっと胃、痛い」
「休む?」
こはるは首を振った。
「やる」
怖い。
痛い。
逃げたい。
それでも。
「やりたい」
今度は、その気持ちをはっきり言えた。
◇
名前を呼ばれる。
中央へ立つ。
一瞬だけ、ゼロ番を見る。
――いつか、ここに。
音楽が始まった。
一。
二。
三。
四。
最初はよかった。
身体が動く。
歌える。
表情も作れている。
できる。
今日なら。
そう思った瞬間。
胃が強く痛んだ。
「……っ」
ほんの一瞬、身体が遅れた。
次の振付。
間違える。
頭が真っ白になる。
――違う。
戻らなきゃ。
焦る。
次のカウント。
一拍遅れる。
歌。
声が震える。
いつもなら出る音が、出ない。
――終わった。
その言葉が、頭をよぎった。
でも。
こはるは前を見た。
まだ曲は終わっていない。
次のカウントを拾う。
戻る。
踊る。
また少し遅れる。
それでも戻る。
歌う。
最後まで。
最後のポーズ。
音楽が止まった。
「……ありがとうございました」
深く頭を下げる。
悔しい。
もっとできた。
練習では、もっとできていた。
でも。
一つだけ。
以前とは違った。
失敗しても、最後まで戻ってこられた。
だからこそ――
期待してしまった。
◇
選抜発表。
一人。
また一人。
名前が呼ばれる。
拍手。
こはるも手を叩く。
あと二人。
あと一人。
胸が苦しい。
お願い。
呼んで。
初めて、心の底から願った。
――私を選んで。
最後の名前。
違った。
「以上です」
その瞬間。
周りの音が、少しだけ遠くなった。
こはるは拍手をした。
「おめでとう」
ちゃんと言えた。
でも。
胸の奥が、どうしようもなく痛かった。
前回も落ちた。
なのに。
あのときとは全然違う。
以前は、選抜なんて遠い場所だった。
今回は、手を伸ばした。
指先が届きそうだった。
だから。
前よりずっとずっと悔しかった。
◇
解散後。
こはるは、スタッフを呼び止めた。
「あの」
「うん?」
怖かった。
聞かないほうが、楽かもしれない。
胃が痛かったから。
緊張したから。
運が悪かったから。
そう思えば、少しは自分を守れる。
でも。
それでは、次も同じだ。
「私……」
手を握る。
「何が足りなかったですか?」
スタッフは少し黙った。
「かなり迷ったよ」
こはるが顔を上げる。
「歌もダンスも、前よりずっと良くなった」
「……はい」
「表情も良かった。前だったら、一回ミスしたらそのまま崩れてた。でも今日は戻ってきた」
見てくれていた。
胸が熱くなる。
「それに」
スタッフが続ける。
「最近のこはるは、目が行く」
以前言われた言葉。
「食べてるときだけじゃなくて?」
思わず聞く。
スタッフが笑った。
「ステージでも」
その一言が、嬉しかった。
ずっと欲しかったものだった。
アイドルとして、見つけてもらえた。
「でも」
胸が締めつけられる。
「今回は、本番で自分の力を出し切れなかった」
「……はい」
「胃が痛かったのも分かってる。緊張してたのも分かってる」
「はい」
「でも、アイドルは本番を見てもらう仕事だから」
こはるは、
黙って頷いた。
ステージで、「本当はもっとできます」とは言えない。
「練習でできるようになったものを、本番でも出せるようになること」
スタッフは言った。
「それが、今のこはるの次の課題だと思う」
「……はい」
そして。
「ただね」
「はい?」
「前回と今回の落選は、違うよ」
こはるの表情が変わる。
「前回は」
覚えている。
忘れるはずがない。
「選ぶ理由が足りなかった」
胸が痛む。
――歌もダンスも悪くない。
――でも、選ぶ理由になるほど抜けてはいない。
あの日の言葉。
こはるは恐る恐る聞いた。
「今回は?」
スタッフは答えた。
「選ぶ理由は、あった」
息が止まった。
「……あった?」
「うん」
「私に?」
「こはるに」
ずっと。
ずっと欲しかった言葉だった。
みんなには何かがある。
私には何もない。
そう思っていた。
でも。
今は違う。
「じゃあ……」
声が震える。
「なんで……」
最後まで言えなかった。
スタッフは、こはるを見つめ静かに答えた。
「その魅力を、本番で最後まで見せきれなかったから」
こはるは俯いた。
悔しかった。
でも。
納得できてしまった。
それが、もっと悔しかった。
