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第九話

 ライブハウスの扉を開けた瞬間、低く響くベース音が胸を震わせた。


 薄暗い照明。


 混ざり合う人の声。


 ステージを照らす眩しいライト。


 絵里は思わず足を止める。


「……すごい」


 こんな場所へ来るのは初めてだった。


 学校と家を往復するだけだった自分とは、まるで違う世界。


 俊哉はそんな絵里を見て、小さく笑った。


「緊張してる?」


「ちょっと……」


「大丈夫。怖くないよ」


 その言葉と同時に、俊哉がそっと絵里の手を引く。


 人混みではぐれないように。


 ただそれだけの理由なのに。


 触れられた場所から熱が広がっていく。


 ステージ近くまで進む。


 爆音。


 身体の奥まで響くドラム。


 観客達の歓声。


 絵里は圧倒されながらも、少しだけ胸が高鳴っていた。


「こういうの、初めて?」


 俊哉が耳元で訊く。


 近い。


 声が鼓膜を震わせるたび、心臓まで揺れる。


「……うん」


「そっか」


 俊哉は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、絵里の初めて、俺が貰った」


「っ……!」


 一瞬、息が止まりそうになる。


「そ、そういう言い方やめて!」


 絵里が真っ赤になって睨むと、俊哉は楽しそうに笑った。


 その笑顔を見ていると、怒る気力まで奪われる。


 ライブが始まる。


 ギターの音が会場を満たした。


 知らない曲。


 知らないバンド。


 なのに、不思議と嫌じゃなかった。


 隣で俊哉が楽しそうに音楽へ身体を揺らしている。


 その横顔を見ているだけで、胸が苦しくなる。


(好き……)


 ふと、そんな言葉が頭をよぎる。


 慌てて打ち消す。


 まだ早い。


 そんな簡単に。


 でも。


 俊哉が笑うたび。


 優しく触れるたび。


 心がどんどん傾いていく。


 ライブが終わる頃には、外はすっかり夜になっていた。


 駅前のネオンが街を彩っている。


「どうだった?」


 ライブハウスを出ながら俊哉が訊く。


「……楽しかった」


 本音だった。


 こんなに時間が過ぎるのが早いと思ったのは久しぶりだった。


 俊哉は少し満足そうに笑った。


「よかった」


 その時だった。


 俊哉のスマホが震える。


 画面を見た瞬間、俊哉の表情が少しだけ曇った。


「……ごめん」


「え?」


「ちょっと電話」


 俊哉はそう言うと、人通りの少ない場所へ離れていく。


 絵里はぼんやりその背中を見つめた。


 誰だろう。


 友達?


 家族?


 彼女――。


 その言葉が頭をよぎった瞬間、胸がざわつく。


(何考えてるの……)


 自分には関係ない。


 まだ付き合っているわけでもない。


 なのに。


 知らない誰かに嫉妬している自分がいた。


 しばらくして俊哉が戻ってくる。


 でも。


 どこか少しだけ疲れた顔をしていた。


「大丈夫?」


「……うん」


 俊哉は笑う。


 けれど、その笑顔は少しだけ無理をしているように見えた。


 絵里は胸の奥が痛くなる。


「ねぇ」


「え?」


「無理して笑わなくていいよ」


 思わず口から出ていた。


 俊哉は少し驚いた顔をした後、ふっと小さく笑う。


「絵里ってさ」


「……何?」


「本当に優しいね」


 その言葉が苦しい。


 優しくなんかない。


 ただ。


 この人の寂しそうな顔を見たくなかっただけだ。


 春の夜風が二人の間を吹き抜ける。


 その冷たさとは逆に、絵里の胸は痛いくらい熱かった。


 そして――。


 恋は少しずつ、“好き”だけでは済まない場所へ近づき始めていた。

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