第9話:『連鎖する自滅寸前』
00:58……00:57……。
吉野の指先がグラスの表面まであと1ミリに迫った瞬間、彼の首輪から甲高い警告音が鳴り響いた。
『ピピピピピ……ッ!』
「ううあぁぁあっ! まだ触ってない! 触ってません!!」
吉野は死の恐怖で完全に硬直した。指先はグラスに触れるか触れないか、まさに紙一重の距離で震えている。
幸いにも、まだ「グラスを持ち上げる」「飲む」という決定的な動作には至っていないため、毒針の注射は留まっている。だが、あと1ミリでも指を動かせば即死——まさに死の刃が首元に突き立てられた状態だった。
「吉野! 動くな! そのまま指を止めろッ!」
翔太が叫ぶ。しかし悲鳴を上げる吉野の隣で、さらなる狂気が爆発した。
「おい……おい動かすなよッ! 酒が零れるだろぉぉおっ!!」
荒井だ。
警告音に刺激された彼の脳は、もはや「死」の恐怖すら認識できていない。ただ目の前で揺れる吉野のグラス、その芳醇な黄金色の液体を奪うことだけに、全神経がハイジャックされていた。
ガタタタタッ!!
「飲まねぇなら俺に寄こせぇええっ!!」
荒井が椅子ごと吉野のデスクへと倒れ込むように身を乗り出す。太い腕が拘束を千切らんばかりに伸び、吉野のグラスを力ずくで引っ張り込もうとする。
(まずい……! 荒井がグラスに触れたら、吉野もろとも巻き込まれて爆死する!!)
残り時間50秒。
荒井の巨体を力で止める術はない。吉野はパニックで白目を剥きかけている。
(考えろ! 狂人に正論は通じない! こいつの脳内にある損得勘定——期待値を書き換えろ!!)
翔太は肺の空気をすべて絞り出すような声で、荒井の鼓膜へ怒号を叩きつけた。
「やめろ荒井ッ!! 今そのグラスに触ったら、お前が真っ先に毒針で殺されるぞ!!」
「あぁん!? うるせぇ! 酒を……!」
「計算しろ馬鹿野郎!!」
翔太の言葉が、荒井の獣のような思考を一瞬だけ撃ち抜く。
「お前が死んだらその酒は誰の物になる!? 運営に回収されて終わりだ! 一口も飲めずに、ただ犬死にするだけだ!! でも生きてここを出れば『万能の権利』が手に入るんだぞ! 何でも一つだけ願いが叶えられる! 一生飲み切れないほどの酒を用意させることだってできるんだ! 今ここで即死してすべてを失うのと、耐えて永遠の酒を手に入れるのと——どっちが得か、その壊れた頭で考えろッ!!」
「万能の権利……永遠の酒……?」
荒井の血走った目が、一瞬だけ泳いだ。
「酒を飲みたい」という絶対的な欲望に対し、翔太は「今飲むと永遠の酒が手に入らなくなる」という最大の不利益を突きつけたのだ。
「ぐ……あ…ガぁぁっ!!」
荒井の手が、吉野のグラスの数センチ手前でピタリと止まる。
頭を抱え込み、発狂しそうな呻き声を上げながらも、巨漢の動作が停止した。
00:35……00:34……。
「吉野! 今だ、手を引き剥がせッ!!」
翔太の叫びにハッと正気に戻った吉野が、泣き叫びながら指先をグラスから離した。
首輪の警告音が『ピピッ』と途絶える。
間一髪。崩壊の連鎖は食い止められた。
だが部屋に漂う空気は、すでに酸素すら薄く感じるほどに緊迫していた。
全員の呼吸は乱れ、全身から吹き出す汗が床を濡らす。
00:30……00:29……。
地獄の12分間は、本当の最終局面へと突入する。




