第1話:『白い部屋と万能の権利』
目が覚めると、そこは異様なほど無機質な空間だった。
「……う、頭が……」
浅野翔太は、こめかみに鈍い痛みを感じながら身を起こした。冷たい床の感触が、薄いスラックスの生地を通して肌に染みる。周囲を見渡すと、打ちっぱなしのコンクリートの壁。窓ひとつない密室。天井からは、眩しいほどに白いLEDの光が容赦なく降り注いでいる。部屋の中心には長机が置かれ、五つのデスクと椅子が、まるで試験会場のように整然と配置されていた。
「な、なにこれ? 誘枴?」
震える声が聞こえた。翔太の隣で、派手なメイクと派手な赤い髪色の若い女性が、自分の肩を抱くようにして縮こまっている。その目は、恐怖で見開かれ、涙で縁取られていた。
部屋にいるのは、翔太を含めて五人。隣の女性――派手な外見のわりに、今は子犬のように震えている。その向こうには、血走った目をぎょろつかせる中年サラリーマン。挙動不審に周囲を窺う、大柄な男。そして、一目で高そうなスーツを着ているが、顔面蒼白で今にも泣き出しそうな若い男。
「おい、俺のスマホがないぞ! パチンコ屋の駐車場で気絶したはずなのに!」
中年サラリーマンが、スーツのポケットを必死にまさぐりながら叫んだ。その声に呼応するかのように、他の者たちも自分の持ち物がないことに気づき始める。
「俺もだ」「私も……」という声が、小さく重なった。
その時だった。
ギィィン……。
耳障りな機械音が室内に響き渡り、正面の壁に埋め込まれた巨大なモニターが、ノイズを走らせながら発光した。画面に映し出されたのは、不気味な仮面をつけた人物のシルエット。その表情は伺い知れないが、口元の曲線が、まるで笑っているかのように歪んで見える。
『ようこそ、依存者の皆様』
ノイズの混じった変調音声が、スピーカーから部屋全体へと降り注ぐ。その声は奇妙に平坦で、だからこそ余計に薄気味悪かった。
『君たちは皆、己の欲望と依存によって人生を破滅させた敗北者だ。借金、失職、家庭崩壊……その行き着く先は、ただの野良犬のような死でしかない』
「な、なんだよ急に! 警察呼ぶぞ、ふざけんな!」
中年サラリーマンが顔を真っ赤にして怒鳴るが、モニターの人物は意に介さず、まるで台本を読み上げるかのように言葉を続けた。
『だが、安心したまえ。ここに集いし君たちには、一度だけ「人生を逆転するチャンス」を進呈する。この【断ち切り館】で行われるゲームを最後まで勝ち抜いた最後の一名には——どんな願いも一つだけ叶えられる、万能の権利を与えよう』
「万能の……権利……?」
翔太の喉が、思わずゴクリと鳴った。それは、生理的な反応だった。
『あらゆる借金の帳消し、失った名声の奪還、あるいは死者の蘇生すらも思いのままだ。……ただし』
仮面のシルエットが、くすくすと、まるで悪戯を思いついた子供のように笑う。その声は、ノイズ越しにもかかわらず、粘つくような不快感を伴って耳に張り付いた。
『ゲームのルールは至極単純。「我慢」することだ。ルールを説明しよう』
ピコン、という軽い電子音と共に、五人の首元に冷たい金属の感触が走った。いつの間にか、全員の首に重厚なリング状の首輪が装着されている。指で触れようとしても、隙間すらなく、まるで最初から体の一部だったかのようにぴったりと密着していた。
『脱落条件はただ一つ。デスクの上にある「自らの依存対象」に、制限時間内に触れてしまうこと。誘惑に負けて対象に手を伸ばした瞬間、首輪から致死量の毒針が射出され、即座に命を絶たれる』
「ひ……ひぃっ!?」
隣の女性が、引きつった悲鳴を上げた。大柄な男は無言で首輪を外そうともがくが、びくともしない。若い男は、ただ震えているだけだった。
『なお、誰かが脱落した場合、その場で新たな参加者が即座に補填される。そうして、最後の生き残りとなった者が勝者だ』
仮面の姿がフェードアウトし、モニターには巨大な赤いタイマーが表示された。その数字は、残酷なほどに鮮やかだ。
『第1章『欲望の着火』:制限時間 12:00』
ガチャン!
目の前のデスクの引き出しが、自動で勢いよく開く。五人の前に、「それぞれの欲望」が、目に見える形でせり上がってきた。それはまるで、個別に誂えられた拷問装置のように。
隣の女性――名前も知らない彼女の前には。
画面が絶え間なく光るスマートフォン。タイムラインには通知が滝のように流れ「いいね」の数字がリアルタイムでカウントされていく。彼女はそれを見て、喉を詰まらせた。
中年サラリーマンの前には、七色に輝くパチンコ実機。液晶画面には激熱リーチの演出がかかり保留ランプが今にも満タンに達しようとしている。彼の右手が無意識に空を切りハンドルを握る形に曲がった。
大柄な男の前には、冷えた特濃プロテインとエナジードリンク。結露で濡れた容器からは甘ったるい人工的な香りが立ち上り、筋トレ直後の乾いた喉を刺激する。
そして身なりは良いが怯えきっている若い男の前には、極上のウイスキー。カットグラスに注がれた琥珀色の液体が照明を浴びて妖しくきらめき熟成された芳醇な香りが周囲にまで漂ってくる。彼はそれを見た瞬間、顔を手で覆い、うめき声を漏らした。
そして――翔太の目の前に現れたのは。
画面中央に『期間限定ガチャ・SSR確率超UP』の文字が躍る、一台のスマートフォンだった。
(が……ガチャ……?)
翔太の全身の血が、一瞬で沸騰するのが分かった。動悸が早鐘を打ち、手のひらにじっとりと汗が滲む。これは、昨日、消費者金融から借りた金をすべてつぎ込み、それでも手に入らなかった限定キャラのピックアップ画面だ。あと数回、指で触れるだけで、あの脳汁が溢れる演出が始まる。虹色の演出、震える指、現実を全て忘れさせてくれる、あの快感が――。
『さあ、試練の始まりだ。己の欲望を断ち切り、生き残ってみせたまえ』
モニターの声が、追い打ちをかけるように響く。
タイマーの数字が、刻一刻と減り始める。
11:59……11:58……。
翔太は、自分の指が、無意識にスマートフォンへと伸びようとするのを、必死に抑え込んだ。指先が震える。まるで、目に見えない糸で引っ張られているかのように、スマホが自分を呼んでいる。隣では、中年サラリーマンが「う、うぅ……」と唸り声を上げ、パチンコ台のハンドルに手を伸ばしかけては、頭を抱えてうずくまっている。
地獄の12分間が、ついに幕を開けた。
翔太は、固く目を閉じた。瞼の裏に、ガチャの演出が焼き付いている。SSRの文字。眩い光。スマホから流れる、軽快で中毒性のある電子音が、頭の中でこだまする。指先が、机の縁を掻く。爪が、硬い木材を引っ掻く音だけが、やけに大きく聞こえた。
(たった12分……たった12分じゃないか……)
心の中で繰り返すが、その一言一句が、自分の弱さを証明しているようで、余計に苦しかった。