「……どうしたら」
顔を上げる。
「本番で出せるようになりますか?」
スタッフは少し考えた。
「それを、これから見つけるんじゃない?」
答えになっていない。
でも。
たぶん、誰かに教えてもらえるものでもない。
「……はい」
深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
◇
廊下へ出る。
扉が閉まる。
一人になった瞬間。
涙が落ちた。
「選ぶ理由……あったんだ」
嬉しかった。
本当に。
でも。
だからこそ、悔しかった。
努力した。
成長した。
見つけてもらえた。
選ばれるところまで来た。
それでも。
選ばれなかった。
あと少し。
その「少し」が、どうしようもなく遠かった。
◇
その日のレッスンも最後までやった。
帰り際。
差し入れが届いた。
「こはる、食べる?」
いつもなら、
真っ先に飛びつく。
「……食べる」
一口。
味がよく分からない。
「胃、大丈夫?」
「今日くらい自由に食わせろーってんだろうがよぉ!」
いつものように言った。
みんなが笑った。
こはるも笑った。
ちゃんと笑えた。
◇
翌日。
こはるは来なかった。
『体調大丈夫?』
既読。
返信できない。
二日目。
『無理しないでね』
既読。
三日目。
『待ってるよ』
既読。
全部読んだ。
でもレッスン場へ行けなかった。
胃は、もう痛くなかった。
熱もない。
身体は元気だった。
ただ。
心だけが、動かなかった。
◇
ベッドの中。
天井を見る。
――選ぶ理由は、あった。
嬉しかった。
何もないと思っていた自分にも、ようやくできた。
それなのに。
「……じゃあ」
声が震える。
「あと何をすればいいの?」
歌?
ダンス?
表情?
もっと練習?
もっと食べる?
「……それは違うか」
少しだけ笑った。
でも、すぐに涙が出た。
頑張れば、選ばれる?
夢が叶う?
報われる?
そんな約束、誰もしていない。
スタッフに言われた言葉が蘇る。
――努力していること自体を評価する世界ではないから。
あのときは、残酷な言葉にしか聞こえなかった。
今なら、少しだけ分かる。
努力が、意味のないものなのではない。
努力したから、ここまで来られた。
何もないと思っていた自分に、「選ぶ理由」ができた。
でも。
ここまで来られることと、選ばれることは違う。
「……分かってるよ」
布団を被る。
分かっている。
それでも、悔しかった。
◇
四日目。
まだ外が薄暗い時間。
こはるはレッスン場の前にいた。
来るつもりなんてなかった。
散歩するだけのつもりだった。
気づけば、ここにいた。
「……何してんだろ」
扉を開ける。
誰もいない。
鏡。
床。
スピーカー。
そして。
ゼロ番。
こはるは、そこを見つめた。
自主練で、こっそり初めて立った場所。
――私、センターになりたい。
あの日、
初めて口にした夢。
「……無理かもなあ」
呟く。
選抜にすら、入れなかった。
センターなんてもっと遠い。
それでも。
目を逸らせなかった。
◇
音楽を流す。
踊る。
身体が重い。
間違える。
止める。
もう一度。
また間違える。
「……下手だなあ」
笑った。
涙が落ちる。
「こんなにやったのに」
もう一度。
「選ばれなかった」
間違える。
「選ぶ理由はあるって言われたのに」
もう一度。
「それでも、ダメだった」
音楽を止める。
静寂。
鏡の中には泣いている自分。
「……やめようかな」
口にしてみる。
誰も答えない。
「向いてないし」
静寂。
「本番に弱いし」
何も起こらない。
「センターなんて、無理だし」
涙が落ちる。
「頑張っても、選ばれないし」
それでも。
こはるの手はリモコンへ伸びた。
そのことがおかしくて泣きながら笑った。
「……何やってんの、私」
音楽を最初へ戻す。
そのとき。
扉が開いた。
◇
「……いた」
真姫だった。
こはるが振り返る。
「おはよ」
「……おはよ」
それだけ。
真姫は、どうして三日休んだのか聞かなかった。
大丈夫?とも聞かなかった。
しばらく、こはるが踊るのを見ていた。
間違える。
止める。
戻す。
また踊る。
「まだやる?」
「うん」
「なんで?」
こはるは止まった。
前も真姫から同じことを聞かれた。
あのときは分からなかった。
ただ、諦めることができなかった。
でも。
今は。
「悔しい」
「うん」
「自信ない」
「うん」
「また選ばれないかもしれない」
「うん」
「ずっと後ろかもしれない」
「うん」
「センターなんて、できないかもしれない」
「うん」
「アイドル、向いてないかもしれない」
真姫は、それも否定しなかった。
こはるは、涙を拭いた。
そして。
ゼロ番を見る。
「でも」
鏡の中の自分を見る。
「それでも、アイドルでいたい」
少しの沈黙。
真姫が笑った。
「そっか」
「うん」
こはるも、少しだけ笑った。
「それに」
「うん?」
今度は、真姫を見る。
怖かった。
でも、
もう隠したくなかった。
「まだ、諦めてないから」
「何を?」
こはるは、
ゼロ番を指した。
真姫は、
何も言わなかった。
少しだけ笑う。
「じゃあ、やる?」
「うん」
真姫がリモコンへ手を伸ばす。
でも。
こはるが、その手を止めた。
「待って」
「ん?」
自分でリモコンを持つ。
「今日は、自分でやる」
真姫は少し驚いて、それから頷いた。
「うん」
こはるは音楽を最初まで戻した。
◇
やがて、一人が来た。
「おはよ……あ!」
また一人。
「こはる!」
「久しぶり!」
「三日だけどね」
また一人。
また一人。
いつの間にか、
鏡の前には16人がいた。
真姫。
莉歌。
歌の上手い子。
ダンスの上手い子。
話すのが上手い子。
人を惹きつける子。
15人。
ずっと、
自分にはないものを持っていると思っていた。
それは今も変わらない。
みんな、
やっぱりすごい。
でも。
鏡の中には自分もいる。
端でも。
選抜じゃなくても。
何度間違えても。
ちゃんと16人目として立っている。
そして。
いつか前へ行きたいと思っている自分も、
そこにいる。
◇
「差し入れあるよー!」
袋が掲げられる。
こはるの顔が反射的に上がった。
「何!?」
一斉に笑われる。
「復帰一発目それ?」
「元気じゃん!」
「何なの?」
「オムライス」
「食べる!」
即答。
真姫が呆れる。
「胃は?」
こはるは、
お腹に手を当てる。
「……ちょっと痛い」
「じゃあやめとけば?」
オムライスを見る。
胃を押さえる。
もう一度、オムライスを見る。
3秒。
「食べる」
「なんで!?」
こはるは笑った。
「久しぶりにみんなと食べるんだから――」
息を吸う。
「美味しいに決まってんだろーがよぉ!」
レッスン場に笑い声が響いた。
◇
こはるも笑った。
自信は、まだない。
歌も、ダンスも、まだまだ。
本番にも弱い。
次に選ばれる保証もない。
センターに立てる保証なんて、もっとない。
努力したって、報われないかもしれない。
それでも。
努力しなければ、「選ぶ理由がある」と言われるところまで来ることもできなかった。
そして。
センターになりたいなんて、夢を見ることさえできなかった。
こはるは鏡を見る。
15人のメンバー。
そして、その中にいる自分。
同じじゃなくていい。
誰かみたいにならなくていい。
歌で莉歌に勝てなくても。
真姫みたいに、今すぐゼロ番に立てなくても。
自分には、自分の歩き方がある。
遅くても。
不器用でも。
何度立ち止まっても。
また戻ってくればいい。
「こはる、レッスン始めるよ!」
「待って!」
慌てて立ち上がる。
「食べてから!」
「始まるって!」
「ちょっとくらい待ってくれてもいいだろーがよぉ!」
「早く!」
笑いながら、こはるは15人のところへ走った。
鏡の前。
今の、自分の立ち位置へ。
音楽が始まる。
右。
左。
ターン。
今度は――
できた。
思わず笑う。
ほんの少しだけ。
昨日の自分より、前へ進めた気がした。
曲の途中。
一瞬だけ、ゼロ番が目に入る。
まだ、遠い。
でも。
もう、自分とは関係のない場所ではない。
私は、まだ私がなりたいアイドルにはなれていない。
選抜にも入れなかった。
夢なんて叶うかどうか分からない。
それでも。
明日も、ここへ来る。
できなければ、もう一回。
選ばれなければ、もう一回。
本番で出せなければ、
次は出せるように。
泣いたって。
休んだって。
立ち止まったって。
それでも――
もう一回。
だって私は、
まだ、
あの場所に立ちたい。
そして何より。
それでも、アイドルになりたい。
ーー完ーー




